「親戚巡礼」 | ||||||||||
(*登場人物の名前は仮名です) | ||||||||||
成田発→バンコック→デリー デリー→アーメーダバード→ドゥルグ→バルガル→ヴィサカパトナム→ドゥルグ→プネー→アウランガーバード(アジャンター、エローラ)→ムンバイ ムンバイ→成田 1 デリー 2 アーメーダバード 3 ドゥルグ 4 バルガル 5 ヴィサカパトナム 6 プネー 7 アウランガーバード 8 ムンバイ |
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インド行き 仕事を辞めたら、すぐにでもインドに行きたいと思っていた。インドが乾期で旅行しやすく、航空券代も安い2005年の11月頃に行こうと計画をたてていたが、2006年3月に来日公演が決まっている、ローリング・ストーンズのチケット発売を待つうちに、すっかり遅くなってしまった。 ストーンズのチケット入手は非常に困難だ。ネット予約、電話予約で良席が取れる確率は限りなくゼロに近い。情報をこまめにチェックし、あらゆるツテを使い、取り乱し、走り回りながら、大金をはたかないと、いい席は手にはいらない。3年前の来日公演は、こうやって6公演全部をアリーナで見ることができた。ストーンズが本当に好きで、余裕がある人じゃないと、こんなことはできない。つまり、ストーンズのチケットは、他人には頼めない。 ジリジリと待ちに待って2006年1月。ようやくストーンズのチケットの売出が始まった。追加公演もあるはず…と、さらにイライラしながら2月まで待っていたが、ラチがあかない。このままだと、ストーンズが来日してしまう!…ということで、申し込んだストーンズのチケットが届くのも、追加公演が決定するのも待てずに、インドに出かけることになった。 今回は、インド家庭料理の作り方を習いたいと思っていたので、最低でも2週間以上は滞在したかった。私が最初にインドに行った20年前と比べると、カレー・ライスではない、インド料理を出す店は飛躍的に増えたが、大体がタンドリー・チキンなどがウリのノンベジ(non-vegetable)レストランだ。タンドリー・チキンやマトン・ビリヤーニもおいしいが、やっぱりインド料理は、野菜料理がおいしい。どこの国でもそうだと思うが、レストランで出てくる料理は、しょせん家庭料理にはかなわない。20年来のおつきあいになるマカーニー家は、完全なベジタリアン(菜食主義)で、そこで食べた料理のほとんどは、日本のインドレストランのメニューにはない。インド料理の本などを取り寄せ、自分なりに作ってはみたが、もっと色々なメニューを知りたかった。 行く、と決めたら早いほうがいい。3月後半にはストーンズが来るのだ。それまでに帰って来られるようにしなくては。 航空券の空き状況を確認し、家庭料理を習おうとしている、マカーニー家に連絡。マカーニー家とは、20年前にアーメーダバード駅の待合室で会って以来のつき合いだ。もともとの文通相手、ラーダーちゃんはMBA取得のため、アメリカの大学に通っていて、今回はインドに帰れないというのに、ずうずうしくお邪魔することになった。今回も土産を詰めたトランクを引きずっていくので、インド入国後、デリーからまっすぐマカーニー家のあるドゥルグに行く予定。プネーに住んでいるゴーヴィンドにメールで日程を知らせ、その後の旅行相談にのってもらう。インド人は基本的に旅行好きなのか、忙しい仕事の合間を縫って、あれこれと具体的なアドバイスを送ってくれる。 ところが出発3日前、家長から電話があった。 「悪い。とーこの到着予定日に、娘の結婚話をしにグジャラート州に行くことになった」 「えー。みんな出かけちゃうの?到着予定日を1週間遅らせましょうか?アーメーダバードに行こうと思っていたから、そっちを先に回ってからドゥルグに行きますよ」 「アーメーダバードならグジャラート州なんだから、途中で合流しよう。一緒に寺参りしよう。いい寺がいっぱいあって楽しいぞ」 やだよ。待ち合わせなんてそんな複雑なこと…。だいたい合流したら、私が行きたいところなんて行けなくなりそう。私が行きたいのは寺じゃなくて、博物館と遺跡だ。 「いえいえ…、大事な結婚話ですから、そちらを優先してください」 というわけで、せっかくゴーヴィンドが綿密にたててくれたスケジュールは一から見直し。デリーから入って、アーメーダバード、ドゥルグに行き、その後アウランガバード、ムンバイに向かうコースに変更する。 ページTOPへ戻る |
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早くもインドペース 料理を習う以外に、今回はアーメーダバードと、エローラ・アジャンターに行きたかった。どちらもインドの西側にあるので、ムンバイから行くのが便利だが、去年オープンした「アクシャルダム」という巨大なお寺と、地下鉄を見たくて、デリーに滞在する予定も入れた。アクシャルダムというのは、20年来のインド人の友人、ラーダーちゃんの婚家の信仰する、スワミナラヤン教のお寺。豪華絢爛な造り、マックスシアターでの上映会や、光のショーなどで、オープン以来、インドでも話題になっていた。 地下鉄はコルカーターについで、インド国内では2番目にできたもので、安くて快適との評判であった。 と、いうわけで、デリー・イン、ムンバイ・アウトの航空券を予約したが、なかなか届かない。日本とインドのビジネスが盛んになり、ビジネスの拠点地ムンバイ=東京間の便の需要が増えてきたというのに、1月以降、ムンバイ発東京行きの便の運行が減ってしまったらしい。ようやく航空券が届いたのは出発前日。この旅行代理店を使うのは今回で3回目だが、次回は変えてみよう。 出発当日。通勤時間帯で荷物も多いので、750円も出してグリーン車に乗ったというのに、人身事故のため、大宮駅で電車が止まってしまった。しかたがないので、大宮から新幹線を使い上野へ。通常820円で行けるところが、グリーン車券+新幹線代を加えて、片道2,410円もかかってしまった。新幹線を使い、なんとか京成線の上野駅にたどりつく。運良く特急があったので、スカイライナーを使わずに、1000円で成田空港まで行ける。エアー・インディアの出発ロビーのある成田空港第二ビルには10時すぎに着いた。海外で使える携帯電話を借りたりして、余裕のチェック・イン。ところが、11時半を過ぎても、搭乗が始まらない。 「整備のため出発が遅れています。整備終了時間は未定です。1時になったら、状況を再度アナウンスしますので、ロビーにお集まりください。」 またか。まったくエアー・インディアは遅延が多い。空港内のふたつのレストランで使える1500円分の食事券を出してくれたが、どちらの店にも菜食主義のインド人が食べられそうなものはほとんどない。1時になり、ふたたびロビーに行ったが、結局出発したのは2時半過ぎ。作家の五木寛之氏も同じ便でインドにいくらしい。取材コーディネーターらしき人から遅延の説明を受けていたが、他のツアー客と違い、イライラすることもなく、落ち着いていた。搭乗アナウンスというほどのこともなく、バタバタと搭乗手続きが始まったので、宿泊予定のホテルに、到着予定時間変更の連絡をするヒマもなかった。 ページTOPへ戻る |
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デリー観光1日目 到着が3時間遅れたにもかかわらず、出迎えの車が待っていた。ホテルは、「日本語OK」の、ゴニトラベルという旅行会社を通じて予約した。日本から予約できるところは、安くても$50以上、ほとんどは$100〜$150程度の高めのホテルがほとんどだが、ここは、空港への出迎え付き1泊4,800円、出迎えなし2泊目2,300円と割安。もっとも、インド国内に入ってしまえば、割安というよりは、むしろ高めかもしれないが、2年前インドで最初に泊まったホテルより安い。 着いた宿はデリーの中心地に近いカロル・バーグのちょっとはずれ。部屋はまぁまぁだが、冷蔵庫もバスタブもない。こういう宿に泊まるのも久しぶりだ。2,300円というとRs800〜900。部屋のグレードからすると、Rs500がいいところだと思うが、デリー駅前の安宿街に比べると、静かだし不満はない。 翌日、さっそく事務処理に取りかかる。まずはメトロに乗ってニュー・デリー駅へ。この去年できたばかりの地下鉄は、まだピカピカだが、もうすっかり市民の足になっているようだ。
メトロでスムーズにニューデリー駅まで行き、アーメーダバード行きの電車の予約をする。ニューデリーもアーメーダバードも大都市なので、遠くても交通の便はいい。ラージダーニ急行という、超特急電車が運行している。このラージダーニ急行に乗ることも目的のひとつだ。人気の電車だが、ひとりのせいもあってか、3日前だというのにすんなり予約が取れた。 次はエアー・インディアの予約再確認。またまたメトロで移動して、あっという間に終了。ついでにシティ・バンクのATMでルピーの引き落とし。シティ・バンクに口座があると、各国のATMで、各通貨での現金引き落としができるのでとても便利。用をみっつも済ませたのに、まだ昼前なので、続いて鉄道博物館へ行くことにする。 インドは鉄道王国なので、鉄道博物館も充実している。イギリスの植民地時代に作った蒸気機関車や、フェアリー・クイーンという、1997年まで動いていた優雅な蒸気機関車などが展示されている。ほとんどの見学者は子供の集団だが、ときどき、熱心に写真を撮っている大人のインド人がいる。…テツなのであろう。テツでない私は、中庭に作られていた、線路の整備をする鉄道労働者の人形と線路の模型がおもしろかった。
デリーには3泊する予定で、アーメーダバード行きの電車を予約したが、2日目にして早くも、デリー滞在目的のほとんどをこなしてしまった。今までは、電車予約、換金、リコンファームなど、「事務作業」と呼んでいるものを、1日にひとつ済ませれば上出来という感じだったが、インドも効率がよくなってきたようだ。 |
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デリー観光2日目 翌日は、スワミナラヤン教の巨大な寺、アクシャルダムへ。ホテルの近くからオートリキシャーで1時間ほどかかった。オートリキシャーには開閉できる窓がなく、開けっ放しなので、排気ガスがもろに入ってくる。人も車も多いのでインドの公害は年々ひどくなっていく。デリーでは数年前から、商用車の燃料をディーゼルから天然圧縮ガスに変更することを義務づけているそうだ。オートリキシャーの色が変わったな、と思っていたが、黄色×緑のオートは、燃料を天延圧縮ガスに変えた車らしい。 アクシャルダムはヤムナー川を渡ったところにあった。
お寺というよりお城。本殿だけでなく、それを取り囲む回廊、宿泊施設や図書館なのか、別棟の建物がいくつか、大きな池のある庭…。入場料は無料だが、入るためにはいっさいの荷物を預けなければならない。私は財布とパスポートだけ携帯を許されたが、3回ボディチェックを受け、財布の中も2回見られた。できたばかりの新名所のせいか、学校の集団見学も多く、長蛇の列。なんだかんだと入るまでに20分近くかかった。
アクシャルダムからデリー城(ラール・キラー)の門前町、チャンドニー・チョークへ行き、ラース・ビハーリ・ボースゆかりのカトゥーラ・ドゥールヤーへ。チャンドニー・チョークは相変わらずの混雑ぶりで、道を歩くのも一苦労。インドのお菓子を堪能する。
地下鉄に乗り、またニューデリー駅まで。ニューデリー駅前には、パハール・ガンジという、バーザールがある。ここには安宿もたくさんあり、世界中のバックパッカーが来るので、日本語フォントの使えるコンピュータがあるかもしれない…と思ったらやはりあった。最近は韓国人の旅行者が増え、待ちを歩いていると、「アンニョハシムニダ」と、声を掛けられることも多い。ハングルも日本語と同様にマイナーな言語なので、日本語フォントを使えるネットカフェを探すと、たいてい韓国人もいる。
○ホテルの近くのパンジャービー菜食レストランのマスター ○ホテル近くのネット屋の老夫婦 ○ホテルの人たち ○ナオミさん
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ラージダーニー特急
デリーからアーメーダバードへは、高級列車「ラージダニー特急」を利用。10年以上前に、ガヤー=デリー間をラージダーニーで行ったことがあったが、そのときよりサービスが向上していた。デリーからアーメーダバードまで15時間の間に、食事2回、スナック2〜3回(お茶つき)、ミネラルウォーター1リットル、新聞1部、毛布、枕、シーツ2枚がついてきて、トイレも車両内も清潔。普通の特急のような2等車と2等寝台車がない。一番安いクラスでもAC付き2等3台寝台車だ。乗っている客も何となくハイソ。私の車両は、AC2等2台寝台車で、乗客は6人。私の寝台の上と隣が、イタリア人のカップル。向かいの上段の寝台には、転職の面接に行く若者、通路側には話し好きの初老の紳士と、愛想のいい中年の紳士。インドの電車旅行は、長時間であることが多いので、みんな暇つぶしに会話を楽しむ。寝ている時間を除いて、ずーっと話をしていた。 最初は、カタコトのヒンディー語が話せる私に、みんな興味津々で、日本社会の欠陥や少子化問題、電化製品の性能と価格から韓国製品との競合などの質問が相次いで、かなりくたびれたが、そのうちインド人乗客の興味はイタリア人カップルに移ったので、助かった。 イタリア人の男女はジャイナ教系の宗派の信徒で、アルコールも煙草も取らない完全な菜食主義者。ニンニクや玉葱も食べないだけでなく、「同じ宗派の人が愛情を込めて調理した食物」と、ドライフルーツ以外は食べられないそうだ。ラージダーニー特急のただで出てくる食事やお菓子は、すごーくおいしかったのに、彼らは当然食べない。食事代わりにドライフルーツをもりもり食べていた。女性は25年前に、インドで初めてジャイナ教のその宗派を知り、入信。以来、年に1回、1〜2週間の休暇をとって、アシュラムに来ているらしい。イタリアにもイギリスにも、そして日本にも、同じ宗派のコミュニティはあるそうだ。男性もイタリアで彼女が勧誘して、今は同じフラットで共同生活をしているという。 「君たちは恋人同士かね?」と、日本人ならちょっと聞けないような話題も、話好きのインド人はためらいもなく聞く。 「いいえ、ブラフマチャルヤー(禁欲)を守っています」と、女性は慣れた口調で返したが、男性の方は(ばかばかしい…)という顔で、話題に入らないようにしている。女性は入信25年、男性は16年とのことだったが、この我慢強さの差は修行の年数によるものだろうか…などと、英語やヒンディー語で疲れた脳みそでぼんやりと考える。イタリア人は終点のアーメーダバードの手前の、アーブーマウンテン駅で降りていったが、早朝4時には起きて、ヨガをしていた。
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アーメーダバード観光・悪戦苦闘 電車は30分ほど遅れてアーメーダバードに到着した。一昔前は、インドの電車は遅れて当たり前だったが、最近では(特にラージダーニー特急は)ほとんど遅れないらしく、30分たらずの遅れでも、面接に行く青年はかなりあわてていた。旅行者の私はのんきなもので、今晩泊まる宿さえまだ決めていない。リキシャーを拾って、ガイドブックにあるホテルの中からひとつ選んで行くように告げる。 「そのホテルは△△という名前に変更しました」
翌日は早朝からキャリコ博物館をめざす。キャリコ博物館は入館料無料だが、見学するためには、午前と午後、それぞれ1回ずつある館内ツアーに参加するしかない。集合時間に遅れると入館できないので、かなりの余裕を見てホテルを出発し、リキシャーに乗る。 「どこ?ここじゃないでしょ」 ギャーギャー大声を出して抗議していたら、人が大勢集まってきた。 そりゃそうだよなぁ…マダムの言うとおり…なんて、寄ってきた野次馬は無責任にワイワイ言っている。 「知らねえよ、キャリコ・ミュージアムなんか!」 「だからこのミュージアムじゃなーい!」 |
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シャカリキ観光 ドゥルグ行きの切符を取り、少々換金して、市バスのツアーに参加することにする。市バスツアーの申込所に行くと、ツアー参加者は私を入れて7人だけ。外国人は私だけだ。運転手の他に、バスガイド(50代と思われる女性)もつき、しっかりした口調で名所案内をしてくれたが、アナウンスはヒンディー語だけ。しかも、観光予定に書いてある15カ所のうち、バスを降りて見たのはたったの5カ所だけだった。グジャラート州の実質上の州都、アーメーダバードの観光バスとしてはかなり寂しい。 見学したのは、ハティースィン・ジャイナ教寺院、サーバルマティー(ガーンディー)・アシュラム)、シュレヤース民族博物館、パテル記念館とサンスカール遊園地だけ。シュレヤース民族博物館は、個人の収集家の集めたもので、インド各地や外国の物産も数多くあったが、グジャラート州の生活用品や衣装が充実していておもしろかった。そこでは、博物館員が説明をしてくれたが、他の場所ではバスを降りて勝手に見学するだけだ。 バスに置いてきぼりにされないように、ツアー客の老夫婦の後をくっついていくことにした。 老夫婦は、ソームナートから、孫娘の結婚式のためにアーメーダバードに来たのだという。ソームナートは20年前に観光局から推薦されて行った懐かしい土地だ。 「のどの乾きが薄れるよ」と、ミントキャンデーをくれたり、「ふたつ持っているから」と、ポケットカレンダーをくれたり、なにかと親切にしてくれる。ガーンディーやパテルは、インドの中でもグジャラーティーの英雄なので、サーバルマティー・アシュラムとパテル記念館では、おじいちゃんが本を薦めてくれる。70代以上だとは思うが、仲のいい夫妻で、階段を昇ったり、歩くときには、手をつないでいる。 アーメーダバードは大都会で、道幅も広いし、交通量も多い。信号はほとんどないし、車は止まってくれないので、なかなか道も渡れない。すると、老夫婦のおばあちゃんが私の手を握り、もう一方の手をおじいちゃんと繋ぎ、一緒に道を渡ってくれた。
その後、ホテル近くのスィディー・サイヤード・モスクを見学。このモスクは礼拝堂しか残っていないが、窓の精緻な彫刻がとても美しい。朝日が差し込む窓に見とれていると、声を掛けられた。 「きれいでしょう。どの窓も違うデザインの彫刻なんですよ。ほら、柱も見て…」 |
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階段井戸、キャリコ博物館 ラーニー・ルプマティーのモスク、ムハフィーズ・ハーンのモスク、クトブッディーン・モスク、ダー・ハリマー・マスジッド、スワミナラヤン寺院、などなど。モスクにはきれいな布で覆われているお棺が安置されている場合も多い。フィローズ・バーイーはお棺の布をめくって、彫刻をよく見ろ、というのであわてた。
グジャラートやラジャースタン地方には階段井戸が多く、7層のバルコニーを持つ、さらに大きなものも残っているという。地表の階段口から下を覗き込んだり、1番下の井戸から上を見上げたりすると、くらくらする。井戸を掘った人、階段を作った人、井戸から水を汲みあげた人などが、実在したということが恐ろしく思えるほどの深さだ。
フィローズ・バーイーの観光案内が非常によかったので、翌日も彼のリキシャーでキャリコ博物館で行くことにする。 キャリコ博物館は、建物もすばらしかった。グジャラート州は砂漠に近いところで、木材などほとんどないはずなのだか、木造彫刻が有名である。とくに、ハヴェリーとよばれる、邸宅の門などには、すばらしい彫刻で飾られた木製の扉や枠が使われている。キャリコ博物館の門や建物の一部にも、彫刻を施したどっしりとした木が使われていた。門をくぐると、うっそうと木が茂った庭がある。ここが予約やツアーでなく、勝手に出入りできるなら、ずーっとここにいたい。写真撮影厳禁なうえに、所蔵品を網羅したカラーの図録がないのが残念だ。
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だんだん近づく親戚 そもそもマカーニー家とお付き合いするようになったのは、偶然、20年前にアーメーダバード駅の待合室で出会ったから。ドゥルグ行きの電車に乗る前に、思い出の待合室を見に行く。 ○Super Cyber
Cafe
○Green
House ○Lucky ○A to Z ○Volga ○State Bank Of India |
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2年ぶりの再会 ドゥルグ駅に着くと、プラットホームに迎えが来ていた。いつもはアルジュン叔父さんが私の担当なのだが、きょうは、プネーにいる家族と、ナーシクに旅行中なので別の人だ。…もしかしてプレーム?! 2年前に会ったばかりだというのに、プレームはすっかり感じが変わっていた。ひょろっとした体型は相変わらずだが、眼鏡をとってコンタクトにしている。ちょっとひげをはやし、サングラスで長めの髪をとめているあたり、すっかりイマドキのワカモノだ。プレームの背中を叩きながら再会を喜ぶ。プレームは相変わらずやせているので、荷物はポーターに運んでもらうことにする。たいていの駅では、ポーターの印は赤いシャツだが、ドゥルグ駅ではなぜか青いシャツだった。ちなみに、ポーターは自営業らしく、駅の認可を受けた人は胸に金属の認証を付けているが、シャツは制服ではない。目印になるような赤や青のシャツを各自着ているようだ。 ドゥルグの家では2年ぶりの懐かしい顔が待っていた。残念なのは、ミーナー叔母さんがいないこと。叔母さんといっても、私と同じ年の若さなのに、去年7月の終わりに、心臓発作で急逝した。それまで胸が苦しいとか、前兆が全くなかったのに、明け方、急に苦しみだして、数分で息を引き取ってしまったという。ミーナー叔母さんと、伊達男のプラシャント叔父さんは、とても仲のいい夫婦だったので、なんと声をかけていいのかとまどってしまう。亡くなった知らせを聞いて、すぐにお悔やみの手紙は出したが、プラシャント叔父さん本人を目の前にすると、うまく言えない。泣きそうになった私の肩を、ポンポンと叩いて、逆に叔父さんが慰めてくれる。 2年の間に、他にもいろいろな変化があった。 アメリカで暮らしているラーダーちゃんは、MBA(Master of Business Administration、経営学修士)の資格を取るために大学に通い始めた。まだ学校に行っていない下の息子、ラーフルの世話ができないので、去年の4月から、インドの実家の両親に預けている。 ラーダーちゃんのお母さんは、去年乳ガンの手術をした。術後の経過は順調らしいが、治療のため剃ったのか、それとも治療の影響なのか、髪の毛はようやく3センチほど伸びてきたところ。 ラーダーちゃんのお姉さんのニシャーは、2年前、私が日本に帰った翌週に再婚して、今は妊娠中。 私に会うために12時間以上かけてわざわざ実家に戻ってきてくれたラーダーちゃんの妹、スシュミターは、1年ちょっと前に女の子を出産した。 同じ頃、ラーダーちゃんの唯一の弟、スシールも結婚して、今は早くも1女の父である。 そして、いつもお世話になりっぱなしのアルジュン叔父さんも今日はいない。子供が3人ともプネーに住むようになり、奥さんのナグマー叔母さんも世話をするために、プネーにいるので、アルジュンおじさんはドゥルグとプネーを行ったり来たりしているようだ。 ラーダーちゃんの両親やおばあちゃん達は、ラーダーちゃんの妹、5女のタッブーの結婚話のためにグジャラート州から帰ってきたばかりなので、少々お疲れ気味。タッブーのお見合い相手はMBA取得のコンピューターエンジニアで、アメリカ行きの話が出ているので、今回の結婚話は流れたそうだ。ラーダーちゃんとすぐ下の妹、ラーキーがアメリカに住んでいるので、これ以上、娘を海外に出したくないらしい。ラーダーちゃんのお母さんは、去年乳ガンの手術をしたので、心細かったのだろう。 ページTOPへ戻る |
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インドの実家 まる一日着替えていないので、シャワー・ルームを使わせてもらう。ジーンズもインドに到着してから、10日近く履きっぱなしなので、我ながら気持ち悪い。すっかり甘えて、洗濯物を出す。他人の家で洗濯物を出すのは勇気がいる。最初に泊めてもらった頃は、自分で洗っていた。2年前にお世話になった時も、滞在期間が1週間と短かったので、日数分の着替えを用意して、下着だけは出さなかった。でも、勝手に洗って干したり、家に洗濯物を洗わずにためている方が迷惑だそうなので、好意に甘える。 マカーニー家には、洗濯をするお手伝いさんの他にも、何人も家に出入りする人がいる。マカーニー家におじゃまする度に、それぞれに紹介されるが、毎回メンバーが替わっている。今回は、「チャパティーを専門に焼く人」までいた。大人数の一家で、育ち盛りもたくさんいるので、食事どきになると、家族が焼いているだけでは間に合わないらしい。
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ヒンドゥー・ライフ この日は日曜日だったので、寺に行く前に、家でも日曜日のスペシャルなお祈りをする。普段は朝、シャワーを浴びた順にそれぞれお祈りをするのだが、日曜には仏間…というか、神様の厨子が置いてある部屋に全員集まって、たっぷり1時間ほどお祈りをする。今日のお祈り先導者は、次期家長候補のスシールだ。家長のブラトさんは、普段ダリー・ラージャラーという、別の土地にある家に住んでいるので、2年前に来たときは、ブラトさんのすぐ下の弟、アルジュン叔父さんが先導していた。きょうはアルジュンおじさんはナーシクへ行っていて留守だが、ブラトさんはいる。ブラトさんの長男、スシールにお祈りの儀式を執り行わせるのは、家長教育の一環なのかもしれない。スシールはグジャラーティー語で書かれたジャラーラームの聖典を読み、聖火を灯し、宗教歌の先導をする。
シヴラートリーから帰って一服すると、ラーダーちゃんのお母さん、アーシャーさんが、病院に行くという。去年、癌の手術をしたので、月に一回、定期診断に通っているのだそうだ。 |
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親戚訪問1 バルガル 次の日は、オリッサ州のバルガルへ行くことになった。「インドに来たらぜったい私に会いに来てね」と、さんざん言われていたので、ラーダーちゃんのお姉さん、ニシャーに会いに、嫁ぎ先まで訪ねていくのだ。友達の留守中、友達の家に泊めてもらっているだけでも相当ずうずうしいが、その姉の嫁ぎ先まで訪問するなんて、いったい私はナニモノ?という疑問はもちろんあるのだが、ニシャーの新しい旦那さんが見てみたい。なんせ、再婚してからのニシャーの手紙ときたら、ヒンディー語のラブレターのお手本みたいなのだ。「…私は彼に会うために生まれてきたんだと思うの。ああ、愛しい私のナラヤーン(=ニシャーの旦那さんの名前)…」といった調子だ。 ドゥルグからバルガルまでは、デラックスバスで6時間ほど。チャッティスガル州の州都、ライプルで1時間ほど休憩するので、7〜8時間でバルガルに着くらしい。このバスはそのままジャガンナート寺院で有名なプリーまで行く。最近運行が始まったらしいが、このバスがあれば、9年前も楽だっただろうに…と思わずにはいられない。バルガルにはブラトさんの5女、タッブーが同行してくれることになった。 バルガルに着いたのは夜中の12時近くだったが、ニシャーの旦那さんナラヤーンは、バス停で待っていてくれた。この姉妹の夫、「ジジャジー」というのは、インドではとても頼りになある存在だ。妻の実家、特に妻の姉妹に対しては、100%誠心誠意、面倒をみてくれる。 2年ぶりに会ったニシャーは、妊娠6か月なのでおなかは大きかったが、少しほっそりして、ますますきれいになっていた。 ナラヤーンの家もマカーニー家と同じジョイント・ファミリー。ナラヤーンのお母さんと、兄弟4人がそれぞれの家族と住んでいる。夫婦ものにはベッドルームがあるが、客室がないらしく、玄関ホール兼リビングのような部屋の床に寝ろ、と言われた時は、少々驚いた。でも、家長のおばあちゃん(ナラヤーンのお母さん)や、ちょっと大きい子供達もそこで雑魚寝をしているので、そういうものなのだろう。ただ。蚊が多く、布団を被ったのに、一晩中悩まされた。 ナラヤーンの家はバーザールで雑貨店をやっているが、ついひと月ほど前、ニューバーザールで、ギフトショップをオープンした。バルガルではまだ珍しいらしい。開店したばかりのギフトショップを弟に任せ、次の日ナラヤーン「ジジャジー」は、我々「妻の姉妹」を連れ出して接待してくれた。インド第2の規模のヒラクンド・ダムにも行った。 初めて会う相手に興味津々なのは私ばかりではなく、ナラヤーンもナラヤーンの家の人も同じだ。 おばあちゃん(ナラヤーンのお母さん)は、ニコニコとしていたが、昔風の厳格なタイプらしい。この家にはテーブルがなく、食事もクラシックに床の上で取る。私がおばちゃんとソファーに腰をおろして話をしていたら、床に座っていたニシャーが、目配せをする。どうやら、足を組んでいた私の行儀が悪かったらしい。その点、インド人のタッブーは見事で、おばあちゃんにも愛想よく話しかけるし、姉の嫁ぎ先でも、率先して食事の支度などを手伝っている。こういうことを自然にできるようにするのが、インド流のしつけなのだろう。 ナラヤーンは、ホテルで食事をごちそうしてくれるときに、「とーこ姉さんは何にする?チキン?」と、わざわざ聞いてくる。 マカーニー家やナラヤーンの家はグジャラーティーのバラモンで、厳格な菜食主義である。肉も魚も卵も絶対に食べない。私は「インドでは菜食だけど、日本では肉も魚も卵も食べる」と言ってあるが、ニシャーなどは「私、そういうのイヤだわ」とはっきり言うし、20年もつきあっている今も、会う度に毎回、誰かしらに「日本人は肉食なんでしょう?」と聞かれる。インドにも肉食の人はたくさんいるので、おおっぴらにそんなことは言わないが、彼らの頭の中には、「肉食イコール不浄」という図式があり、たぶん一生、その考えは変わらない。 (で〜た〜な〜)と思いながらも、「私はローハナだからチキンは食べられないのよ」とかわす。ローハナというのはマカーニー家の所属するコミュニティー名で、もちろん菜食主義。マカーニー家の家族として扱え、という私のメッセージだ。 ナラヤーンもナラヤーンの家の人もいい人だったが、蚊の猛攻撃でほとんど眠れなかったのと、マカーニー家にいるように気楽ではいられないので、くたびれてしまった。 ページTOPへ戻る |
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親戚訪問2 ヴィサカパトナム スシュミターの家は、アーンドラ・プラデーシュ州のヴィサカパトナムである。ドゥルグを発つ前にもスシュミターからは何度も電話があったが、家長のブラトさんと相談して、今回は日程に余裕がないので、ヴィサカパトナムまで行くのはちょっと無理、ということで落ち着いていた。 「行かなきゃダメよ。スシュミターは、2年前、とーこに会うだけのために、12時間もかけてドゥルグに来て、しかも実家に1泊もできなかったのよ。今度はとーこが行く番よ」 もともと行く予定がなかったので、余分な着替えもないし、夜行電車に乗るための支度もしていない。エアコンなしの2等寝台車に乗ったが、夜はけっこう冷えて、布団やショールの持ち合わせがない私は、夜行電車で風邪を引いてしまった。エアコンなしの2等3台寝台車に乗るのは久しぶりだったので、すっかり忘れていたが、物売りだけじゃなく物乞いが来るんだった!ヤレヤレ…これから先は覚悟しておかなくては…。
ヴィサカパトナムは、日本語のガイドブックにはほとんんど載っていないが、インド国内では、有名な観光地である。穏やかなビーチがあるのがインド人に人気がある理由のひとつだろう。
ヴィサカパトナムはきれいに整備されていて清潔な感じの都市だ。スシュミターのアパートも、3LDKと広く気持ちがいい。たいていのインドの家は、強い日光を避けるために室内を暗くしているが、スシュミターの家は窓も大きく、明るかった。カロールがコンピュータ・エンジニアなので、家にもパソコンが2台あるし、お舅さんやお姑さんといった、気疲れする相手もいなかったので、久しぶりにリラックスした。西瓜を売っているのをめざとく見つけ、買ってもらう。2個(笑)。 |
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スケジュール見直し ドゥルグへ帰る電車は隔日運行だったので、結局ヴィサカパトナムに2泊した。スシュミター達は翌週バンガロールへ転勤になるので忙しいのに、すっかりお世話になってしまった。ドゥルグに着くと、タッブーの妹、ジュヒーが涙目で「1日で帰るって言ってたのに〜」と抱きつく。ヴィサカパトナムで予定外の2泊をしたので、この後のスケジュールも見直さなくてはいけない。ドゥルグでさっそく、電車の予約を相談する。マカーニー家の別宅、ダリー・ラージャラーにも行きたい。ダリー・ラージャラーは、ドゥルグから100km近く離れているので、1泊は必要だろう。 インドで旅行するには、電車の予約はしておいた方がいい。インドの人口は日本の約10倍。毎日運行している電車ばかりではなく、週2本、3本、時には週に1本しかない場合もある。国土も広いので、10時以上の移動が普通で、そうなると寝台車が必要になる。アーメーダバードからドゥルグまで乗ってきた電車はコルカーターのハウラー駅行きで、同じ車両のほとんどは、終点まで車内で2泊する予定だった。しかもどうやらインド人は旅行好き。親戚の結婚式や行事、里帰り、なんだかんだとしょっちゅう移動している。 ドゥルグ→プネー→アウランガーバード→ムンバイと、3回分の電車の予約を一挙に取ることにする。観光地の鉄道駅では、外国人用の窓口があって多少優遇されるが、ドゥルグではそれは期待できそうもないので、鉄道駅ではなく、旅行会社に申し込む。アーメーダバードからドゥルグに来るときAC寝台車に乗ったが、あまりにも寒かったので、エアコンなしの2等3台寝台を希望。金額はAC車のおよそ半額だ。希望の電車が取れなかった場合の第2希望も伝えておくが、取れるか取れないかは、2〜3日しないとわからないという。 電車の予約が取れるかどうか待っている間に、マカーニー家のもう1軒の家があるダリー・ラージャラーに行きたいが、ブラトさんに「うーん、でもまだ寺には行けないからなぁ」と言われ、ぎょっとしてしまった。 ラリー・ラージャラーには、亡くなったおじいちゃんが中心となって建てた、ジャラーラーム寺院がある。現在の筆頭檀家(?)は、おじいちゃんの長男ブラトさんだ。当然、ダリー・ラージャラーに行くからには、その寺参りもセットだ。で、なぜ「寺に行けない」かというと、私が生理中だったから。 厳格なヒンドゥーの家庭では、生理中の女性は不浄とみなされ、シャワーを浴びるまで、他の誰かに触れてはならないし、台所にも入れない。寺にはもちろん行けない。最初の数日はベッドにも寝てはいけない…と、前に聞いていたので、当然私もマカーニー家に申告する必要がある。それでタッブーにそっと言っておいたのだが、男性のブラトさんにまで知られているのはまいった。でも、まぁ、娘が6人もいて、その他にも大勢の姪や義妹と暮らしているんだから、当然なのかも。 しかたないので、その日はダリー・ラージャラー行きは止めて、みんなで映画を見に行くことにした。みんなといっても、家を空けるわけにはいかないので、出かけたのは15人「だけ」。若者はバイクに2人乗りしたりして行ったが、残りは全員1台のスズキマルチに乗った。行きが10人、帰りが11人である。日本では通常せいぜい4人までしか乗れない大きさの車だ。しかもそのうちのひとりは、体重90kg弱のおばさん。この車の乗り方がインドのスタンダードなら、路線バスや通勤電車の混み方も納得できる。 ページTOPへ戻る |
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別宅 ダリー・ラージャラー
ダリー・ラージャラーは、ドゥルグより田舎で、住んでいる家族も少ない。お互いに行ったり来たりしてはいるが、普段は大家長のおばあちゃんがいないので、なんとなく空気もドゥルグより緩い。普段は長男のブラトさん夫婦もこちらに住んでいる。他に、5男と6男の家族。5男のジャヤデーヴさんは、手先が細かい芸術家で、ジャラーラーム寺院のミニチュアや、ブランコに乗ったクリシュナ像とか作ったり、ジャラーラームの一生を絵に書いたりしている。6男のナゲンドラは、友人7人と慈善活動のグループを作り、無料の学校や診療所を運営している。最近診療所の他に、レントゲンを撮ったり、血液検査ができる施設も開設した。
ここでもやっぱり楽しいのは、台所でもおしゃべり。アーシャーさんは癌の手術の後、思うように身体が動かないので、ダリー・ラージャラーの主婦は、5男と6男の奥さん、ディーヴィカーとレーヌーのふたりだけ。ドゥルグより少ないとはいえ、15人くらいは住んでいるので、食事の支度だけでも大変だ。それでも2年ぶりに会った私をなにかとかまってくれる。2人とも私と同世代なので、気安く話せる。 それにしても、インドの人は驚くほど日本のことを知らない。日本といえば、ナショナル、パナソニック、ソニー、東芝、スズキマルティ(マルチ)、ヤマハ…と、電器や自動車のブランドばかりで、日本人がどんな生活をしているとか、どんな服を着ているとか、全く知らないのだ。日本ではインドのことを紹介するテレビ番組もたくさんあるし、インド映画の愛好者も多い。インドレストランもそこら中にあって、カレーだけでなく、ナンやタンドリーチキンも知られている。 「じゃあ、日本で有名な食べ物は何?」 文字通り私の側から飛び退く子に、少し年上の子が無表情で教える。 この抑制された反応が修練の差であろうか。インドでは、相手のコミュニティーの習慣について、少なくとも本人の目の前ではとやかく言わない、というのが不文律だ。 日本についてだけでなく、インドについても、インド人が知らないことはたくさんある。ジャガンナート寺院はヒンドゥー教徒以外は参拝できないというのと、マハートマ・ガーンディーが英国留学中に肉を食べてみた、というのを言うと、たいていのインド人は強く否定する。肉食をしてみたというのは、ガーンディーの自伝に書いてあるのだが、インドで発行されている本には書いていないのでは?と疑ってしまうくらい、みんな知らない。こまっしゃくれた中学生に、ガーンディーのその話をしてみようかと思うがやめておく。ガーンディーはマカーニー家と同じグジャラーティーで国父だ。きっといやな顔をするに違いない。 好きな野菜を英語で書けと言われ、『茄子』のつもりで『egg
plant』と書いたら、6男の嫁、レーヌーに、 |
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ヤング・ジェネレーション 早いものでマカーニー家を去る日がやってきた。一緒にヴィサカパトナムに行ったタッブーが、私の西瓜好きを教えたのか、前の日のデザートは西瓜で、勧められるままにバクバク食べてしまった。10日間なんてあっという間。ところがスシールが深刻な顔で言う。 「とーこ姉さん、チケット取れなかったんだ」 「またまた…。きのう取れたって言ってたじゃない」 「キャンセルしちゃった。ほら…」 と、スシールの差し出す乗車券にはCancelledのスタンプが押してある。 「え〜!?」 「だから、今日もここに泊まるしかないね」 あわててよく見ると、日付が今日じゃない。本当はきのう出発する予定で、プネー以降の電車もそれに合わせて予約していたのだが、きのうの予約が取れなかったので、全て予約を取り直したのだ。 「もう、おどかして!ベーラン(チャパティーを伸ばす麺棒)でぶつわよ!」 と、笑いながらスシールの耳を引っぱる。 スシールは家長ブラトさんの唯一の息子で、次期家長候補だ。彼の世代の従兄弟達は、家業の車のパーツ屋と継ぐ気はなく、それぞれコンピュータ・エンジニアになったり、コンピュータ関係の学校に行っているが、スシールは跡継ぎとして働き始めた。 「ごめんごめん。プネーでもムンバイでも、みんなプラットホームに迎えにくるように連絡してあるからね。じゃ、とーこ姉さんが乗る電車の車両、シートナンバー、到着駅と到着ホームを言ってみて。プネーとムンバイの連絡先は?番号はちゃんと合っているね?」 おお、なんという念の入れ方!こんなしっかりものの弟がいたら、どんなに便利で心強いだろう。駅までスシールと、お嫁さんのジャルバーラーが見送ってくれた。 ジャルバーラーは1年ちょっと前にグジャラート州のアーナンドから嫁いできた。ジャルバーラーの家はジョイント・ファミリーではなく、日本のような核家族だ。アーナンドではグジャラーティー語が公用語なので、ヒンディーが苦手。マカーニー家ではグジャラーティーで通用するが、ドゥルグのあたりでは、ヒンディー語とチャッティースガリー語という土地のことばが使われているので、しょっちゅう家族に「ヒンディー語で話すように」と言われていた。マカーニー家の人たちが言うには、「ジャルバラーはとーこよりヒンディー語を話さない」のだそうだ。 でも私にとっては、『本場のグジャラーティー語が習える』格好の先生だったので、ジャルバラーにくっついて、グジャラーティー文字の綴り方や挨拶などを教えてもらっていた。ジャルバラーは料理もうまいので、台所でもなんだかんだと教えてもらった。 核家族育ちのせいもあって、ジョイント・ファミリーの中でも、ちょっと浮いた存在だったジャルバラーは、 「とーこ姉さん、好きよ!」としょっちゅう抱きついてきた。 「I love you は日本語でどういうの?」と聞かれ、 「女同士ならスキだけど、異性に言うならアイシテイマスかな」 と、何度も教えたのに、最後まで「アイスクリーム」と言っていた(^^;)。 プネー行きの電車は、間際に、予定していたプラットホームではなく、別のホームから出発されることになった。スシールは、私の重いスーツケースを細い身体で引きずって、あわてて階段を上り下りしてくれる。 「とーこ姉さん、これがインドなの。こんなことがしょっちゅうあるから、駅の放送に気をつけてね」 とジャルバーラーは言うが、今の放送はヒンディー語だけだったなぁ。聞き取れるだろうか。 ページTOPへ戻る |
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親戚訪問3 プネー アルジュン叔父さんは、私がヴィサカパトナムからドゥルグに帰ってきた頃、ナーシクから戻っていた。いつもはアルジュン叔父さんが私のお世話係なのだが、今回はあまりゆっくり話をする時間もなくて寂しかった。ドゥルグを発つ前日、「とーこ、パーン食べに行こう」と、2年前のように誘われ、ふたりだけで出かけて、ようやく話ができた。パーン屋は閉まっていたが、2人で夜道を散歩して、『トップ・シークレット』を打ち明けられて、『秘密の約束』をした。 プネーには、1泊もしない予定だった。半日みんなと過ごして、その日の夜行バスでアウランガーバードに行く、と言うとナグマー叔母さんが怒り出した。 エローラもアジャンタ世界遺産なのに、どうもマカーニー家には人気がない。インドの観光地なら、ビーチや有名なお寺の方がお好みらしい。シルディーというのは、日本でも有名なサッティヤ・サイババの前世、シルディー・サイババ(インドでサイババといえば、いまだにこちらの方が有名)の生まれた場所。ナーシクは、ヒンドゥーの重要な聖地で、アラハバード、ウジャイン、ハリドワールとともに、12年に1回、クンブメーラという大祭が行われる(大祭は3年に1回、4カ所で順繰りに行われるので、ナーシクでするのは12年に1度)。 さんざん引き止められて、アウランガーバード行きを1日伸ばし、1泊させてもらうことにする。引き止めてはくれるが、みんな仕事があったり、学校があったりで、忙しい。プネーはイスラムのムガル帝国に最後まで抵抗したヒンドゥー勢力、マラータの都で、かなり広くて見所もたくさんあるが、観光はほとんどしなかった。
プネーのバーザールで西瓜を見かけたので、ここでも買ってもらう。 |
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エローラ、アジャンター 観光バスツアーは、私を入れた外国人3人の他はインド人。ガイドはヒンディーと英語で解説をしてくれるが、参加者の中にベンガル人のグループがあり、ヒンディーができる人が、ガイドの解説をいちいちベンガル語に訳している。アジャンターあたりは3月ともなるとかなり暑いが、この日は、何度か断続的にスコールのような激しい雨が降った。 アジャンターは、岩山に掘られた仏教石窟。紀元前1世紀頃の初期仏教と紀元5世紀頃の大乗仏教の28の石窟群である。インドに石窟は多いが、アジャンターは、特にその美しい壁画で有名だ。第1窟の、菩薩像は法隆寺の金堂壁画の元になった絵ではないかと言われている。第16窟、第17窟の美しい絵も有名だが、(石が硬かったのか)途中で工事を止めてしまった、第24窟も興味深い。アジャンターは、アウランガーバードから、片道3時間もかかるので、バスツアーだとゆっくり見られないのが残念だ。女1人の旅行でなく、夫ともう一度来る機会があれば、タクシーをチャーターして、日本語ガイドで解説を聞いてみたい。
翌日は、アウランガーバード市内・郊外とエローラのツアー。この日は外国人2人以外は全てインド人だったが、「英語とヒンディー語のどちらの解説がいいですか?」とガイドに聞かれ、絶対多数で英語になった。きのうのアジャンター・ツアーで一緒だったベンガル人のグループや、南インドの人もいるので、ヒンディー語より英語の方がわかる人の方が多かったのだ。
そしてエローラ!
それにしても、入場料が高いのにはまいる。数年前から、インドでは、観光地の入場料がダブル・スタンダードになっている。インド人が5ルピーくらいで入れるところを、外国人は200〜300ルピー(500〜900円くらい)払わなくてはならない。タージマハールなどは、一時外国人の入場料は800ルピー(2,200円程度)も取っていたそうだ。日本の展覧会の料金に比べたら、高すぎるとはいえないが、ツアーで行く場合、いくつもの観光地を回るので、けっこうな金額になってしまう。「ミニ・タージマハル」と呼ばれる「ビービー・カ・マクバラー」を、200ルピーも払ってまで、見たくない観光客も多いだろう。 ○インターネット・カフェ「sky
iway」 |
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親戚訪問4 ムンバイ1 いよいよ旅の最終目的地ムンバイへ。駅には、亡くなったおじいちゃんの唯一の娘、ウマーさんのご主人、ラームダースさんが迎えに来てくれることになっている。チケットを再確認すると、ムンバイのダーダル駅到着は、早朝5時だ。あわてて電車の中からウマーさんに電話する。 「スシールには、もう1本あとの電車を取るように頼んでおいたんだけど、予約がとれなかったらしくて、到着が朝の5時なんです。いくらなんでも早すぎるから、駅には来ないで。リタイヤリングルーム(駅の宿泊施設)か待合室で、朝まで待って、それから電話するから」 「何言ってんの。大丈夫よ」 大丈夫とウマーさんは言うが、朝5時に迎えにくるためには、家を何時に出なくちゃいけないんだろう。 ダーダル駅に着くのは朝5時だが、その前の駅で降りる人もいるので、4時ころには起きてしまう。24時間運行するインドの鉄道は、夜中を移動時間に使えるので便利だが、あまり朝早く着くのも考えものだ。 ところがダーダル駅に着くとラームダースさんの姿が見えない。しばらくプラットホームで待っていたが、客引きのリキシャーワーラーが寄ってきてうるさい。(明るくなってから電話しよ…)と、待合室に行って座っていると、20分くらいしてから、血相変えたラーム・ダースさんが来た。 「ラームダースさん、お久しぶりです。9年ぶりですね〜」 とお気楽に言うが、ラーム・ダースさんは無言で私の重い荷物を持ってくれるだけだ。…あ、もしかして待合室に行っちゃったので怒っている? 「あのー、ホームでお待ちしていたんですが、リキシャーワーラーが集まってきちゃったので…。本当にこんなに朝早くから迎えに来ていただいてすみません…」 「…電車が時間より早く着いたんだ…。私は時間通りに着いたのに、もう電車が行ってしまったあとで…。…リタイアリング・ルームとかあちこち見てまわって…」 「す、すみません。そ、そうですよね。ときどき時間より電車が速く着いちゃうことがあってびっくりするんです。遅れるより困りますよね」 マカーニー家の筆頭ジジャジー(姉妹の夫、婿)ラームダースさんにとっては、『到着が遅れてゲストが消えた』ということは、悪夢のような出来事だったに違いない。私は自分の軽率な行動にしょげてしまった。 ラームダースさんとウマーさんのマンションは、ムンバイ郊外のクールラ地区にある。ここは国際空港、国内空港に近いので、マカーニー家の人たちが海外へ行く時の拠点になっている。自分の家でも長男だし、マカーニ家の唯一の娘の婿なのでで、家族行事でも忙しいラームダースさんだが、こうして親戚が訪ねてくることもしょっちゅうなので、大変だ。 「私は普段、定期的には休みは取らないんだ」と言っていたが、衣料店のオーナーでありながら、親戚つき合いなどで店を留守にすることも多いので、その埋め合わせに休めないのかも。 ラームダースさんとウマーさんに会うのはラーダーちゃんの結婚式以来だ。あのとき、(不本意ながら)子宝祈願をしにみんなでカンケルに行ったが、ウマーさん夫妻には数年後、めでたく待望の男の子が誕生した。そのアビシェークもまもなく7歳だという。 ラームダースさんもウマーさんも、一般のインド人に比べると穏やかで静かな人たちだ。特にウマーさんは、インド人女性としては、珍しいくらい口数も少なく素っ気なく見えるが、微笑むと花が開いたような、すてきな笑顔になる。そういえば、ドゥルグのおばあちゃんもあまり余計なおしゃべりはしないタイプだなぁ。 寝不足なのでひと眠りしてから、町に連れて行ってもらう。インド人が動き出すのはだいたい午後3〜4時過ぎ。ムンバイは20年ぶりだ。細密画のコレクションが充実している、プリンス・オブ・ウェールズ博物館にもう1度行きたかった。 「プリンス・オブ・ウェールズ博物館?いいわよ。私もまだ行ったことないし。行きましょう。でも、その前にプラネタリウムね。アビシェークの学校の今週のテーマなの」 プラネタリウムを見ていたら、夕方の5時半を回ってしまった。 「プリンス・オブ・ウェールズ博物館は、6時に閉館するので、もうこれから行かなくてもいいです」 「…明日は必ず行こう!」 「明日は休館日のようです…」 「……私が博物館に電話してかけあってみるよ」 と、ラームダースさんは言ってくれたが、この時点で観光意欲はすっかりなくなっていた。 ウマーさんの家からムンバイの中心地まで1時間もかからないが、混雑がひどいので行くのは大変だ。郊外電車に乗るにも自動販売機がないので、長蛇の列。ラームダースさんは、店の若い者に先に並ばせておいて、チケットを買っていた。そのあとタクシーやバスで移動したが、移動するたびにすごい混雑。日本の通勤電車よりひどい。いつもはもの静なウマーさんも、このときばかりは、すごい勢いでバスに飛び乗っていた。20年前もムンバイは大都会で人も多かったが、これほどではなかった。また明日観光のために、わざわざこんな混雑している場所に来る気にはなれない。だいたいウマーさんの家に泊めてもらっている以上、1人で外に出してもらえないだろう。 博物館が閉まってしまったので、マハーラクシュミー寺院を参拝。海の近くの古そうなお寺で、参拝客の熱気がすごかった。その後、インド門を見て、マリーンドライブを走り、ビーチに行った。博物館に行けなかった私のために、精一杯の観光コースを楽しませてくれようとする。ビーチもまるでお祭りのような人出。インド人はどうしてこんなにビーチが好きなんだろう。 ページTOPへ戻る |
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親戚訪問4 ムンバイ2 ウマーさん達の家には、ラームダースさんのお母さん、つまりウマーさんにとってはお姑さんが同居している。このおばあちゃんは、ニシャーのお姑さんのように厳格、というのではないが、やはり古典的なグジャラーティーだ。油をいっぱい使った料理が好きで、チャパティーもギーをたっぷり塗るので、ギラギラと光っている。ダイエットと健康に気を遣っているプネーのナグマー叔母さんが見たら、顔をしかめるだろう。私にとっても、この伝統的なグジャラーティー料理は重い。量は少しでも、油がたくさん使ってあるので、すぐおなかにもたれてしまい、食欲がない。 「また、それっぽっちしか食べないの?何か食べたいものはない?」 「西瓜…」 「西瓜はちゃんと買ってあるわよ」 あちこちで西瓜ばかりバクバク食べるので、「とーこが行ったら西瓜を食べさせるように」という連絡が来ているようだ。すごいぞ、スイカ・ネットワーク! 大都会ムンバイの混雑ぶりに辟易した私は、「きょうは家でご飯の作り方を習いたい」と言って、ウマーさんから、ヨーグルトやギー(牛乳から作る精製油)の作り方を習ったりした。インドのミルクは牛乳より濃い水牛の方が一般的だが、「子供は頭がよくなるように牛乳の方がいい」とかいう理由で、わざわざアビシェークのためだけに牛乳からもギーを作る。 1日中家でのんびり…と思っていたが、この日は、アビシェークの学校で、週に1度の父兄セミナーの日だった。 「とーこも来る?」と、ウマーさんに言われ、のこのこついていく。私の観光のために、わざわざ遠回りして、ラーマ・クリシュナ寺院に寄る。ムンバイでもしょっちゅう寺参りをしていた。 アビシェークの学校はユニークだ。彼はまだ6歳だが、3〜4歳の頃からもうこの学校に通っている。もう少し大きい子もいるので、幼稚園というわけでもなさそうだ。基本的に授業は英語で、9年前はほとんど英語を話さなかったウマーさんも、今はかなり話すようになっている。英語だけでなく、ヒッポ・ファミリークラブのように、多言語教育をしているらしく、アビシェークが練習したひらがなのカキカタを見せてもらった。毎週テーマを決めて、学習、考察、実地見学、話し合いなどをしているらしい。学校の庭には、以前やったテーマ、『田舎の生活』のために作った、かやぶきの小屋と井戸の模型があった。 使われることばは英語だが、教育はヒンドゥー倫理に基づいて行われる。父母セミナーも、「オーム」と、聖音の唱和の後、ヒンドゥーの賛美歌を生徒と父兄が一緒になって歌い、瞑想をした後に始まった。 この日のテーマは「結婚」。100人ほど集まった父兄が、5〜6人のグループに別れ、配偶者に対する不満を告白し合う。その後、それについて発表したい人が、全員の前で言う。日本で同じことをしようとしても、意見なんかまず出てこないと思うが、次々に発表する人が出た。中には夫婦でセミナーに参加していて、奥さんが旦那さんに対する不満を言うと、その意見に旦那さんが反駁したり、謝罪したり…というケースもいくつもあった。妻側の不満は、「仕事をさせてくれない」「お姑さんとけんかしたとき、私の味方をしてくれない」「話しかけても返事が生返事」。夫は、「姑とうまくやってくれない」「アルコールや煙草を禁止する」「肉や魚を食べさせてくれない」「化粧や着替えに時間がかかりすぎ」などといった、たわいもない話だった。 結論を出すわけではないが、セミナーは「お互いによく話し合うこと」「いいことをイメージして、成功するまで繰り返し練習すること」「相手を理解しようと努める」「離婚した人の半分は再婚してもまた離婚するから、離婚は回避する」という方向に誘導しているように感じた。 「あなたも旦那さんに対する不満を言いなさいよ」と、同じグループの人に言われたが、特に人前で言うような不満はない。 「ご飯をうまく作らないと食べてくれないこと、くらいかな?でも最近は夫が太ってきた方が問題かしら」とにんまり。 セミナーは6時から3時間も続いた。子供達は別室で、授業を受けているらしい。朝から夜の9時まで。まだ6歳だというのに、ハードだ。家に着くともう夜の10時過ぎ。私たちは学校のビュッフェで食事をしたが、ウマーさんはお姑さんのためにご飯を作らなくてはならない。コミュニティごとに食事の制限があるインドでは、店屋物などなさそうだし、スナックやお菓子を除いて、買い食いというのもできなさそうだ。 ページTOPへ戻る |
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インド疲れ ATMも普及してきたが、地方の銀行では、外貨を交換することも簡単ではない。 インド人は、普段こういう機能を日常的に使って生活しているのだから、タフなはずである。インド人はビジネスの相手としては手強いだろうなぁ。日本に来る前に、11億の人口の中で毎日揉まれているんだもの。私ももう少したくましくならなきゃなぁ…なんて、思うだけで、また疲れてしまう、脆弱な日本人中年であった。 |