HOME

パキスタン日記
 ラー イラーハ イッラッラーフ ムハンマド ラスール アッラー
 (アッラーの他に神はなし ムハンマドは神の使徒なり)

 というわけで、2001年2月23日から1週間、パキスタンに行ってきました。
 
 パキスタンは1947年にインドから分離したイスラム国家で、文化的には北インドとほぼ同じです。日本で「インド料理」の代表とされている「タンドゥーリーチキン」や「ナン」、「シシカバブー」などは、実際にはむしろパキスタン料理というべきでしょう。
 
 言語はパンジャービー語、パシュトゥン語、スィンディー語などいろいろありますが、公用語は一応ウルドゥー語です。ウルドゥー語は、ヒンディー語と90%同じと言われていますが、ヒンディーからサンスクリット系の言葉を引いて、イスラム系の言葉(アラビア語、トルコ語、ペルシャ語)を足したような感じです。文字はアラビア文字を使うので、私は話は多少できても、読み書きすることはできません。しかもヒンディーと違う10%の部分は、親族名称、挨拶、曜日といった基礎単語ばかりなので、最初は慣れるまでさっぱりわかりませんでした。
 今回は、日本で国際結婚をしたカップルの凱旋結婚式&ベビーお披露目のパーティーに出席するために、パキスタン・パンジャーブ州、ワジラバードという町に行って来ました。  (*登場人物の名前は仮名です)
P I A 入 国 イスラムの国
クサナギ 日本人村 ファンクションはランチ
出稼ぎ御殿 パパジーとの1日

成田発→北京→イスラマバード

イスラマバード→ワジラバード→ラホール→イスラマバード

イスラマバード→北京→東京





 1 イスラマバード(ワラルピンディー)
 2 ワジラバード
 3 ラホール
P I A


 時間通り成田空港に着くと、すでに他のメンバーが待っていた。
 今回パキスタンに行くのは、新郎のファキールさん、新婦のマリアム(=ムスリム名。日本人)さん、それから2人の子供で8ヶ月のシャールクちゃん、インド仲間であるハルコさんとマサコさん、マサコさんの配偶者ケンさんとわたしの7名である。
 マサコさんとケンさんは、アジアの雑貨を売る商売を始めたばかりで、今回の旅行も、仕入れを兼ねている。2人はマレーシアからパキスタンに入って、結婚式の後は陸路でインドから帰る予定なので、行きも帰りも別行動だ。

 それにしてもスゴイ荷物…。ファキールさんは前回パキスタンに帰ったとき、積み荷の重量オーバーで、7万円くらい追加料金を払ったという。今回もかなり多いので、一緒にチェックインさせて欲しいとのことだったが、この荷物はいったい何なんだ。スーツケース2個、でかいボストンバッグ3〜4個、バッグパック2個、紙おむつの山、ベビーカー、段ボール箱…。なんでもぎりぎりになって、栃木にいるおばさん(パキスタン人)から、3月に結婚する彼女の弟へ渡して欲しいと、10Kgのボストンバッグを1個押しつけられたらしい。紙おむつはパキスタンの方が高いし、ミルクも味が違うと飲まないというので、8ヶ月のシャールクちゃん用の荷物だけでも大変な量だ。

 ハルコさんと私はそれぞれ5kgくらいの荷物が1個だけなので、人数分となると重量的には余裕である。だいたい他の航空会社は、エコノミー客の荷物は20kgまでに制限しているが、PIA(パキスタン国際航空)は30KgまでOKなのだ。それにしても、どのパキスタン人もすごい量の荷物を持ってチェックインカウンターにやってくる。旅行というより引っ越しだ。イードという祭り前なので、飛行機は満席。満席×30Kg(以上)で本当に飛ぶんだろうか、この飛行機は?

 シャールクちゃんのベビーベッドを手に入れるため、他の乗客に先んじてチェックインしたのに、機内にベッドはないという。航空券はシャールクちゃんの分も購入してあるのだが、席は両親の分しかないので、ファキールさんとマリアムさんはかわりばんこにだっこするか、寝かしつけた後は立っているしかない。
 しかも4人一緒にチェックインしたはずなのに、ハルコさんと私は、ファキール一家とはかなり離れた席になってしまった。
 そしてパキスタン人スチュワーデスは、スッチーと呼ばれる日本人のきれいどころとは較べものにならない貫禄である。腰回りは100cmはありそうだし、いつも恐い顔をしているので、毛布ひとつ頼む勇気もない。

 飛行機旅行唯一の楽しみである食事時間がやってきた。ハルコさんと私は、2種類あったら別々に選んでみようか、それともチャイニーズはまずいとファキールさんが言っていたから、ふたりともパキスタン料理にしようか、とわくわくしながら相談していた。
 ところが、無愛想な恐いおばさん乗客員は、何も聞かずにトレーを置いていくだけ。中身は2人とも同じ、鶏の胸肉とジャガイモのような添え物。 ??
 1種類だけなのかな? それにしてもベジタリアンとかそういうのも聞かれなかったけど? 回りを見ると、長粒米とカレーのようなものを食べている人もいる。う〜む、日本人には鶏を配っているようだ。

 この料理がまたまずかった。ソースもまずいが、添え物が何だかわからない。3片ほど食べてから、ハルコさんに「これイモ?」と確認したくらい。デザートはおいしかったが、食事はほとんど残してしまった。

 しばらくしてシャールクちゃんに席を取られたファキールさんが暇つぶしにやってきた。

  「PIA、サイテーだよね。結局ベビーベッド、この飛行機に積んでいなかったんだって。しかもあんなに早く4人でチェックインしたのに、席はバラバラだし。赤ちゃんがいるから、せめて前にスペースがある席にして欲しいって言ったのに、乗り換えの北京までダメだって。ぜったい、レターで文句書いてやる!」
 
 ファキールさんは、パキスタン乗客員の前でぺらぺらの日本語で文句を言い続ける。

  「え、チャイニーズ食べちゃったの?まずいって言っておいたじゃない」

 あれがチャイニーズだとは思わなんだよ。

 成田からイスラマバードへは、北京経由で約14時間。パキスタンから成田へ到着した飛行機が、1時間後にはもう折り返し出発するので、清掃もいいかげんである。ハルコさんの席には機内誌がなかったし、私の機内誌はチョコレートとガムでべとべと…。イヤホンの調子も悪いし、映画もいまいち。夕食の時は隣の列からとりよせてパキスタン料理にありついたが、マリアムさんが言うには、中身は昼と同じだったという。

 食事以外には楽しみもないし、あまり退屈なので、ハルコさんと2人でウルドゥー語の読み方の練習を始めた。ウルドゥー語はアラビア文字で書いてあるが、単語はヒンディー語と同じ発音のはずなので、ひとつひとつ文字をおっていけば読めなくもない。ただし、西アジアの諸語によくあるのだが、語中の母音を表記しないケースもあるのでやっかいだ。ウルドゥー語の教科書を開いている我々をおもしろく思ったのか、年輩の乗客員(男性)が、後方の乗客員席に呼んで、ウルドゥーのレクチャーしてくれた。女性乗客員に較べると、男性乗客員は愛想がいい。

 途中で私の席のランプが壊れたので、アテンダントコールをした。むすっとしたスチュワーデスが来た。
 
  「壊れていますが、直すのは私の仕事ではありません。どうしても灯りが必要であれば、隣の席の方と変わりますか?」
 
 いえいえ結構です…と答えたが、夜寝た頃に、男性乗客員が、直しにきた。接触不良だったらしく、彼はたばこの箱の銀紙を接触面に貼ってランプをつけてくれた。う〜ん、でもまわりの乗客はみんな寝ていたみたいなんだけど。ランプが直って1時間もしないうちに、我々の目的地、イスラマバードに到着した。やれやれやっと解放されるか。でも帰りもPIAかと思うと今から気が重いな。

ページTOPへ戻る
入 国


 ああ、懐かしいにおい。飛行機から降りたとたん、インドと同じにおいがした。何か燃やしているような香ばしいにおい。少しよどんだような、まったりした空気。やっとパキスタンに着いた、という気にさせてくれるにおいである。

 今回は出発まで準備期間がなかったので、在日パキスタン大使館でヴィザをとる余裕がなかった。大使館の人は、『地球の歩き方』についているヴィザ申請用紙を拡大コピーするか、インターネットでダウンロードした用紙に必要事項を記入して、写真を添えれば、イスラマバードかカラチの空港で取得できるといっていたが、『地球の歩き方』にしてもパキスタン編は97年〜98年度が最新版で、以降出ていない。(*その後、2001〜2002年度版が出た)本当に現地でヴィザが取れるのか不安だが、とりあえず他に方法もないので書類は用意した。

 ところが空港に着くなり、まず入国カードを書けという。これって普通、着く前に飛行機の中でくれないか?まったくPIAってやつは…。ぶちぶち言いながらも書いていると、先に書き終えたファキールさんが、入国審査員と親しげに話をしている。どうも知り合いだったらしい。せっかく書いた入国カードはちらりとも見られることなく、そのまま受理された。入国審査はこれで終わりらしい。早くも機内預け荷物が出てきたが、さて、ヴィザの申請はどこでやるのだろう?ファキールさんの知り合いの入国審査員に聞いてみる。

  「え、ヴィザまだだった?」
 さっきパスポート見たでしょ、とつっこみたくなる。審査官はまるで初めて申請用紙を見るように、裏返したりしている。もしもし裏は白紙です〜。

  「OK」

 permissionと印刷された藁半紙に、今日の日付を書き入れたものがヴィザらしい。あまり簡単なのでかえって不安だ。

 荷物の受け取り後、両替をしようとするが「出迎えが来ているから」とファキールさんに止められる。到着日にヴィザ、両替、リコンファーム(帰りの予約確認)の事務作業は完了しておきたかったのだが、パキスタンの家族が待っているのでこちらの希望を通すわけにもいかない。はたしてゲートをくぐると、夜遅くにもかかわらず、ファキールさんの家族が出迎えに来ていた。

 ファキールさんのお母さん(ママジー)、お父さん(パパジー)、弟のラシードさん、お母さんの妹のヤスミンさんなどなど。お母さんには日本で2度会っているので、顔を見たらほっとした。マリアムさんとハルコさん、私のために、花束も用意してくれていた。こちらの花束は、羽子板のように三角形の形に花をまとめてラッピングしたものである。ファキールさんの実家、ワジラバードはイスラマ空港から車で3時間以上かかるので、今日はイスラマのヤスミンさんのお宅に一同泊めていただく。すでに日本時間でいうと深夜2時をまわっている。ヘトヘトだ。

 ヤスミンさんのお宅は豪邸だった。着くなり、ご飯を食べなさいという。すでに飛行機の中で夕食は済ませていたのだが、もちろん食べないことなど許されない。ありがたくチキンのカレー、マトンカレー、ラムカレー、長粒米の炊き込みご飯、サラダ、デザートをいただく。好物だが、日本では高価で、なかなか食べられないラムチョップがふんだんに入ったラムカレーは特においしかった。

ページTOPへ戻る
イスラムの国


 鶏の声がする。 
 鶏が朝、鳴くことを、日本では「時を告げる」というが、パキスタンでは「アザーン・デーナー(回教寺院から信徒にお祈りを呼びかける)」というんだったな…とぼんやり考えていると、本物のアザーン(コーランの1節)が聞こえてきた。スピーカーを通してかなり大きな音である。
 
 ああ、やっぱりパキスタンに来ていたんだ。せっかく出したヴィザの申請用紙と写真が、「また使えるから」と、そのまま戻ってきたのは夢ではなかったのね。

 それにしてもモスクが近いのか、アザーンはかなりうるさい。カルカッタのホテルで耳にしたときは実に美しい響きに感じたのだが。時計を見るとまだ朝の5時15分。ベッドにもぐってからまだ4時間ちょっとしか経っていない。もう一度寝ようと思うのだが、アザーンで起きたのか、鳥の声もうるさいし眠れたものではない。

 しかも今日はいろいろ事務作業をしなくてはいけない。リコンファームも換金もしていないのだ。土曜日は銀行が午前中で閉まるから、朝から動き出さなくては…。


 ハルコさんと私が寝てからも、パキスタン人の家族タイムは延々と続いていたらしく、ファキールさんはなかなか起きてこなかった。ようやく起きてきたので、食事が終わったら銀行に連れて行ってほしいと頼んでみる。車で町まで連れて行ってくれれば、自分で換金もリコンファームもするから、と。

 ところが女性だけでは銀行に入れない、というのだ。もちろんそういう規則があるわけではない。女性だけで換金したり、リコンファームするのは、パキスタンでは「ヘン」だというのだ。はぁ〜そういうもんですか…。
 しかたがないので、いちいちファキールさんと、親戚につきあってもらい、事務作業をする。インドで経験してわかっていたことだが、換金や予約確認といった事務作業は、外国人である我々が自分でやった方が早い。自国人(インド人やパキスタン人)がからむと、めんどうになるだけでなく、かえって時間がかかることが多い。今回もそうであった。換金、予約確認、機内の忘れ物の申告(ファキールさんが忘れた)の3つの作業をするだけで5時間ちかくかかってしまった。しかも換金は銀行が閉まった後だったので、町の両替屋で行い、バンクレシートがもらえなかっった。

 ヤスミンさんの家に帰ってみると、お父さんとお母さん(パパジーとママジー)はしびれをきらせて一足先にワジラバードに帰った後だった。我々も昼食を済ませ、ワジラバードに向かった。

 イスラマ(ラワルピンディ)からワジラバードは車で約3〜4時間の距離である。2〜3年前に軍事政権になってから、急ピッチで道路工事をしているらしく、ほとんどは舗装された快適な道路であった。
 イスラマバードはパキスタンの首都だが、インドの首都デリーに較べると、人も少なくあっさりしている。騒音も客引きも物乞いもゴミも人口に比例して少ない。町中で女性を見ることはほとんどない。車の中にいても、我々女性3人は珍しそうに覗かれる。やはりここはイスラムの国なのだ。

 途中、ガス欠になりながらも無事ワジラバードに着いた。ファキールさんは、一足先に着いていたパパジー、ママジーから、あんなに遅くまでイスラマにいたのに観光にも連れて行ってあげなかったの、とかせめられていた。以降、ファキールさんにとって、パキスタン人と日本人の間で通訳と調停をするという、苦難の日々が続くのであった。日本人のためにミネラルウォーター2ケースとトイレットペーパーが用意されていたが、真っ先にお腹を壊したのはパキスタン人のファキールさんだった。神経性のものかも…。

ページTOPへ戻る
クサナギ


 ワジラバード第1夜はほとんど眠れなかった。
 ファキールさんの家は、こざっぱりときれいな近代的な家で、ハルコさんと私は、その中で一番いい部屋を与えられたのだが、熟睡することはできなかった。シャワールームはその部屋の外側にあったので、我々が寝てからも、シャワーを浴びるために家族の誰かがしょっちゅう部屋を通り過ぎたのだ。しかも温水を出すたびに、ヒーターが枕元でゴンゴン鳴る。そしてようやく家族全員が就寝したと思ったら、またアザーンが…。
 
 このままでは睡眠不足で倒れてしまう。思いきって、ファキールさんにホテルに1泊させてくれるようお願いした。

  「せっかくパキスタンに来たけど、時間がないから、ハラッパーやモエンジョダロはとても行けないじゃない?ラホールはワジラバードから1時間くらいだって言っていたから、ハルコさんと私はラホール観光して、そこに1泊しようかと思うの。今日泊まって、明日暗くなる前にはワジラバードに帰ってくるから。ね?」

  「二人で?…僕はいいんだけど、お父さんが何て言うか…」

 さっそく家族会議。日本からはるばる来た、嫁の友達をもてなすのは、我々の義務である。しかし女ふたりだけでラホールに行かせるわけにはいかない…てなことを話しているらしい。
 
 我々3人は、それぞれ1人だけでインドを旅行したことがある,、バックパッカーである。1泊数百円の安宿に泊まったこともあるし、ホテルが見つからなければ駅で一夜を明かしたこともある。日が暮れてからは外に出ないなど、旅の基本はわかっているつもりだ。

  「わかった。運転手のファルークさんと、僕とマリアムも一緒に行くよ。2人がホテルにチェックインするのを見届けてから、ファルークさんと車を2人に残して、俺とマリアムはバスで帰ってくるから」

 乳飲み子のシャールクちゃんをママジーに預けてまで、ラホールに付いてきてくれるという。2人だけでバスでラホールに行ける、と言ってみたが、パパジーのOKが出ないのでありがたく車で連れて行って貰うことにした。


 ラホールは美しい町だ。ムガル王朝の城、モスク、ダルガー(聖者の墓)、ヴィクトリア王朝風の建物、そして独立後建てられた大学や博物館などが、比較的コンパクトに観光しやすい場所にある。我々はパキスタンに来て初めての、そして、おそらく最後になるであろう観光を楽しんだ。
 ラホール城では、かわいい女子高校生と引率のお母さんの団体に会い、記念撮影などをした。どこの国でも女子高生は好奇心旺盛でキャピキャピしている。我々はごくフツーの日本人観光客なのに、手のひらにサインして!と頼まれ、名前を書いたりした。?

 ラホール城の向かいにあるバードシャー・モスクで、『地球の歩き方・パキスタン』を広げている日本人女性がいた。モスクの中だっていうのに、半袖で頭も隠していない。そのうち、複数のパキスタン人男性と並んで写真を撮り始めた。

  「あんたたち何しているの?!」

 とファキールさんがパキスタン人男性を追い払った。聞けば、その日本人女性は、パキスタン人の友人を訪ねてラホールに来たのだが、彼は1日つきあっただけで、今日は放っておかれたので、思い切って1人で観光しているのという。正義感の強いファキールさんは、『パキスタン人の風上にもおけない』と憤るし、我々もこのまま彼女を1人にしておく気にはなれなかったので、昼食に誘った。

  「…パキスタンって人が多いですね。わーっと来て、びっくりしちゃって…」

  「え、そうですか?むしろスカスカして歩きやすい感じだったけど」
 我々3人はインドの洗礼を受けているので誰も同意しない。

  「ほこりっぽいし、ゴミも多くてすごく汚いし…」
 パキスタン人のファキールさんの前でそーゆーこと言うか〜? 
 
 その日本人女性「クサナギさん」は、今回が初めての海外旅行なのに、直行便ではなくて、わざわざバンコックで乗り換えて来たので、パキスタンにいられるのは正味4日間だけなのだという。なぜか会社には海外旅行ではなくて、『東京の叔母の家に遊びに行くから』と休暇申請をしてきたんだそうだ。見た目でいうと45歳は超えていそうだが、いかにも頼りない。だんだんみんな声を掛けたことを後悔し始めてきた。日本語で聞いても、とんちんかんな答えが返って来るばかり。食事を済ませて、いらないと言っているのに、自分の食事代を公衆の面前で払おうとするので、ファキールさんはとうとう切れてしまった。
 
 パキスタン人は割り勘というものをしない。人前でお金を出して計算するのはみっともないし、危ないと思っているのだ。払うときは誰かがまとめて一括で払う。他の人はその場ではだまってごちそうになり、次の機会に自分が他の人の分もまとめて払う。女性はお金を払うことはない。一緒にいる男性が払うのだ。それがパキスタン風マナーなので、我々はファキールさんといるときは1ルピーも払ったことがない。

 それなのにクサナギは、人前でパキスタン人のファキールさんにお金を押しつけようとするのだ。パキスタン人男のプライドはずたずたである。我々日本人女性も、ほとほと疲れてしまった。これはめんどくさい女だから、ホテルの近くまで送って別れよう、ということになった。それでも紳士のファキールさんは、「何か困った事があったら、僕の実家に電話をください」と電話番号と住所を渡したのに、クサナギは「私はホリディ・インの305号室に泊まっているクサナギです」としか言わない。

 結局その日もラホールに泊まることはできなかった。
 途中ワジラバードに電話を入れたら、パパジーにこっぴどく怒られて、もしファキールさんとマリアムさんだけ帰ってきたら、その足で日本人2人を迎えにラホールに戻す、という脅しがはいったのである。クサナギに気力を奪われたハルコさんと私はあきらめてワジラバードに帰ることにした。

 ハルコさんの名文句。
 「クサナギさんのことは、いいことをしたと思ってあきらめましょう」

 以降、ぼーっとしていると、すかさず「クサナギ!」と攻められることとなった。


 それにしてもあのVIPルームでは一睡もできない、という我々の訴えを聞いて、ハルコさんと私は、弟のラシードさんの奥さん、ファテマちゃんの実家(ファキールさんの家の隣)の1室に寝泊まりさせてもらうことになった。

ページTOPへ戻る
日本人村


 きのうはファテマちゃんの実家でようやくぐっすり眠れた。夕飯も食べずに8時半にはもう寝付いたのだが、途中でファテマちゃんのお母さんとファテマちゃんが布団をはぎに来た。 

  「これはファテマの毛布だから、こっちにかえてね…」
 とか何とか言っていたような気がするが、疲れていたので、起きあがれず、寝たままで毛布を交換していったようだ。


 今日はワジラバードのバザールにママジー、マリアムさん、ハルコさんと4人でお買い物。近所のバザールくらいなら、男がいなくても女だけで行ってもいいのだ。ただし複数。女が単独で行動するのはいけないらしい。明日の結婚式に着る衣装をママジーに買って貰う。
 
 バザールから戻ると、マサコさんとケンさんが到着していた。クアラランプールからカラチに入って、カラチからラホールまでバス、ラホールからワジラバードまで自力でバスに乗って来たらしい。長時間バスに乗っていたはずだが、ホテルでぐっすり寝たとかで、ハルコさんと私よりずっと元気だ。暇つぶしに、ラシードさん、ママジーの一番年下の妹、アーシャーさん、マサコさん、ケンさん、ハルコさんともう一度バザールに行く。

 途中、アーシャーさんが美容院で髪を切るというので、ケンさんとラシードさんを放っておいて女4人で美容院に行く。(ケンさんがウルドゥー語が一言もわからないのを忘れていた)
 美容院ではちょうど花嫁さんがメイクをしているところだった。料金表を見ると、髪の毛のカットが65ルピーなのに、ブライダルメイクアップは3,500ルピー。パキスタンのブライダルメイクアップはあまりいただけない。もともと顔立ちが濃いのに、化粧をいっぱいするので、年より老けて見える。

 帰ると、ファキールさんの家と、隣のファテマちゃんの実家に電球で飾り付けをしていた。家がある前の道も100m以上にわたって電飾してある。今夜は結婚式の前夜祭で、方々から親戚が来ていた。

 ファキールさんの家の前の家も、親戚一同の宿泊場になっている。夕飯は、その家の広い庭でビュッフェスタイルで会食。私はとうとうお腹をこわしてしまったが、今日もおいしいごちそうである。しかしパキスタンに来てから、毎日チキンとマトン。野菜カレーは食べないのだろうか?
 
 夕食後はダンスパーティ。といっても、ダンスは使用人にさせて、ご祝儀を配るのが目的らしい。気楽な我々日本人ゲストは、そういう風習も知らず、言われるままに怪しげなダンスを披露した。
 
 マサコさんとケンさんも我々の部屋に合流。ようやく日本語だけで足りる空間が確保された。「ここは安全」といって、ファキールさんやマリアムさんもパキスタン人から逃れて日本人部屋にやってくる。どうやら親戚がどんどんやってきて、ファキールさんの家では大変なことになっているらしい。

ページTOPへ戻る
ファンクションはランチ


 いよいよ結婚式当日。
 朝からメーメー声がする。偵察に行ったケンさんが戻ってきた。
  「ファキールさんの家で羊の解体やっているよ」
 
 いやがるハルコさんを残し、マサコさんと私は、カメラを片手に飛び出した。
 すでに羊の解体はほとんど終わっていた。全部で9頭買って、かわいいから来年に回そう、とラシードさんが提案し、1頭残されたらしい。まだ1頭はむくむくのウールの毛皮を剥いでいる途中だった。黄金の羊の毛皮の話を思い出した。それにしてもさすがはプロの仕事である。8頭解体したのに、においもなく、肉片にも血はほとんどついていない。


 そうこうしている間に、結婚式会場に行く時間になった。結婚式といっても、ファキール&マリアムさんも、ラシードさん&ファテマちゃんも、結婚の誓約自体はすんでいて、すでにそれぞれ1児の親であるので、今回は子供達のお披露目が主な目的である。ファキールさん&マリアムさんの長男シャールクちゃんと、ラシードさん&ファテマちゃんの長男アミールちゃんは、3日しか誕生日が違わない、いとこ同士だ。半年前におばあちゃん(ママジーのママ)が亡くなったばかりなので、今回の式も派手にできないとのことであった。

 それでもゲストは総勢600名近く来た。(マリアムさんによると、みんな日本人を見に来たのだそうだ)ただしパキスタンはイスラムの国なので、男と女はパーティ会場も別々。ケンさんはファキールさんとラシードさんは男側の会場へ、我々と子供は女側の会場に別れた。女性会場にはステージがあって、マリアムさんとファテマちゃんがそれぞれ子供を抱いて座っている。ママジーは、会計係の女性を何人か連れて、ステージでご祝儀を受け付けている。後でマリアムさんに聞いたのだが、たくさんお祝儀を持ってきた人がいると、ママジーが半分返したりして、なかなかおもしろかったらしい。

 我々日本人3人は、パキスタン女性の好奇心を満たす任務を、それぞれ遂行。マサコさんは子供にモテモテ、ハルコさんは若い女性に囲まれている。私の担当は40代以上のおばさま・おばあさま方。おばあさま方は、ウルドゥーではなく、パンジャビー語を話すので困った。

 それにしても、ステージの上ではお祝いを受け付けているが、他には何も催し物がないのだろうか? 他に催し物は何かあるの?という私に、着飾ったおばさまの1人が答えた。「あるわよ。ランチよ」
 ランチって催し物??

 始まって2時間くらい経過した頃、センターのテーブルに置いてあったごちそうの黄金のふたが開いた。

 そのとたん、今まで我々をちやほやしていたゲスト達は、一斉にごちそうに飛びかかっていった。
 まさに「飛びかかっていった」のである。日本でいうと、バーゲン会場が一番近いだろうか。食べ終わって骨になったチキンが空中を飛ぶ。ハルコさんのおニューのドレスは、おばさまの1人に指を拭かれた。私も、おばさまの胸だか腹だかに、はねとばされてしまった。ごちそうにはとうてい近寄れないし、危険なので、我々3人はステージの上に避難した。一瞬呆然と立ちすくんだが、次の瞬間3人ともカメラを構えた。

 これはまさしくファンクションである。

 女性会場の入り口に立ちすくんで入れないファキールさんを発見。ファキールさんも、写真をバチバチ撮っている我々に気づいたらしい。

  「スゴイでしょ。パキスタン人おかしいよ。俺、恥ずかしいよ〜」
 とがっくりしている。着飾った女性達は我々にも主役(ファキールさん)にも気づかずに食べ続けている。すでに床は残飯でべちゃべちゃ。テーブルの上にも使用後のお皿がどんどん積み重ねられていく。

  「食べられた?食べられないよね…」と我々を気遣うファキールさん。我々は見ているだけでお腹がいっぱいだ。

 後でケンさんもやってきた。男会場は、赤ちゃんもいないので、ご祝儀のやりとりもなく、ただ2時間雑談していただけだという。そしてやはり金色のふたが開いたとたん、ざーっとご飯がなくなったのだという。

  「男の会場の方がすごいよ。床なんてぐちゃぐちゃで、ヘタに歩けない」


 食欲を満たした女達にホスピタリティが戻ってきた。

  「少しは召し上がったの?ハイ、お皿」
 なんて取ってくれるが、私は見てしまったのだ。空を飛ぶチキンの骨、床に投げ捨てた皿…。
 ようやく残飯化したごちそうにありつけた。さすがにいろいろな種類があったらしい。ご飯だけでも5種類。チキンのカレーが3〜4種類、マトンも同じくらいあった。ヨーグルトやサラダも食べたかったが、もうぐちゃぐちゃになっていて、皿に取り分けたくはなかった。マトンの内臓のカレーは初めて食べたが、さすが新鮮なものだけにとてもおいしかった。
 
ページTOPへ戻る
出稼ぎ御殿


 結婚式の翌日、マサコさんとケンさんは、ペシャーワルに旅立っていった。ペシャーワルで仕入れをした後、ラホールに戻り、ワガーから陸路でインドのアムリットサルへ行くらしい。うらやましい…。せっかくパキスタンに来たのに、ハルコさんと私はぜんぜん『旅』をしていない。上げ膳据え膳で、今日はアーシャーさんのお宅におよばれの予定だ。

 アーシャーさんの家は、ワジラバードから車で15分離れた、グジラートという町にある。グジラートのバザールはワジラバードのバザールより大きい。
 せめて自分のお金で少しは買い物もしてみたい!と訴えて、ようやく1時間半ほど2人だけの自由時間を手に入れた。とはいうものの、ハルコさんも私もどちらかというと買い物嫌い。物欲少なし、のタイプなので、特に自分用に欲しいものはない。しかたないので、これから訪問するアーシャーさん宅へのお土産と、ワジラバードで帰りを待つママジーへのお土産を購入した。

 郵便局を見つけたので、局員さんに頼んで、パパジーとママジーへの感謝の手紙を書いてもらった。我々はウルドゥーをしゃべれるが、書けないのである。親切な局員さんは、手紙を書いてくれて、便箋も封筒も提供してくれたのに、切手代を受け取ろうとしない。パキスタンの男はあくまでも女からお金を受け取らないのである。しかたないので、ボールペンを置いてきた。(文房具屋の名前のはいったタダのボールペン)

 
 アーシャーさんのおうちも豪勢だった。夫婦の部屋の家具は全部金色のお揃いで、日本円で50万円以上もするそうだ。
 そして料理のおいしかったこと!アーシャーさんのご主人はドイツで数年間、コックさんをしていたそうで、当時の写真を見ると、ブライアン・フェリーか、ジョン・ヴォイトかというくらい渋いハンサムである。結婚3年年目の今は、その後体重が20Kgほど増えたせいか、別人のようだ…。

 とにかく料理は本当においしかった。サラダだけで4種類、ご飯類が2種類、つまみが2〜3種類、カレーが4種類、デザートが2種類である。パキスタンに入ってから食べた料理はどれもとてもおいしかったが、とにかく鶏とマトン、ラム、牛肉と肉続きだったので、アーシャーさんのご主人の野菜料理はとても嬉しかった。その後、「グリーン・ティ」という名前のピンクのお茶もいただいたが、これも初めての味。
 
 そろそろおいとましようとすると、近所の親戚の家に寄っていけという。パキスタンでは、手みやげなしで他人の家を訪問することは恥ずかしいことで、我々はその家の分の手みやげを持ってきていなかったので躊躇したが、どうしても寄っていきなさいという。
 その家はまた、見たこともないくらい豪華な家だった。イスラマのヤスミンさんの家も小さなホテルかと思うくらいの作りだったが、この家はさらにすごい。この家の持ち主は、10年間ノルウェーのホテルで受付係をしていたというおじいちゃんだった。

  「そこはとても寒いところでした。外に出て3歩行くと、私のひげはもう凍りついたものです…」と、ゆったりした英語でおじいちゃんは思い出話を始めた。そうこうしていると、アーシャーさんのご主人が、「スープ飲まない?」と2種類のスープを持ってきた。なんだか夫が懐かしい。

 私は2日前からお腹を壊していたのに、この日はあれだけ食べたのにもかかわらず平気だった。

ページTOPへ戻る
パパジーとの1日


 いよいよ日本に帰る日がやってきた。そういえば今朝はアザーンで起こされなかった。最後の日になってようやく慣れたか…。

 この日、3月1日は、ワジラバードで盛大な凧あげ祭りが行われるらしい。
 そういえばファキールさんは、パキスタンに帰国した日から、凧の話ばっかりしていたな。朝から屋上で、パパジーと息子達は凧あげの練習。ラシードさんは、凧を6万円分も買っていたらしい。でもパキスタン人はみんな凧あげが好きなので、お父さんも息子を叱れないのだそうだ。パパジーはファキールさんと凧あげをしながら、「ファキールも昔は小さくてかわいかったのに、シシシカバブをたくさん食べてこんなに大きくなってしまって…」などと言っている。(ファキールさんは185cm、108kg)
 パキスタンの凧あげは、凧ファイトだ。勝負をしかけて、どちらか一方が落ちるまで戦う。相手の凧を落とすために、ガラスでコーティングした糸なども使う。
 
 イスラマの空港にはパパジーと運転手のイクバルさんに送ってもらうことになった。ファテマちゃんの一番上のお姉さん、ナギーラさんも途中まで一緒だ。

 途中、イスラマのファイサル・モスクに連れて行ってもらう。モスクといえば、ネギ坊主型のドームが一般的だが、このモスクはちょっと変わっている。多面体を半分に切ったような形で、4本のミナールはロケットのような形。サウジアラビアのファイサル国王の援助で作られた世界最大規模のモスクのひとつである。こんなところにもイスラム圏の政治的思惑が反映されている。

 パパジーは熱心なイスラム教徒で、モスクに連れてきてもらうには最高のガイドさんである。礼拝をする前に、足や顔を洗う簡易シャワーが珍しい。礼拝場には巨大なデジタル時計があった。

 日本に帰る飛行機の出発は夜11時近くだが、夜遅くまで町中にいるのも物騒なので、7時には空港に送ってもらった。ところが、8時半までロビーに入れないという。なんで〜?
 ワジラバードまでは、ここから急いでも3時間以上かかる。ハルコさんと私は、空港ビルの2階の喫茶店でお茶を飲みながら8時半まで待つから、どうぞパパジー達はワジラバードに戻ってください、とお別れの挨拶をした。

  「そんなことはできない。2人が空港のゲートをくぐるところをこの目で確かめなくては戻れない。たった1時間半だ。車の中でおしゃべりして待っていよう」

 それからの1時間半は試練であった。

 パパジーはガチガチのモスリム。ファキールさんの話によれば、最近では商売もやめて、信仰一筋の生活を送っているらしい。そのパパジーとのおしゃべりといえば、もちろん話題はアッラーの神様のことばかり…。
 ハルコさんと私はヒンディー語を習っているので、ウルドゥー語の日常会話は多少できる。パキスタンに入ってからは、英語はほとんど使うことなく、ファキールさんの通訳の助けを借りながらも、なんとか自力で会話をしてきた。しかしアッラーに関する単語はほとんど「アラビア語」なのだ!

 ムスリムには6つの信じるべきことと5つの実践するべき行為がある。礼拝は実践する行為の1つだが、1日に5回あって、それぞれ呼び名が違う…といった話で、それぞれの固有名詞はアラビア語である。

 話題を変えようとすると、「今は私の話を聞きなさい」とたしなめられ、おとなしくしていると、「今の話はわかったかね?自分の言葉で繰り返して言ってご覧なさい」と復習を求められる。1時間半の濃い〜レクチャーのおかげで、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり」をアラビア語で言えるようになった。

 ようやく8時半になり、解放された時には、ほっとして涙がにじんでしまった。その涙を別れを惜しむ涙と勘違いしてくれたのか、パパジーは最後までやさしかった。

  「君たち2人は今や私の娘も同然だ。いいか、日本に帰ってからも、ハラールした肉以外は食べちゃいかんよ。いつもいい言葉を使うように。悪い言葉を使うと悪魔が入ってくるのだから…」
 
 パパジーは我々がゲートの中に消えるまで、ありがたい言葉をかけ続けてくれたのだった。
 ゲートをくぐると、そこはすぐ税関で、バッグの中身を全部見せろという。そんなこといわれた国は、今までひとつもなかった。暇なパキスタンの税関は、下着の入っている袋までチェックしたので、ハルコさんと私はかんかんに怒った。

  「暇なのぞき見野郎! そこまでする? さっき通ったパキスタン人の荷物は全然チェックしなかったじゃないの? 変態! いいかげんにしてよねー!」

 日本語だとこうもすらすら文句が言えるものだろうか。かくしてありがたいパパジーの教えは、2分ももたなかったのである。

(終)
ページTOPへ戻る