インド旅行記

HOME

「親戚巡礼」
 (*登場人物の名前は仮名です)
インド行き 早くもインドペース デリー観光1日目
デリー観光2日目 ラージダーニー特急 アーメーダバード観光・悪戦苦闘
シャカリキ観光 階段井戸、キャリコ博物館

だんだん近づく親戚

2年ぶりの再会 インドの実家 ヒンドゥーライフ
親戚訪問1 バルガル 親戚訪問2 ヴィサカパトナム スケジュール見直し
別宅 ダリー・ラージャラー ヤング・ジェネレーション 親戚訪問3 プネー
エローラ、アジャンター 親戚訪問4 ムンバイ1 親戚訪問4 ムンバイ2
インド疲れ

成田発→バンコック→デリー

デリー→アーメーダバード→ドゥルグ→バルガル→ヴィサカパトナム→ドゥルグ→プネー→アウランガーバード(アジャンター、エローラ)→ムンバイ

ムンバイ→成田





 1 デリー
 2 アーメーダバード
 3 ドゥルグ
 4 バルガル
 5 ヴィサカパトナム
 6 プネー
 7 アウランガーバード
 8 ムンバイ
インド行き


 仕事を辞めたら、すぐにでもインドに行きたいと思っていた。インドが乾期で旅行しやすく、航空券代も安い2005年の11月頃に行こうと計画をたてていたが、2006年3月に来日公演が決まっている、ローリング・ストーンズのチケット発売を待つうちに、すっかり遅くなってしまった。

 ストーンズのチケット入手は非常に困難だ。ネット予約、電話予約で良席が取れる確率は限りなくゼロに近い。情報をこまめにチェックし、あらゆるツテを使い、取り乱し、走り回りながら、大金をはたかないと、いい席は手にはいらない。3年前の来日公演は、こうやって6公演全部をアリーナで見ることができた。ストーンズが本当に好きで、余裕がある人じゃないと、こんなことはできない。つまり、ストーンズのチケットは、他人には頼めない。

 ジリジリと待ちに待って2006年1月。ようやくストーンズのチケットの売出が始まった。追加公演もあるはず…と、さらにイライラしながら2月まで待っていたが、ラチがあかない。このままだと、ストーンズが来日してしまう!…ということで、申し込んだストーンズのチケットが届くのも、追加公演が決定するのも待てずに、インドに出かけることになった。

 今回は、インド家庭料理の作り方を習いたいと思っていたので、最低でも2週間以上は滞在したかった。私が最初にインドに行った20年前と比べると、カレー・ライスではない、インド料理を出す店は飛躍的に増えたが、大体がタンドリー・チキンなどがウリのノンベジ(non-vegetable)レストランだ。タンドリー・チキンやマトン・ビリヤーニもおいしいが、やっぱりインド料理は、野菜料理がおいしい。どこの国でもそうだと思うが、レストランで出てくる料理は、しょせん家庭料理にはかなわない。20年来のおつきあいになるマカーニー家は、完全なベジタリアン(菜食主義)で、そこで食べた料理のほとんどは、日本のインドレストランのメニューにはない。インド料理の本などを取り寄せ、自分なりに作ってはみたが、もっと色々なメニューを知りたかった。

 行く、と決めたら早いほうがいい。3月後半にはストーンズが来るのだ。それまでに帰って来られるようにしなくては。

 航空券の空き状況を確認し、家庭料理を習おうとしている、マカーニー家に連絡。マカーニー家とは、20年前にアーメーダバード駅の待合室で会って以来のつき合いだ。もともとの文通相手、ラーダーちゃんはMBA取得のため、アメリカの大学に通っていて、今回はインドに帰れないというのに、ずうずうしくお邪魔することになった。今回も土産を詰めたトランクを引きずっていくので、インド入国後、デリーからまっすぐマカーニー家のあるドゥルグに行く予定。プネーに住んでいるゴーヴィンドにメールで日程を知らせ、その後の旅行相談にのってもらう。インド人は基本的に旅行好きなのか、忙しい仕事の合間を縫って、あれこれと具体的なアドバイスを送ってくれる。

 ところが出発3日前、家長から電話があった。

 「悪い。とーこの到着予定日に、娘の結婚話をしにグジャラート州に行くことになった」
 「えー。みんな出かけちゃうの?到着予定日を1週間遅らせましょうか?アーメーダバードに行こうと思っていたから、そっちを先に回ってからドゥルグに行きますよ」
 「アーメーダバードならグジャラート州なんだから、途中で合流しよう。一緒に寺参りしよう。いい寺がいっぱいあって楽しいぞ」

 やだよ。待ち合わせなんてそんな複雑なこと…。だいたい合流したら、私が行きたいところなんて行けなくなりそう。私が行きたいのは寺じゃなくて、博物館と遺跡だ。

 「いえいえ…、大事な結婚話ですから、そちらを優先してください」
 
 というわけで、せっかくゴーヴィンドが綿密にたててくれたスケジュールは一から見直し。デリーから入って、アーメーダバード、ドゥルグに行き、その後アウランガバード、ムンバイに向かうコースに変更する。

ページTOPへ戻る
早くもインドペース


 料理を習う以外に、今回はアーメーダバードと、エローラ・アジャンターに行きたかった。どちらもインドの西側にあるので、ムンバイから行くのが便利だが、去年オープンした「アクシャルダム」という巨大なお寺と、地下鉄を見たくて、デリーに滞在する予定も入れた。アクシャルダムというのは、20年来のインド人の友人、ラーダーちゃんの婚家の信仰する、スワミナラヤン教のお寺。豪華絢爛な造り、マックスシアターでの上映会や、光のショーなどで、オープン以来、インドでも話題になっていた。
 地下鉄はコルカーターについで、インド国内では2番目にできたもので、安くて快適との評判であった。
 
 と、いうわけで、デリー・イン、ムンバイ・アウトの航空券を予約したが、なかなか届かない。日本とインドのビジネスが盛んになり、ビジネスの拠点地ムンバイ=東京間の便の需要が増えてきたというのに、1月以降、ムンバイ発東京行きの便の運行が減ってしまったらしい。ようやく航空券が届いたのは出発前日。この旅行代理店を使うのは今回で3回目だが、次回は変えてみよう。

 出発当日。通勤時間帯で荷物も多いので、750円も出してグリーン車に乗ったというのに、人身事故のため、大宮駅で電車が止まってしまった。しかたがないので、大宮から新幹線を使い上野へ。通常820円で行けるところが、グリーン車券+新幹線代を加えて、片道2,410円もかかってしまった。新幹線を使い、なんとか京成線の上野駅にたどりつく。運良く特急があったので、スカイライナーを使わずに、1000円で成田空港まで行ける。エアー・インディアの出発ロビーのある成田空港第二ビルには10時すぎに着いた。海外で使える携帯電話を借りたりして、余裕のチェック・イン。ところが、11時半を過ぎても、搭乗が始まらない。

 「整備のため出発が遅れています。整備終了時間は未定です。1時になったら、状況を再度アナウンスしますので、ロビーにお集まりください。」

 またか。まったくエアー・インディアは遅延が多い。空港内のふたつのレストランで使える1500円分の食事券を出してくれたが、どちらの店にも菜食主義のインド人が食べられそうなものはほとんどない。1時になり、ふたたびロビーに行ったが、結局出発したのは2時半過ぎ。作家の五木寛之氏も同じ便でインドにいくらしい。取材コーディネーターらしき人から遅延の説明を受けていたが、他のツアー客と違い、イライラすることもなく、落ち着いていた。搭乗アナウンスというほどのこともなく、バタバタと搭乗手続きが始まったので、宿泊予定のホテルに、到着予定時間変更の連絡をするヒマもなかった。

ページTOPへ戻る
デリー観光1日目


 到着が3時間遅れたにもかかわらず、出迎えの車が待っていた。ホテルは、「日本語OK」の、ゴニトラベルという旅行会社を通じて予約した。日本から予約できるところは、安くても$50以上、ほとんどは$100〜$150程度の高めのホテルがほとんどだが、ここは、空港への出迎え付き1泊4,800円、出迎えなし2泊目2,300円と割安。もっとも、インド国内に入ってしまえば、割安というよりは、むしろ高めかもしれないが、2年前インドで最初に泊まったホテルより安い。
 着いた宿はデリーの中心地に近いカロル・バーグのちょっとはずれ。部屋はまぁまぁだが、冷蔵庫もバスタブもない。こういう宿に泊まるのも久しぶりだ。2,300円というとRs800〜900。部屋のグレードからすると、Rs500がいいところだと思うが、デリー駅前の安宿街に比べると、静かだし不満はない。

 翌日、さっそく事務処理に取りかかる。まずはメトロに乗ってニュー・デリー駅へ。この去年できたばかりの地下鉄は、まだピカピカだが、もうすっかり市民の足になっているようだ。


宿泊先最寄りのメトロ、ラジェンドラ・プレース駅


 まず窓口で行き先を告げて、料金と交換で、トークンという、赤い直径3cmほどの円盤状のプラスチックをもらう。自動販売機に慣れているので、窓口に並ぶ、というだけでも、けっこう面倒に感じる。次に、荷物検査。どの駅にも検査係が2〜3名いて、バッグを開いて中身をチェックする。高さが60cmを超える荷物は地下鉄に持ち込めないらしい。荷物検査をした後、空港内にあるような金属探知器のゲートも通らなくてはならない。たかが地下鉄に乗るためになんて面倒な…と思うが、インドではテロも多いし(4週間の滞在中、全国紙に載ったもので、私が気づいただけで3件のテロがあった)、日本のサリン事件のこともよく知られているので、みんな協力的だ。
 トークンは、suicaカードのように、自動改札機にタッチして入場する。
 地下鉄のホームはすっきりときれいなので、写真に撮ってもいいか、と聞いてみたが、案の定だめだった。インドはパキスタンや中国と国境問題でもめているので、駅や空港、港、ダムなど、攻撃される可能性のある場所は、全て写真撮影を禁止している。
 出るときは、トークンを自動改札のスロットに入れて出る。いちいちトークンを買わなくてもいいように、1日乗車カードや3日間有効の乗車カードもあるが、なぜか割高。

 メトロでスムーズにニューデリー駅まで行き、アーメーダバード行きの電車の予約をする。ニューデリーもアーメーダバードも大都市なので、遠くても交通の便はいい。ラージダーニ急行という、超特急電車が運行している。このラージダーニ急行に乗ることも目的のひとつだ。人気の電車だが、ひとりのせいもあってか、3日前だというのにすんなり予約が取れた。

 次はエアー・インディアの予約再確認。またまたメトロで移動して、あっという間に終了。ついでにシティ・バンクのATMでルピーの引き落とし。シティ・バンクに口座があると、各国のATMで、各通貨での現金引き落としができるのでとても便利。用をみっつも済ませたのに、まだ昼前なので、続いて鉄道博物館へ行くことにする。

 インドは鉄道王国なので、鉄道博物館も充実している。イギリスの植民地時代に作った蒸気機関車や、フェアリー・クイーンという、1997年まで動いていた優雅な蒸気機関車などが展示されている。ほとんどの見学者は子供の集団だが、ときどき、熱心に写真を撮っている大人のインド人がいる。…テツなのであろう。テツでない私は、中庭に作られていた、線路の整備をする鉄道労働者の人形と線路の模型がおもしろかった。
  博物館のカタログなどを買いながら、博物館の職員にちゃっかり旅行の相談をする。
「…こことここに行きたいんですけど、どういうルートで行くといいと思います?」
 なにしろ職員ともなれば、インドのテツの代表みたいな人だ。たちどころに、プランを出して、時刻表で調べてくれた。ふむふむ…と拝聴しながらも、(バスで移動した方が早そうだな…)と思ってしまう。インドはあれだけ鉄道網が発達しているのに、毎日運行している電車がそう多くない。月水金の週に3日だけとか、中には週に1本だけしか運行していない電車もある。乗り換えや移動を考えると、電車も制限されてしまう。


 鉄道博物館を出て、コンノート・プレースに戻り、本屋巡り。1軒目の本屋にお目当ての本がなかったので、他の本屋を紹介してもらう。紹介してもらった「The Variety Book Depot」というところは、店舗がなく、倉庫のようなところだった。本屋がたまたま「Ruby Tuesday」の近くだったので、ちょっと遅めの昼食をそこで取ることにした。「Ruby Tuesday」というのは、ローリング・ストーンズの曲名を取ったアメリカのファースト・フード・チェーン店だ

 デリーには3泊する予定で、アーメーダバード行きの電車を予約したが、2日目にして早くも、デリー滞在目的のほとんどをこなしてしまった。今までは、電車予約、換金、リコンファームなど、「事務作業」と呼んでいるものを、1日にひとつ済ませれば上出来という感じだったが、インドも効率がよくなってきたようだ。

ページTOPへ戻る

デリー観光2日目


 翌日は、スワミナラヤン教の巨大な寺、アクシャルダムへ。ホテルの近くからオートリキシャーで1時間ほどかかった。オートリキシャーには開閉できる窓がなく、開けっ放しなので、排気ガスがもろに入ってくる。人も車も多いのでインドの公害は年々ひどくなっていく。デリーでは数年前から、商用車の燃料をディーゼルから天然圧縮ガスに変更することを義務づけているそうだ。オートリキシャーの色が変わったな、と思っていたが、黄色×緑のオートは、燃料を天延圧縮ガスに変えた車らしい。

 アクシャルダムはヤムナー川を渡ったところにあった。


でかーい!

 お寺というよりお城。本殿だけでなく、それを取り囲む回廊、宿泊施設や図書館なのか、別棟の建物がいくつか、大きな池のある庭…。入場料は無料だが、入るためにはいっさいの荷物を預けなければならない。私は財布とパスポートだけ携帯を許されたが、3回ボディチェックを受け、財布の中も2回見られた。できたばかりの新名所のせいか、学校の集団見学も多く、長蛇の列。なんだかんだと入るまでに20分近くかかった。
  スワミナラヤン教というのは、ヒンドゥーのヴィシュヌ派の聖人を始祖とする新興宗教。インドには他にも、シルディ・サイババ、サッティア・サイババ、ラーマクリシュナなどなどの聖人を信仰するヒンドゥーの諸派がたくさんある。スワミナラヤン教の信者は資産家が多いのか、豪華なお寺が海外にもたくさんあるらしい。
   建物の中も外も、どこもかしこも彫刻で埋められている。本殿の後ろ側ではまだ彫刻の作業が続いている。見たところ、彫り師のほとんどはムスリムのようだ。


柱も

 
天井も、彫刻でいっぱい

 
 あまりの豪華さに、宗教心を感じないくらいだが、フロリダのスワミナラヤン寺院の青年女子部で活動をしているラーダーちゃんへの話のタネに…と、51ルピーのお布施でお祈りもしてもらった。

 アクシャルダムからデリー城(ラール・キラー)の門前町、チャンドニー・チョークへ行き、ラース・ビハーリ・ボースゆかりのカトゥーラ・ドゥールヤーへ。チャンドニー・チョークは相変わらずの混雑ぶりで、道を歩くのも一苦労。インドのお菓子を堪能する

中央に見える、黄色×緑がオートリキシャー
↑チャンドニー・チョーク↓

 地下鉄に乗り、またニューデリー駅まで。ニューデリー駅前には、パハール・ガンジという、バーザールがある。ここには安宿もたくさんあり、世界中のバックパッカーが来るので、日本語フォントの使えるコンピュータがあるかもしれない…と思ったらやはりあった。最近は韓国人の旅行者が増え、待ちを歩いていると、「アンニョハシムニダ」と、声を掛けられることも多い。ハングルも日本語と同様にマイナーな言語なので、日本語フォントを使えるネットカフェを探すと、たいてい韓国人もいる。


『デリーでお世話になった人たち』

○ホテルの近くのパンジャービー菜食レストランのマスター
 ホテルから徒歩2分の場所にあるベジタリアンレストラン、「チョープラー」は、朝7時半から開いていて、おいしくて安かったので、朝も夜も毎日通った。マスターはかなり太っていて、よたよたと大儀そうに歩いていたが、味付けは絶妙。特にカリフラワーのはいった、ゴービーパラーターがおいしかったなぁ。

○ホテル近くのネット屋の老夫婦
 ここにも毎日2度ずつ通った。60代の夫婦が3台のパソコンと電話2台で、ネット屋と電話屋をしている。ここも比較的朝早くから開いている(9時半〜)。夫婦で仲良くグリーンピースの鞘むきなどをしながら店番をしていた。

○ホテルの人たち
 2泊の予約しかしていなかったが、なかなか快適なので3泊した。観光の交通案内をしてくれたり、リキシャーを拾ってくれたりと、親切。毎日冗談ばかり言い合っていたけど、発つ前の日、「明日は休みで、会えないから」と、わざわざサヨナラを言うために、フロントで待っていてくれた人もいた。

ナオミさん
 チェックアウトする日にホテルのフロントで遭遇。ナオミさんも同じ日にニューデリー駅から出発する予定だったので、半日ご一緒させていただき、たっぷり日本語でおしゃべりができて嬉しかった。  


デリー駅近くの路地



ページTOPへ戻る
ラージダーニー特急

 


出発前にニューデリー駅スタンドで飲んだチャイ
昔ながらの素焼きのカップだが、お茶はティーバッグ(ミルク入り)

  デリーからアーメーダバードへは、高級列車「ラージダニー特急」を利用。10年以上前に、ガヤー=デリー間をラージダーニーで行ったことがあったが、そのときよりサービスが向上していた。デリーからアーメーダバードまで15時間の間に、食事2回、スナック2〜3回(お茶つき)、ミネラルウォーター1リットル、新聞1部、毛布、枕、シーツ2枚がついてきて、トイレも車両内も清潔。普通の特急のような2等車と2等寝台車がない。一番安いクラスでもAC付き2等3台寝台車だ。乗っている客も何となくハイソ。私の車両は、AC2等2台寝台車で、乗客は6人。私の寝台の上と隣が、イタリア人のカップル。向かいの上段の寝台には、転職の面接に行く若者、通路側には話し好きの初老の紳士と、愛想のいい中年の紳士。インドの電車旅行は、長時間であることが多いので、みんな暇つぶしに会話を楽しむ。寝ている時間を除いて、ずーっと話をしていた。

 最初は、カタコトのヒンディー語が話せる私に、みんな興味津々で、日本社会の欠陥や少子化問題、電化製品の性能と価格から韓国製品との競合などの質問が相次いで、かなりくたびれたが、そのうちインド人乗客の興味はイタリア人カップルに移ったので、助かった。

 イタリア人の男女はジャイナ教系の宗派の信徒で、アルコールも煙草も取らない完全な菜食主義者。ニンニクや玉葱も食べないだけでなく、「同じ宗派の人が愛情を込めて調理した食物」と、ドライフルーツ以外は食べられないそうだ。ラージダーニー特急のただで出てくる食事やお菓子は、すごーくおいしかったのに、彼らは当然食べない。食事代わりにドライフルーツをもりもり食べていた。女性は25年前に、インドで初めてジャイナ教のその宗派を知り、入信。以来、年に1回、1〜2週間の休暇をとって、アシュラムに来ているらしい。イタリアにもイギリスにも、そして日本にも、同じ宗派のコミュニティはあるそうだ。男性もイタリアで彼女が勧誘して、今は同じフラットで共同生活をしているという。

 「君たちは恋人同士かね?」と、日本人ならちょっと聞けないような話題も、話好きのインド人はためらいもなく聞く。

 「いいえ、ブラフマチャルヤー(禁欲)を守っています」と、女性は慣れた口調で返したが、男性の方は(ばかばかしい…)という顔で、話題に入らないようにしている。女性は入信25年、男性は16年とのことだったが、この我慢強さの差は修行の年数によるものだろうか…などと、英語やヒンディー語で疲れた脳みそでぼんやりと考える。イタリア人は終点のアーメーダバードの手前の、アーブーマウンテン駅で降りていったが、早朝4時には起きて、ヨガをしていた。

電車の座席表。出発駅のホームや電車車両に貼ってある


ページTOPへ戻る
アーメーダバード観光・悪戦苦闘


 電車は30分ほど遅れてアーメーダバードに到着した。一昔前は、インドの電車は遅れて当たり前だったが、最近では(特にラージダーニー特急は)ほとんど遅れないらしく、30分たらずの遅れでも、面接に行く青年はかなりあわてていた。旅行者の私はのんきなもので、今晩泊まる宿さえまだ決めていない。リキシャーを拾って、ガイドブックにあるホテルの中からひとつ選んで行くように告げる。

 「そのホテルは△△という名前に変更しました」
 しばらく走ってから、運転手が言い始めた。出たな〜。客を連れて行けば、マージンがもらえるように、どこかのホテルと契約しているに決まっている。
 「変わっていませんよ。いいから、行って」
 「でもマダム、本当にそこは違う名前になったんです。それに、もっときれいなホテルがありますよ」
 
 駅から格安ホテル街までほんの10分足らずだ。そんなやりとりをしているうちにホテル街に着いてしまった。

 「いいから、とりあえず、そのホテルに行ってみて」
 「じゃあ、ちょっと戻ることになるけど…。試しに、僕のお薦めホテルを見てみれば?」
 普段なら警戒してぜったい断って、最初のホテルに行かせるのだが、まだ昼前で明るかったし、そこらじゅうにホテルの看板もたくさんあるので、つい、OKしてしまった。ホテルの部屋を見せてもらうと、これがなかなかいいので、泊まることにする。 

冷蔵庫、エアコン、バスタブはないけど、なかなかおしゃれな部屋。
毎朝新聞も入れてくれて、1泊、税込みRs430。


 運転手に、「このホテルに私が泊まると、ホテルからいくらもらえるの?」と聞くと、「10ルピー」と答えたので、最初の取り決めから10ルピー減額してリキシャー代を支払う。
 チェックインして、一休みしたあと、グジャラート州観光局に行くことにする。20年前に来たときに、観光の相談をした懐かしい所だ。「海が見たいんですけど…」と、漠然とした希望を言って、ソームナートという、日本語の観光ガイドブックには、載っていない場所を紹介してもらった。リキシャーを拾い、観光局までと言ったのだが、変な所で降ろされてしまった。20年前にも一度来ているけど、場所が変わったのかな?と、10分くらい歩いてようやく観光局が見つかった。…20年前と同じ場所だ。てきとーなところで降ろしたな…。

 観光局でアーメーダバード市内と近隣の地図をもらおうと思ったが、「ない」という。アーメーダバードはグジャラート州最大の都市であるにもかかわらず、州観光局の主催するバスツアーも何もないのだそうだ。基本的に観光は、バスかリキシャーを使って自力でするしかないようなので、バス乗り場やバスの番号くらいしか聞くこともない。  

 翌日は早朝からキャリコ博物館をめざす。キャリコ博物館は入館料無料だが、見学するためには、午前と午後、それぞれ1回ずつある館内ツアーに参加するしかない。集合時間に遅れると入館できないので、かなりの余裕を見てホテルを出発し、リキシャーに乗る。

 「キャリコ博物館、知っています?」
 「ミュージアムだな?」
 リキシャーワーラー(運転手)はうなずくが、不安なので念を押す。
 「キャ・リ・コ・ミュージアム、ね、サヒーバーグにある。ちゃんと知っていますね?」

 リキシャーワーラーは、めんどくさそうに「乗れ」、というように手を振るので乗り込む。ところが、少し走るとあちこちで止めて人に聞いている。本当に知っているのかな?またしばらく走って、止めて、「ここだ」というが、ミュージアムらしき建物はない。前の日に観光局から離れた所で降ろされたので、慎重になる。

 「どこ?ここじゃないでしょ」
 「道の反対側だ」
 「じゃあ、あっち側に渡ってよ」
 「道路が混んでいて大変だからここで降りて、自分で渡ってくれ」

 ここは絶対違う…という気がしたので、そのへんにいる人に聞いてみると、案の定キャリコ・ミュージアムではなかった。

 「違うじゃないの!あれは別のミュージアムよ!」
 「あんたはミュージアムに行けと言ったじゃないか!」
 「キャリコ・ミュージアムだって言ったじゃない!」

 ギャーギャー大声を出して抗議していたら、人が大勢集まってきた。

 「どうしたね、マダム」
 「私はキャリコ・ミュージアムに行くように言ったのに、この人ったらここで降ろすんですよ!」
 「だってミュージアムじゃないか!」
 「このミュージアムじゃなくて、キャリコ・ミュージアムって言ったでしょ!」
 「まぁまぁ、マダム、それであんた、どうしたいんだね?」
 「これから急いでキャリコ・ミュージアに連れて行ってくれるんならお金は払いますが、場所を知らないんなら、他のリキシャーを拾います」
 「あんた、じゃあ俺に、ここまでのリキシャー代をくれないっていうのか?」
 「あったりまえでしょ?私はこのミュージアムには何の用もないのよ。キャリコ・ミュージアムの入館時間に間に合わなかったらどうしてくれるの?」

 そりゃそうだよなぁ…マダムの言うとおり…なんて、寄ってきた野次馬は無責任にワイワイ言っている。

 「知らねえよ、キャリコ・ミュージアムなんか!」

  キー!となった私はプリプリしながら他のリキシャーを探しに歩いた。余裕を見て出てきたのに、こんなところで降ろされてしまい、集合時間まであと20分しかない。朝の交通ラッシュ時だったので、意外なことにリキシャーはなかなか見つからなかった。かなり遠くまで歩いてようやく見つけたリキシャーに値段交渉をして乗り込む。
 ところがなんたることか、またさっきと同じ場所の、道路の反対側のミュージアム前に車を止められてしまった!

 「だからこのミュージアムじゃなーい!」

ページTOPへ戻る

シャカリキ観光


 もう集合時間にはぜったい間に合わないので、駅に行って、ドゥルグ行きの電車を予約することにする。本日3度目のリキシャーを拾って、鉄道予約センターに行ってもらう。まだ若い少年のようなリキシャーワーラーで、メーター料金で行ってくれた。駅についてメーターを見ると、たったの26ルピー。ホテルと駅の2倍強の距離があったが、最初の日に、ホテルに連れてきてもらい、10ルピー減額したリキシャーのいい値よりさらに安い。インド6度目であろうが、ヒンディー語がしゃべれようが、ぼられるヤツはぼられるのである。

  ドゥルグ行きの切符を取り、少々換金して、市バスのツアーに参加することにする。市バスツアーの申込所に行くと、ツアー参加者は私を入れて7人だけ。外国人は私だけだ。運転手の他に、バスガイド(50代と思われる女性)もつき、しっかりした口調で名所案内をしてくれたが、アナウンスはヒンディー語だけ。しかも、観光予定に書いてある15カ所のうち、バスを降りて見たのはたったの5カ所だけだった。グジャラート州の実質上の州都、アーメーダバードの観光バスとしてはかなり寂しい。

 見学したのは、ハティースィン・ジャイナ教寺院、サーバルマティー(ガーンディー)・アシュラム)、シュレヤース民族博物館、パテル記念館とサンスカール遊園地だけ。シュレヤース民族博物館は、個人の収集家の集めたもので、インド各地や外国の物産も数多くあったが、グジャラート州の生活用品や衣装が充実していておもしろかった。そこでは、博物館員が説明をしてくれたが、他の場所ではバスを降りて勝手に見学するだけだ。

 バスに置いてきぼりにされないように、ツアー客の老夫婦の後をくっついていくことにした。

 老夫婦は、ソームナートから、孫娘の結婚式のためにアーメーダバードに来たのだという。ソームナートは20年前に観光局から推薦されて行った懐かしい土地だ。 「のどの乾きが薄れるよ」と、ミントキャンデーをくれたり、「ふたつ持っているから」と、ポケットカレンダーをくれたり、なにかと親切にしてくれる。ガーンディーやパテルは、インドの中でもグジャラーティーの英雄なので、サーバルマティー・アシュラムとパテル記念館では、おじいちゃんが本を薦めてくれる。70代以上だとは思うが、仲のいい夫妻で、階段を昇ったり、歩くときには、手をつないでいる。

  アーメーダバードは大都会で、道幅も広いし、交通量も多い。信号はほとんどないし、車は止まってくれないので、なかなか道も渡れない。すると、老夫婦のおばあちゃんが私の手を握り、もう一方の手をおじいちゃんと繋ぎ、一緒に道を渡ってくれた。  


 翌日は早朝6時半から、アーメーダバード最大のモスク、ジャマー・マスジッドを見学。日中は37〜38度くらいになる気温も、朝はまだ低い。人も車も少ないので、歩くのも楽だ。ジャマー・マスジッドは、ひろびろとして、さわやかな静寂が広がる気持ちのいいモスクだった。

   

アーメーダバードのジャマーマスジッド

 その後、ホテル近くのスィディー・サイヤード・モスクを見学。このモスクは礼拝堂しか残っていないが、窓の精緻な彫刻がとても美しい。朝日が差し込む窓に見とれていると、声を掛けられた。

スィディー・サイヤード・マスジッドの透かし彫り

  「きれいでしょう。どの窓も違うデザインの彫刻なんですよ。ほら、柱も見て…」
 ほんとうだ。柱にも天井にも彫刻がびっしり。
 「もうアーダーラージは行きましたか?」
 
 アーダーラージ!アーダーラージの階段井戸!アーダーラージの階段井戸は、10年ほど前に神谷武夫の『インド建築案内』という本で知ってから、ずーっと見たかった。 ちなみに、この『インド建築案内』というのは、(持っていてよかった)と心から思うすばらしい本だ。インド好き、建築好きの人でまだ持っていない人は、買うべし。

 「まだなんですよ。きのう市バスの案内所で聞いたら、バスを乗り継がないと行けないらしいですね。とても見たいんですけど」
 「僕のリキシャーで行きませんか?」
 リキシャーワーラーだったのか…。アーメーダバードに来てからリキシャーワーラーには苦労しているので、ちょっとためらう。
 「往復で250〜300ルピーで、他の場所も回りますよ」

 ホテルで聞いた相場だと、300〜400ルピーだったので、話がうますぎるような気もする。でも、アーメーダバードには、キャリコ博物館と階段井戸を見たくて来たようなものだ。リキシャーのプレート・ナンバーを書き写したり、リキシャーワーラーの名前をメモ帳に書いてもらったり、ホテルに行き先を告げに帰ったりと用心しながらも、そのリキシャーワーラー、フィローズ・バーイー のリキシャーに乗ることにした。

ページTOPへ戻る

階段井戸、キャリコ博物館


 そのリキシャーワーラー、フィローズ・バーイーは階段井戸だけでなく、あちこちを案内してくれた。

 ラーニー・ルプマティーのモスク、ムハフィーズ・ハーンのモスク、クトブッディーン・モスク、ダー・ハリマー・マスジッド、スワミナラヤン寺院、などなど。モスクにはきれいな布で覆われているお棺が安置されている場合も多い。フィローズ・バーイーはお棺の布をめくって、彫刻をよく見ろ、というのであわてた。
 アーメーダバードにはモスクも寺院もたくさんある。イスラム、ジャイン、ヒンドゥーと、宗教は違うのだが、どれもこれもびっしりと彫刻がほどこされている。特にモスクは見事なものが多いのに、手入れがよくなくて、彫刻が欠けたりしているものも多い。
 「ヒンドゥーのお寺には改修費用が出るのに、マスジッド(モスク)には政府が補助しないんだよ。これだけの芸術品だっていうのに…」と、フィローズ・バーイーも残念そうだ。

 階段井戸は、市内にあるダーダー・ハリと、市内から20kmほど離れたアーダーラージの2カ所を見た。規模はアーダーラージの方が大きく、すばらしい。外気の気温は37〜38度だが、井戸へ続く階段を下りていくと、石でできた壁も空気も、しだいにひんやりしてくる。アーダーラージの階段井戸は、井戸というより宮殿だ。地表から水を汲む場所まで20〜30mくらいあるが、そこまで続く階段や踊り場、バルコニーには美しい彫刻で飾られている。井戸の水はまだ枯れていないようだった。井戸のまわりを、3層か4層のバルコニーが囲んでいる。


1.地表に見える階段井戸の建物 


2.上から覗いた階段井戸



3.地下1階


4.バルコニー

5.下からバルコニーを見上げる

6.ニッチ(くぼみ)の彫刻

 グジャラートやラジャースタン地方には階段井戸が多く、7層のバルコニーを持つ、さらに大きなものも残っているという。地表の階段口から下を覗き込んだり、1番下の井戸から上を見上げたりすると、くらくらする。井戸を掘った人、階段を作った人、井戸から水を汲みあげた人などが、実在したということが恐ろしく思えるほどの深さだ。


階段井戸の下から見上げる

 
 あちこち見たあとで、アーメーダバードから40kmほど離れた、グジャラート州の州都、ガーンディーナガルのアクシャルダムを見に行った。デリーにできるまで、ここが国内最大のアクシャルダムだったらしいが、だいたいデリーと同じ。アクシャルダムの他に、アーメーダバード周辺にはスワミナラヤン教の寺院がいくつもあった。同じスワミナラヤン教でも、いろいろなセクトがあるらしい。

 フィローズ・バーイーの観光案内が非常によかったので、翌日も彼のリキシャーでキャリコ博物館で行くことにする。
 ところが、フィローズ・バーイーは、私が考えていた逆方向にリキシャーを走らせる。どうやら、私の持っているガイドブック『地球の歩き方』の地図が間違っていたらしい。キャリコ博物館がインド人にあまり有名でなかったうえに、地図まで間違っていたとなると、2度も別のミュージアムに行ってしまったのも無理はない。

 キャリコ博物館は、建物もすばらしかった。グジャラート州は砂漠に近いところで、木材などほとんどないはずなのだか、木造彫刻が有名である。とくに、ハヴェリーとよばれる、邸宅の門などには、すばらしい彫刻で飾られた木製の扉や枠が使われている。キャリコ博物館の門や建物の一部にも、彫刻を施したどっしりとした木が使われていた。門をくぐると、うっそうと木が茂った庭がある。ここが予約やツアーでなく、勝手に出入りできるなら、ずーっとここにいたい。写真撮影厳禁なうえに、所蔵品を網羅したカラーの図録がないのが残念だ。
 館内ツアーは、午前がテキスタイル、午後は細密画や工芸品など。特に午前ツアーのテキスタイルがすばらしい。インド国内のあちこちのテキスタイルがそろっている。
 インドは布製品の宝庫だ。ヴァラナシー(ウッタルプラデーシュ州)の金糸を織り込んだ絹のサリー、オリッサ州のアップリケや絣、カシミールの毛織り物と刺繍、ラジャスターンのミラーワーク、ブロック染め、ベンガルの刺し子…など、すばらしいものがたくさんあるが、グジャラート州は、絞り、絣、更紗、ビーズワークが有名。絞りや絣はここが発祥の地とされている。特にアーメーダバードは、「インドのマンチェスター」と呼ばれるほど、織物産業のさかんなところで、到着以来「キャリコ博物館、キャリコ・ミュージアム」と騒いでいた私に、「バーザールに行けば、かなりの芸術作品が見られる」と、教えてくれた人もいるくらい。

 しかし、キャリコ博物館の所蔵品は、バーザールやムンバイのブティックで売られている高価なサリーとも比較にならない。マハラジャの衣装を見たこともあるが、それと比べてもすばらしいものだった。日本のインド雑貨店で売られている安いインド服と、この博物館にある布と、同じインド人が作っただなんて…と、無意味な比較をしたくなる。
 凹凸がなければ、そうとは信じられないほど精緻な刺繍。絞りは日本が一番細かくてきれいだと思っていたが、とんでもない。絣もすさまじい細かさだ。仕事が細かいだけではない。作られてから何年経っているのかわからないが、この配色のみごとさ!豪華でしかもシック。館内ツアーなので、ひとつひとつゆっくり見る時間がなくて残念だったが、丁寧に見ていたら、龍村平蔵展を見たときのように、気分が悪くなっていただろう。館内ツアーのガイドの学芸員の説明もすばらしかった。インドなまりの英語だが、格調高く、質問にも丁寧に答えてくれる。これだけの内容のツアーが無料だなんて、インドの文化水準はやはり高い。

キャリコ博物館の門。塀があり、櫓門にも似ている


ページTOPへ戻る

だんだん近づく親戚


 20年前は3度も駅に立ち寄りながら、全く観光しなかったので、アーメーダバードでは朝早くから精力的にあちこち見て回った。そうしている間にも、ホストファミリーのマカーニー家からは何度か連絡があった。まず、家長のブラトさんや、ブラトさんの長男で、次期家長候補のスシールからは、携帯電話と携帯電話へのメール。ブラトさんの娘の結婚話でグジャラート州に来ていて、亡くなったおじいちゃんの親戚やら、スシールの嫁の実家やら、方々を回っているらしい。次にブラトさんのすぐ下のアルジュンおじさんからのEメール。アルジュンおじさん一家は、マハーラーシュトラ州のナーシクを旅行中。どちらも途中で待ち合わせして、一緒に旅行しようというお誘いだったが、私は断って、1人でドゥルグに行く電車を予約した。そしてドゥルグの家にに到着予定日時を電話すると、電車の予約をキャンセルして、ブラトさん達と合流するようにさんざん勧められる。
 アーメーダバード周辺のグジャラート州は、グジャラーティーであるマカーニー家の文化的なホームグラウンドだ。一緒に旅行すれば、普通の日本人観光客が行けないところに連れて行ってもらえたり、おもしろい解説も聞かせてもらえるだろう。そのかわり、おそらくキャリコ博物館やアーダーラージの階段井戸は見られなかっただろう…。隣町のヴァドーダラーも観光したかったが、いよいよドゥルグに向けて出発することにした。

 そもそもマカーニー家とお付き合いするようになったのは、偶然、20年前にアーメーダバード駅の待合室で出会ったから。ドゥルグ行きの電車に乗る前に、思い出の待合室を見に行く。
 20年前は女性用の待合室だったが、今は予約チケットを持っている人の待合室になっていた。20年も前のことなのに、自分が座っていた場所もすぐわかった。ラーダーちゃんとした会話や、お姉さんのニシャーの持っていたSony製の黄色いトランジスタ・ラジオなど、はっきり覚えている。
 女性用待合室は小さな部屋に換えられていた。20年前は女性用待合室といっても、女性を連れた家族連れも利用できたが、今は女性専用になっているようだ。もうひとつ「Upper Class」用の待合室も新設されていた。20年前のアーメーダバード駅周辺には、手相見や、グジャラーティー語のタイプを打つタイプ屋がたくさんいたが、今回はひとつも見かけなかった。


『アーメーダバードの思い出』

○Super Cyber Cafe
 「スーパーサイバー」という名前の割には、回線が細いのか、よく落ちるネット屋。蚊も多かった。ナインティナインの岡村くんを小太りにして、七三分けにしたような「ファリード・サイード」君には、日本語フォントを入れてもらったり、アーメーダバード市内の地図をプリントアウトしてもらったりと、毎日何かとお世話になった。

  

Super Cyber Cafeの建物、街頭の広告、内部のようす

○Green House
 高級ホテルの隣にある、おしゃれなオープン・カフェ・スタイルのグジャラーティー・レストラン。伝統的なグジャラーティー料理はマイルドで甘いが、ここの料理は甘いながらもバランスがよく、おいしかった。 

Green House店内と注文したご飯

○Lucky
 南インドレストラン。朝は8時から開いているので便利。ウプマやイドリー、どれもこれもおいしかった。

○A to Z
 靴屋。Rs395も出して買ったサンダルがたった1日で壊れてしまったので、どなりこんで、他のサンダルと交換した。

○Volga
 4泊したホテル。泊まった部屋はエアコンなしだったが、エアコン付きの部屋もあり、さらにきれい。ホテル内にレストランはないが、ルームサービスがあり、安い。従業員も親切。

○State Bank Of India
 仕事が速くて親切。今までインドで利用した銀行で一番感じがよかった。空港の銀行もこのくらいのレベルだといいんだけど。

ページTOPへ戻る

2年ぶりの再会


 ドゥルグ駅に着くと、プラットホームに迎えが来ていた。いつもはアルジュン叔父さんが私の担当なのだが、きょうは、プネーにいる家族と、ナーシクに旅行中なので別の人だ。…もしかしてプレーム?!
 2年前に会ったばかりだというのに、プレームはすっかり感じが変わっていた。ひょろっとした体型は相変わらずだが、眼鏡をとってコンタクトにしている。ちょっとひげをはやし、サングラスで長めの髪をとめているあたり、すっかりイマドキのワカモノだ。プレームの背中を叩きながら再会を喜ぶ。プレームは相変わらずやせているので、荷物はポーターに運んでもらうことにする。たいていの駅では、ポーターの印は赤いシャツだが、ドゥルグ駅ではなぜか青いシャツだった。ちなみに、ポーターは自営業らしく、駅の認可を受けた人は胸に金属の認証を付けているが、シャツは制服ではない。目印になるような赤や青のシャツを各自着ているようだ。

 ドゥルグの家では2年ぶりの懐かしい顔が待っていた。残念なのは、ミーナー叔母さんがいないこと。叔母さんといっても、私と同じ年の若さなのに、去年7月の終わりに、心臓発作で急逝した。それまで胸が苦しいとか、前兆が全くなかったのに、明け方、急に苦しみだして、数分で息を引き取ってしまったという。ミーナー叔母さんと、伊達男のプラシャント叔父さんは、とても仲のいい夫婦だったので、なんと声をかけていいのかとまどってしまう。亡くなった知らせを聞いて、すぐにお悔やみの手紙は出したが、プラシャント叔父さん本人を目の前にすると、うまく言えない。泣きそうになった私の肩を、ポンポンと叩いて、逆に叔父さんが慰めてくれる。

 2年の間に、他にもいろいろな変化があった。

 アメリカで暮らしているラーダーちゃんは、MBA(Master of Business Administration、経営学修士)の資格を取るために大学に通い始めた。まだ学校に行っていない下の息子、ラーフルの世話ができないので、去年の4月から、インドの実家の両親に預けている。

 ラーダーちゃんのお母さんは、去年乳ガンの手術をした。術後の経過は順調らしいが、治療のため剃ったのか、それとも治療の影響なのか、髪の毛はようやく3センチほど伸びてきたところ。

 ラーダーちゃんのお姉さんのニシャーは、2年前、私が日本に帰った翌週に再婚して、今は妊娠中。

 私に会うために12時間以上かけてわざわざ実家に戻ってきてくれたラーダーちゃんの妹、スシュミターは、1年ちょっと前に女の子を出産した。

 同じ頃、ラーダーちゃんの唯一の弟、スシールも結婚して、今は早くも1女の父である。

 そして、いつもお世話になりっぱなしのアルジュン叔父さんも今日はいない。子供が3人ともプネーに住むようになり、奥さんのナグマー叔母さんも世話をするために、プネーにいるので、アルジュンおじさんはドゥルグとプネーを行ったり来たりしているようだ。

 ラーダーちゃんの両親やおばあちゃん達は、ラーダーちゃんの妹、5女のタッブーの結婚話のためにグジャラート州から帰ってきたばかりなので、少々お疲れ気味。タッブーのお見合い相手はMBA取得のコンピューターエンジニアで、アメリカ行きの話が出ているので、今回の結婚話は流れたそうだ。ラーダーちゃんとすぐ下の妹、ラーキーがアメリカに住んでいるので、これ以上、娘を海外に出したくないらしい。ラーダーちゃんのお母さんは、去年乳ガンの手術をしたので、心細かったのだろう。

ページTOPへ戻る

インドの実家


 「あれだけ言ったのに、どうして合流しなかったんだ?スシールの奥さんの実家や、おじいちゃんの親戚、クリシュナ神の故郷やジャラーラームの故郷、ヴィルプルとか、みんなでいろいろ行って楽しかったのに」
 と、またさんざん言われる。

 まる一日着替えていないので、シャワー・ルームを使わせてもらう。ジーンズもインドに到着してから、10日近く履きっぱなしなので、我ながら気持ち悪い。すっかり甘えて、洗濯物を出す。他人の家で洗濯物を出すのは勇気がいる。最初に泊めてもらった頃は、自分で洗っていた。2年前にお世話になった時も、滞在期間が1週間と短かったので、日数分の着替えを用意して、下着だけは出さなかった。でも、勝手に洗って干したり、家に洗濯物を洗わずにためている方が迷惑だそうなので、好意に甘える。
 ジョイントファミリーのマカーニー家で出る洗濯の量はすごい。インドの衣類は薄い生地が多いし、日射しも強いので、今ならあっという間に乾いてしまうが、雨期は2階のホールが物干し部屋に変身する。気温が高くても乾期の時ほどには乾かないので、アイロンをあてて乾かすことになる。マカーニー家には洗濯機もあるが、大体はお手伝いさんが洗ってくれる。各自、シャワーを浴びるときに、脱いだ衣類をそのままシャワー室の片隅に置いておけば、定期的に取り出して洗うしくみになっているらしい。昔はそれを知らなかったので、シャワー室に女性ものの下着が脱ぎ捨てられているのに、年頃の男の子が入ったりすると、よけいな気を回したりしたものだ。

 マカーニー家には、洗濯をするお手伝いさんの他にも、何人も家に出入りする人がいる。マカーニー家におじゃまする度に、それぞれに紹介されるが、毎回メンバーが替わっている。今回は、「チャパティーを専門に焼く人」までいた。大人数の一家で、育ち盛りもたくさんいるので、食事どきになると、家族が焼いているだけでは間に合わないらしい。
 
 今回はヴェジタリアン料理を習うつもりで来たので、日本から持参した包丁とまな板をもって来た。マカーニー家の台所にはまな板はない。みんな器用に野菜を手に持って、小型ナイフでちょこちょこ切る。前にラーダーちゃんのお母さんと一緒に青菜を切った時など、「私はちぎった方が早いみたい…」と言ったので、みんな私のことを主婦としては無能だと思っているふしがある。まな板を取り出して、タタタタ…と切り刻むと、たちまち賞賛の声が上がったので気分がいい。千切りもみじ切りも日本人の敵ではない(?)。でも、まな板で切るより、掌の上で切るインド流の切り方の方が、野菜の繊維をつぶさないので、無駄に水気が出ないようだ。

ダイニングで野菜の下ごしらえ


ページTOPへ戻る

ヒンドゥー・ライフ


 翌日は「シヴラートリー」という祭り。マカーニー家の人が言うには、シヴァ神の誕生日だとか。ヒンドゥー教徒にとっては重要な祭りのひとつであるらしく、テレビでもあちこちの「シヴラートリー」の様子を放映していた。マカーニー家は近所のシヴァ寺院へ。
 シヴァ神のシンボルは「リンガ」と呼ばれる黒い石の柱。男根をシンボライズしたものだが、多産・繁栄の象徴でもあり、みんな御利益を願い、触れていく。家から持ってきた供物は、ミルク、色粉、花、ココナッツ、米など。リンガの上からミルクや水を注ぎ、花とココナッツは下にお供えし、色粉と米をリンガにつける。寺からも果物やお菓子などのプラサード(供物の下がりもの)をもらう。寺の門前には貧しい人たちが待っているので、プラサードは持ち帰らずに、その人たちにお布施として渡してもよし。シヴラートリーの日は、家族全員「断食」。マカーニー家では、だいたい週に1度くらい、それぞれが自分の決めた日に「断食」している。断食といっても、何も食べないのではなく、ローティー(主に小麦粉で焼いたパン。チャパティーやテプラー、パラータなど。)やご飯やダールといった、普段の食事をとらないだけで、果物や野菜、タピオカなどはとってもいい。断食というより「ごはん断ち」といった方が近いだろうか。

 この日は日曜日だったので、寺に行く前に、家でも日曜日のスペシャルなお祈りをする。普段は朝、シャワーを浴びた順にそれぞれお祈りをするのだが、日曜には仏間…というか、神様の厨子が置いてある部屋に全員集まって、たっぷり1時間ほどお祈りをする。今日のお祈り先導者は、次期家長候補のスシールだ。家長のブラトさんは、普段ダリー・ラージャラーという、別の土地にある家に住んでいるので、2年前に来たときは、ブラトさんのすぐ下の弟、アルジュン叔父さんが先導していた。きょうはアルジュンおじさんはナーシクへ行っていて留守だが、ブラトさんはいる。ブラトさんの長男、スシールにお祈りの儀式を執り行わせるのは、家長教育の一環なのかもしれない。スシールはグジャラーティー語で書かれたジャラーラームの聖典を読み、聖火を灯し、宗教歌の先導をする。

ヒンドゥーの厨子(親戚宅:クリシュナ派)


 シヴラートリーから帰って一服すると、ラーダーちゃんのお母さん、アーシャーさんが、病院に行くという。去年、癌の手術をしたので、月に一回、定期診断に通っているのだそうだ。
 「一緒に来る?」と、アーシャーさんに聞かれ、気軽に返事をしてしまった。ブラトさんとアーシャーさん、わたしの3人で隣町ビライの癌センターへ。2年前に小さなクリニックへ立ち寄ったことがあるが、インド病院に入るのは初めて。受付や売店、ロビーの待合い椅子など、日本の病院と変わらないが、入り口にヒンドゥーの神像がある。病院に入る前に履き物は脱ぐことになっている。私は「家族」として、診察室まで入ることを許された。シヴラートリーのお参りに行った後だったので、ちょうど昼時にあたってしまい、ランチタイムに入ってしまったドクターを待ちながら3時間近く病院にいた。大家族のマカーニー家では、ひとりひとりとゆっくり話すひまもなかなかないが、おかげでこの日はアーシャーさんとたっぷりおしゃべりをする時間があって楽しかった。

ページTOPへ戻る

親戚訪問1 バルガル


 次の日は、オリッサ州のバルガルへ行くことになった。「インドに来たらぜったい私に会いに来てね」と、さんざん言われていたので、ラーダーちゃんのお姉さん、ニシャーに会いに、嫁ぎ先まで訪ねていくのだ。友達の留守中、友達の家に泊めてもらっているだけでも相当ずうずうしいが、その姉の嫁ぎ先まで訪問するなんて、いったい私はナニモノ?という疑問はもちろんあるのだが、ニシャーの新しい旦那さんが見てみたい。なんせ、再婚してからのニシャーの手紙ときたら、ヒンディー語のラブレターのお手本みたいなのだ。「…私は彼に会うために生まれてきたんだと思うの。ああ、愛しい私のナラヤーン(=ニシャーの旦那さんの名前)…」といった調子だ。

 ドゥルグからバルガルまでは、デラックスバスで6時間ほど。チャッティスガル州の州都、ライプルで1時間ほど休憩するので、7〜8時間でバルガルに着くらしい。このバスはそのままジャガンナート寺院で有名なプリーまで行く。最近運行が始まったらしいが、このバスがあれば、9年前も楽だっただろうに…と思わずにはいられない。バルガルにはブラトさんの5女、タッブーが同行してくれることになった。

 バルガルに着いたのは夜中の12時近くだったが、ニシャーの旦那さんナラヤーンは、バス停で待っていてくれた。この姉妹の夫、「ジジャジー」というのは、インドではとても頼りになある存在だ。妻の実家、特に妻の姉妹に対しては、100%誠心誠意、面倒をみてくれる。
 2年ぶりに会ったニシャーは、妊娠6か月なのでおなかは大きかったが、少しほっそりして、ますますきれいになっていた。
 ナラヤーンの家もマカーニー家と同じジョイント・ファミリー。ナラヤーンのお母さんと、兄弟4人がそれぞれの家族と住んでいる。夫婦ものにはベッドルームがあるが、客室がないらしく、玄関ホール兼リビングのような部屋の床に寝ろ、と言われた時は、少々驚いた。でも、家長のおばあちゃん(ナラヤーンのお母さん)や、ちょっと大きい子供達もそこで雑魚寝をしているので、そういうものなのだろう。ただ。蚊が多く、布団を被ったのに、一晩中悩まされた。

 ナラヤーンの家はバーザールで雑貨店をやっているが、ついひと月ほど前、ニューバーザールで、ギフトショップをオープンした。バルガルではまだ珍しいらしい。開店したばかりのギフトショップを弟に任せ、次の日ナラヤーン「ジジャジー」は、我々「妻の姉妹」を連れ出して接待してくれた。インド第2の規模のヒラクンド・ダムにも行った。

 初めて会う相手に興味津々なのは私ばかりではなく、ナラヤーンもナラヤーンの家の人も同じだ。
 おばあちゃん(ナラヤーンのお母さん)は、ニコニコとしていたが、昔風の厳格なタイプらしい。この家にはテーブルがなく、食事もクラシックに床の上で取る。私がおばちゃんとソファーに腰をおろして話をしていたら、床に座っていたニシャーが、目配せをする。どうやら、足を組んでいた私の行儀が悪かったらしい。その点、インド人のタッブーは見事で、おばあちゃんにも愛想よく話しかけるし、姉の嫁ぎ先でも、率先して食事の支度などを手伝っている。こういうことを自然にできるようにするのが、インド流のしつけなのだろう。

 ナラヤーンは、ホテルで食事をごちそうしてくれるときに、「とーこ姉さんは何にする?チキン?」と、わざわざ聞いてくる。
 マカーニー家やナラヤーンの家はグジャラーティーのバラモンで、厳格な菜食主義である。肉も魚も卵も絶対に食べない。私は「インドでは菜食だけど、日本では肉も魚も卵も食べる」と言ってあるが、ニシャーなどは「私、そういうのイヤだわ」とはっきり言うし、20年もつきあっている今も、会う度に毎回、誰かしらに「日本人は肉食なんでしょう?」と聞かれる。インドにも肉食の人はたくさんいるので、おおっぴらにそんなことは言わないが、彼らの頭の中には、「肉食イコール不浄」という図式があり、たぶん一生、その考えは変わらない。
 (で〜た〜な〜)と思いながらも、「私はローハナだからチキンは食べられないのよ」とかわす。ローハナというのはマカーニー家の所属するコミュニティー名で、もちろん菜食主義。マカーニー家の家族として扱え、という私のメッセージだ。

 ナラヤーンもナラヤーンの家の人もいい人だったが、蚊の猛攻撃でほとんど眠れなかったのと、マカーニー家にいるように気楽ではいられないので、くたびれてしまった。

ページTOPへ戻る

親戚訪問2 ヴィサカパトナム

 バルガルからまたドゥルグへ戻るつもりだったが、ニシャーとタッブーが許さない。
 「スシュミター(タッブーのすぐ上の姉で、ブラトさんの4女)から、とーこがバルガルに来たら、必ずスシュミターの家にもよこすように言われているの」

 スシュミターの家は、アーンドラ・プラデーシュ州のヴィサカパトナムである。ドゥルグを発つ前にもスシュミターからは何度も電話があったが、家長のブラトさんと相談して、今回は日程に余裕がないので、ヴィサカパトナムまで行くのはちょっと無理、ということで落ち着いていた。

 「行かなきゃダメよ。スシュミターは、2年前、とーこに会うだけのために、12時間もかけてドゥルグに来て、しかも実家に1泊もできなかったのよ。今度はとーこが行く番よ」
 「1泊だけでもしてあげて。本当に会うのを楽しみにしているの」
 「そうよ、エローラに行くのを止めればいいじゃない」

 と、ニシャーとタッブーは私の都合などおかまいなしだ。

 「私だってスシュミターには会いたいけど…。電車の予約取れるかな?」
 「ナラヤーンに頼んであるわ。ヴィサカパトナムからドゥルグに帰る電車の予約は、スシュミターの旦那さんに取ってもらうように言ってあるから」

  …ヲイヲイ、私に聞く前から、もう決まっているんじゃない(^_^;)。というわけで、バルガルからドゥルグに帰らず、また州をまたいで、アーンドラ・プラデーシュ州のヴィサカパトナムに行くことになった。

 もともと行く予定がなかったので、余分な着替えもないし、夜行電車に乗るための支度もしていない。エアコンなしの2等寝台車に乗ったが、夜はけっこう冷えて、布団やショールの持ち合わせがない私は、夜行電車で風邪を引いてしまった。エアコンなしの2等3台寝台車に乗るのは久しぶりだったので、すっかり忘れていたが、物売りだけじゃなく物乞いが来るんだった!ヤレヤレ…これから先は覚悟しておかなくては…。


 突然のことだったが、ヴィサカパトナムに行ってよかった。
  バルガルで会えなかったニシャーの娘、ギーターにもヴィサカパトナムで会えた。ギーターは入試前の集中ゼミのために、たまたま1か月間ヴィサカパトナムに滞在中だった。インドの教育熱はすさましい。

 ヴィサカパトナムは、日本語のガイドブックにはほとんんど載っていないが、インド国内では、有名な観光地である。穏やかなビーチがあるのがインド人に人気がある理由のひとつだろう。
 スシュミターの旦那さんのカロールは、半日休暇をとって、ビーチの他に仏教僧院の遺跡、巨大なシヴァ神像がある公園、有名な寺院をいくつかなど、いろいろ連れて行ってくれた。カロールは多忙なコンピュータ・エンジニアなのに、スシュミターの家族が来るたびに、こうして接待してくれているらしい。インド人のジジャジー(姉妹の夫)は、ほんとうに大変だ。今回は特に「日本から客が来た」と、会社にかけあって、もう1日休暇を取って、ヴィサカパトナム郊外にある、「ボーッラー洞窟」にも連れて行ってくれた。インドには石窟がたくさんあるが、人の手が加えられていない自然の石窟としては、ボーッラーは最大級だと思う。内部には巨大な鍾乳洞もあり、複雑な形をしているが、天井はかなり高い。

ビーチ 仏教僧院跡トトラコンダ ボーッラー洞窟

 ヴィサカパトナムはきれいに整備されていて清潔な感じの都市だ。スシュミターのアパートも、3LDKと広く気持ちがいい。たいていのインドの家は、強い日光を避けるために室内を暗くしているが、スシュミターの家は窓も大きく、明るかった。カロールがコンピュータ・エンジニアなので、家にもパソコンが2台あるし、お舅さんやお姑さんといった、気疲れする相手もいなかったので、久しぶりにリラックスした。西瓜を売っているのをめざとく見つけ、買ってもらう。2個(笑)。

ページTOPへ戻る

スケジュール見直し


 ドゥルグへ帰る電車は隔日運行だったので、結局ヴィサカパトナムに2泊した。スシュミター達は翌週バンガロールへ転勤になるので忙しいのに、すっかりお世話になってしまった。ドゥルグに着くと、タッブーの妹、ジュヒーが涙目で「1日で帰るって言ってたのに〜」と抱きつく。ヴィサカパトナムで予定外の2泊をしたので、この後のスケジュールも見直さなくてはいけない。ドゥルグでさっそく、電車の予約を相談する。マカーニー家の別宅、ダリー・ラージャラーにも行きたい。ダリー・ラージャラーは、ドゥルグから100km近く離れているので、1泊は必要だろう。

 インドで旅行するには、電車の予約はしておいた方がいい。インドの人口は日本の約10倍。毎日運行している電車ばかりではなく、週2本、3本、時には週に1本しかない場合もある。国土も広いので、10時以上の移動が普通で、そうなると寝台車が必要になる。アーメーダバードからドゥルグまで乗ってきた電車はコルカーターのハウラー駅行きで、同じ車両のほとんどは、終点まで車内で2泊する予定だった。しかもどうやらインド人は旅行好き。親戚の結婚式や行事、里帰り、なんだかんだとしょっちゅう移動している。

 ドゥルグ→プネー→アウランガーバード→ムンバイと、3回分の電車の予約を一挙に取ることにする。観光地の鉄道駅では、外国人用の窓口があって多少優遇されるが、ドゥルグではそれは期待できそうもないので、鉄道駅ではなく、旅行会社に申し込む。アーメーダバードからドゥルグに来るときAC寝台車に乗ったが、あまりにも寒かったので、エアコンなしの2等3台寝台を希望。金額はAC車のおよそ半額だ。希望の電車が取れなかった場合の第2希望も伝えておくが、取れるか取れないかは、2〜3日しないとわからないという。
 電車の予約が取れるかどうか待っている間に、マカーニー家のもう1軒の家があるダリー・ラージャラーに行きたいが、ブラトさんに「うーん、でもまだ寺には行けないからなぁ」と言われ、ぎょっとしてしまった。

 ラリー・ラージャラーには、亡くなったおじいちゃんが中心となって建てた、ジャラーラーム寺院がある。現在の筆頭檀家(?)は、おじいちゃんの長男ブラトさんだ。当然、ダリー・ラージャラーに行くからには、その寺参りもセットだ。で、なぜ「寺に行けない」かというと、私が生理中だったから。

 厳格なヒンドゥーの家庭では、生理中の女性は不浄とみなされ、シャワーを浴びるまで、他の誰かに触れてはならないし、台所にも入れない。寺にはもちろん行けない。最初の数日はベッドにも寝てはいけない…と、前に聞いていたので、当然私もマカーニー家に申告する必要がある。それでタッブーにそっと言っておいたのだが、男性のブラトさんにまで知られているのはまいった。でも、まぁ、娘が6人もいて、その他にも大勢の姪や義妹と暮らしているんだから、当然なのかも。

 しかたないので、その日はダリー・ラージャラー行きは止めて、みんなで映画を見に行くことにした。みんなといっても、家を空けるわけにはいかないので、出かけたのは15人「だけ」。若者はバイクに2人乗りしたりして行ったが、残りは全員1台のスズキマルチに乗った。行きが10人、帰りが11人である。日本では通常せいぜい4人までしか乗れない大きさの車だ。しかもそのうちのひとりは、体重90kg弱のおばさん。この車の乗り方がインドのスタンダードなら、路線バスや通勤電車の混み方も納得できる。

ページTOPへ戻る

別宅 ダリー・ラージャラー


 翌日はようやくダリー・ラージャラーに。出かけ間際にスーツケースの鍵が壊れていて開かないことがわかり、鍵屋に持っていったりと、すったもんだしていたが、なんとか直った。ダリー行きが遅れたせいで、日帰りもいたしかたない…と思っていたが、プネー行きの予約がとれず、結局ダリー・ラージャラーにも1泊することになった。

ダリー・ラージャラーのジャラーラーム寺院
寺ウシ。週に2回、寺で貧しい人たちに提供する食事用のミルクを搾るために飼って.いる。

 ダリー・ラージャラーは、ドゥルグより田舎で、住んでいる家族も少ない。お互いに行ったり来たりしてはいるが、普段は大家長のおばあちゃんがいないので、なんとなく空気もドゥルグより緩い。普段は長男のブラトさん夫婦もこちらに住んでいる。他に、5男と6男の家族。5男のジャヤデーヴさんは、手先が細かい芸術家で、ジャラーラーム寺院のミニチュアや、ブランコに乗ったクリシュナ像とか作ったり、ジャラーラームの一生を絵に書いたりしている。6男のナゲンドラは、友人7人と慈善活動のグループを作り、無料の学校や診療所を運営している。最近診療所の他に、レントゲンを撮ったり、血液検査ができる施設も開設した。 

レントゲン撮影や血液検査ができる施設。
写真撮影用に、仕事をしているふりをしてくれたが(笑)、本当はちゃんとした医者や技師が勤務している。     

  ここでもやっぱり楽しいのは、台所でもおしゃべり。アーシャーさんは癌の手術の後、思うように身体が動かないので、ダリー・ラージャラーの主婦は、5男と6男の奥さん、ディーヴィカーとレーヌーのふたりだけ。ドゥルグより少ないとはいえ、15人くらいは住んでいるので、食事の支度だけでも大変だ。それでも2年ぶりに会った私をなにかとかまってくれる。2人とも私と同世代なので、気安く話せる。

 「もー忙しくって。クリームや美容液も高いから、自分でヨーグルトを顔に塗ってパックしたり、マッサージしたりしているのよ」
 「毎日忙しく家事をやっている間に、学校で習ったことなんか、みんな忘れちゃったわ」
 なんていう、たわいもない話が嬉しい。

 それにしても、インドの人は驚くほど日本のことを知らない。日本といえば、ナショナル、パナソニック、ソニー、東芝、スズキマルティ(マルチ)、ヤマハ…と、電器や自動車のブランドばかりで、日本人がどんな生活をしているとか、どんな服を着ているとか、全く知らないのだ。日本ではインドのことを紹介するテレビ番組もたくさんあるし、インド映画の愛好者も多い。インドレストランもそこら中にあって、カレーだけでなく、ナンやタンドリーチキンも知られている。
 「日本ではチャパティーも食べないし、水牛もいないから、ミルクは牛乳だけ」というと、たいていのインド人はとても驚く。
 
 インドのテレビ番組では、日本はめったに出てこない。15年ほど前には、『おしん』を放送していたので、見た人も多いようだが、エレクトロニクスの国、日本とあまりにもイメージかかけ離れていたせいか、どこか他の国だと思っている人も多い。
 公共の図書館も少なく、本で日本を調べるということも難しいようだ。20年前に最初にインドを旅行してから、いろいろなインド本を読んで、少しずつ情報を集めてきた私は、完全な片思いであると知ってショックを受けた。私という日本人を通して、少しは日本にも関心を持ってくれているかと思っていたのに。

 「じゃあ、日本で有名な食べ物は何?」
 と、ヒンディー語ではなく、アメリカ風の発音の英語で聞く中学生の子に、何となくカチンとくる。
 「そうね…サシミかな」
 と、いつもは菜食主義のマカーニー家では口にしないことを言ってしまう。刺身を『生魚』と訳したので、質問した子の顔色が変わる。
 
 「とーこ姉さんも食べるの?」
 「日本では食べるわよ。私たちのカルチャーだし、お祝いの食事には出てくるもの」
 「とーこ姉さんは、どういうカーストの人なの?!」

 文字通り私の側から飛び退く子に、少し年上の子が無表情で教える。
 「日本にはカーストはないのよ」

 この抑制された反応が修練の差であろうか。インドでは、相手のコミュニティーの習慣について、少なくとも本人の目の前ではとやかく言わない、というのが不文律だ。

 日本についてだけでなく、インドについても、インド人が知らないことはたくさんある。ジャガンナート寺院はヒンドゥー教徒以外は参拝できないというのと、マハートマ・ガーンディーが英国留学中に肉を食べてみた、というのを言うと、たいていのインド人は強く否定する。肉食をしてみたというのは、ガーンディーの自伝に書いてあるのだが、インドで発行されている本には書いていないのでは?と疑ってしまうくらい、みんな知らない。こまっしゃくれた中学生に、ガーンディーのその話をしてみようかと思うがやめておく。ガーンディーはマカーニー家と同じグジャラーティーで国父だ。きっといやな顔をするに違いない。

 好きな野菜を英語で書けと言われ、『茄子』のつもりで『egg plant』と書いたら、6男の嫁、レーヌーに、
 「とーこ、エッグ(卵)は食べちゃダメよ」と何度も言われた。
 「エッグじゃなくて、エッグプラント、バイガン(=茄子)だよ」と説明したが、
 「でも日本ではエッグ食べるんでしょ。だめよ。病気になるから」と、とりあわない。ちょうどトリインフルエンザが流行っていたせいもあるが、やはり肉食に対する嫌悪感は相当なものだ。

ページTOPへ戻る

ヤング・ジェネレーション


 早いものでマカーニー家を去る日がやってきた。一緒にヴィサカパトナムに行ったタッブーが、私の西瓜好きを教えたのか、前の日のデザートは西瓜で、勧められるままにバクバク食べてしまった。10日間なんてあっという間。ところがスシールが深刻な顔で言う。

 「とーこ姉さん、チケット取れなかったんだ」
 「またまた…。きのう取れたって言ってたじゃない」
 「キャンセルしちゃった。ほら…」
 と、スシールの差し出す乗車券にはCancelledのスタンプが押してある。
 「え〜!?」
 「だから、今日もここに泊まるしかないね」

 あわててよく見ると、日付が今日じゃない。本当はきのう出発する予定で、プネー以降の電車もそれに合わせて予約していたのだが、きのうの予約が取れなかったので、全て予約を取り直したのだ。

 「もう、おどかして!ベーラン(チャパティーを伸ばす麺棒)でぶつわよ!」
 と、笑いながらスシールの耳を引っぱる。

 スシールは家長ブラトさんの唯一の息子で、次期家長候補だ。彼の世代の従兄弟達は、家業の車のパーツ屋と継ぐ気はなく、それぞれコンピュータ・エンジニアになったり、コンピュータ関係の学校に行っているが、スシールは跡継ぎとして働き始めた。

 「ごめんごめん。プネーでもムンバイでも、みんなプラットホームに迎えにくるように連絡してあるからね。じゃ、とーこ姉さんが乗る電車の車両、シートナンバー、到着駅と到着ホームを言ってみて。プネーとムンバイの連絡先は?番号はちゃんと合っているね?」

 おお、なんという念の入れ方!こんなしっかりものの弟がいたら、どんなに便利で心強いだろう。駅までスシールと、お嫁さんのジャルバーラーが見送ってくれた。
 ジャルバーラーは1年ちょっと前にグジャラート州のアーナンドから嫁いできた。ジャルバーラーの家はジョイント・ファミリーではなく、日本のような核家族だ。アーナンドではグジャラーティー語が公用語なので、ヒンディーが苦手。マカーニー家ではグジャラーティーで通用するが、ドゥルグのあたりでは、ヒンディー語とチャッティースガリー語という土地のことばが使われているので、しょっちゅう家族に「ヒンディー語で話すように」と言われていた。マカーニー家の人たちが言うには、「ジャルバラーはとーこよりヒンディー語を話さない」のだそうだ。

 でも私にとっては、『本場のグジャラーティー語が習える』格好の先生だったので、ジャルバラーにくっついて、グジャラーティー文字の綴り方や挨拶などを教えてもらっていた。ジャルバラーは料理もうまいので、台所でもなんだかんだと教えてもらった。
 核家族育ちのせいもあって、ジョイント・ファミリーの中でも、ちょっと浮いた存在だったジャルバラーは、
 「とーこ姉さん、好きよ!」としょっちゅう抱きついてきた。

 「I love you は日本語でどういうの?」と聞かれ、
 「女同士ならスキだけど、異性に言うならアイシテイマスかな」
 と、何度も教えたのに、最後まで「アイスクリーム」と言っていた(^^;)。

 プネー行きの電車は、間際に、予定していたプラットホームではなく、別のホームから出発されることになった。スシールは、私の重いスーツケースを細い身体で引きずって、あわてて階段を上り下りしてくれる。

 「とーこ姉さん、これがインドなの。こんなことがしょっちゅうあるから、駅の放送に気をつけてね」
 とジャルバーラーは言うが、今の放送はヒンディー語だけだったなぁ。聞き取れるだろうか。

ページTOPへ戻る

親戚訪問3 プネー


 ドゥルグで作ってもらったお弁当を食べつつ、20時間電車に乗って、プネーに到着。駅には、日本出発前にいろいろ旅行のスケジュールについて相談にのってもらったゴーヴィンドと、妹のカージョルが迎えに来ていてくれた。アルジュン叔父さんの子供達だ。

 アルジュン叔父さんは、私がヴィサカパトナムからドゥルグに帰ってきた頃、ナーシクから戻っていた。いつもはアルジュン叔父さんが私のお世話係なのだが、今回はあまりゆっくり話をする時間もなくて寂しかった。ドゥルグを発つ前日、「とーこ、パーン食べに行こう」と、2年前のように誘われ、ふたりだけで出かけて、ようやく話ができた。パーン屋は閉まっていたが、2人で夜道を散歩して、『トップ・シークレット』を打ち明けられて、『秘密の約束』をした。
 
 アルジュン叔父さんの長男のゴーヴィンドは、ずいぶん前からプネーに住んでいる。今は卒業して、エンジニアとして働いている。長女のカージョルも2−3年前からプネーの大学院に在籍中。次男のスジャーンも去年からプネーの大学へ進学、と、子供が3人ともプネーがいるうえに、去年ゴーヴィンドが病気になったので、奥さんのナグマー叔母さんも、子供の面倒を見るためにプネーに住むことになってしまった。

 「家族がみんなプネーに行ってしまって寂しいよ〜」とメールを送ってきたアルジュン叔父さんだが、2〜3か月に一度、プネーに行って家族と会っているらしい。先日もナグマー叔母さんとカージョルを連れて、ナーシクへ旅行に行ってきたばかりだ。

 プネーには、1泊もしない予定だった。半日みんなと過ごして、その日の夜行バスでアウランガーバードに行く、と言うとナグマー叔母さんが怒り出した。

 「ダメよ。1週間はいなさい」
 「1週間いたら、日本に帰る飛行機が出ちゃうよ」
 「じゃ、アウランガーバードに行くのを止めなさい。エローラやアジャンタの石の洞穴を見たってしょうがないわ。それより、シルディーとかナーシクとかに行った方がいいわよ」

 エローラもアジャンタ世界遺産なのに、どうもマカーニー家には人気がない。インドの観光地なら、ビーチや有名なお寺の方がお好みらしい。シルディーというのは、日本でも有名なサッティヤ・サイババの前世、シルディー・サイババ(インドでサイババといえば、いまだにこちらの方が有名)の生まれた場所。ナーシクは、ヒンドゥーの重要な聖地で、アラハバード、ウジャイン、ハリドワールとともに、12年に1回、クンブメーラという大祭が行われる(大祭は3年に1回、4カ所で順繰りに行われるので、ナーシクでするのは12年に1度)。

 さんざん引き止められて、アウランガーバード行きを1日伸ばし、1泊させてもらうことにする。引き止めてはくれるが、みんな仕事があったり、学校があったりで、忙しい。プネーはイスラムのムガル帝国に最後まで抵抗したヒンドゥー勢力、マラータの都で、かなり広くて見所もたくさんあるが、観光はほとんどしなかった。

 1日目はバスの予約と、ゴーヴィンドの会社で日本語の翻訳をしている人に会い、プネー大学を見て終わり。夜中に急に寺参りをすることになり、プネーからバスで1時間も離れた寺まで行って、帰ってきたら夜の11時。2日目は、半日ナグマ叔母さんとおしゃべりをして、カージョルに映画に連れて行ってもらった。女優のジャヤー・バッチャンが、夫で有名な俳優であるアミターブ・バッチャンの病気回復祈願のために、多額の寄付をしたガネーシャ寺院と、個人収集家のラーシャー・ケルカル博物館を見学。最近のインドは、外国人観光客の入場料を高額に設定しているので、博物館の入場料金も、Rs150と、インド人の10倍だか15倍。カージョルは私に払わせないので、他の観光地を回るのは止めた。
 

プネー大学。40以上も学部(カレッジ)がある
日本からの留学生も多いらしい


 ナグマー叔母さんは2年前に比べ、15kgも体重を減らしていた。伝統的なグジャラート料理は菜食で、肉や魚を食べないかわりに、油をかなり大量に摂るが、ナグマ叔母さんは、「油の摂りすぎは健康によくない」と、油をたくさん使うグジャラートの代表的なパン、テプラもほとんど作らない。油っ気のない「緑豆もやし」を積極的に食べるようにして、朝夕2回のヨガもしている。サリーの着方もグジャラート式ではなかったので、尋ねると、
 「グジャラート風の着付け方だと、太って見えるからやめた」だって!
 
 2年前は、太っていたせいか膝に痛みがあり、歩くときも大儀そうだったが、今ではかなり早足で、「とーこ、私の歩くスピードについてこられる?」なんて聞くくらいだ。実家がマハーラシュートラ州のナグプルだったナグマ叔母さんは、マラーティー語も堪能で、マラーティー語が公用語のプネーでは、家族のために大活躍しているようだった。

 プネーのバーザールで西瓜を見かけたので、ここでも買ってもらう。

ページTOPへ戻る

エローラ、アジャンター


 プネーから深夜バスに乗り、エローラ、アジャンター観光の拠点、アウランガーバードに到着。アウランガーバードのホテルを予約していないと言うと、
 「なんですって!?よくないよ〜そういうのは。よがジジャジー(=私の夫)に言いつけるわよ〜」
 と、カージョルに怒られたが、彼女の言うとおり、ホテルにチェックインするまでには、多少面倒があった。とにかく泊まる場所が決まったので、さっそくアジャンター観光に参加することにする。アウランガーバードに着いたのが朝5時で、アジャンター行きの観光バスに乗ったのが8時半。観光客に戻ると、持ち前の貧乏性で、精力的な活動になる。

   観光バスツアーは、私を入れた外国人3人の他はインド人。ガイドはヒンディーと英語で解説をしてくれるが、参加者の中にベンガル人のグループがあり、ヒンディーができる人が、ガイドの解説をいちいちベンガル語に訳している。アジャンターあたりは3月ともなるとかなり暑いが、この日は、何度か断続的にスコールのような激しい雨が降った。

 アジャンターは、岩山に掘られた仏教石窟。紀元前1世紀頃の初期仏教と紀元5世紀頃の大乗仏教の28の石窟群である。インドに石窟は多いが、アジャンターは、特にその美しい壁画で有名だ。第1窟の、菩薩像は法隆寺の金堂壁画の元になった絵ではないかと言われている。第16窟、第17窟の美しい絵も有名だが、(石が硬かったのか)途中で工事を止めてしまった、第24窟も興味深い。アジャンターは、アウランガーバードから、片道3時間もかかるので、バスツアーだとゆっくり見られないのが残念だ。女1人の旅行でなく、夫ともう一度来る機会があれば、タクシーをチャーターして、日本語ガイドで解説を聞いてみたい。

アジャンター石窟群

 翌日は、アウランガーバード市内・郊外とエローラのツアー。この日は外国人2人以外は全てインド人だったが、「英語とヒンディー語のどちらの解説がいいですか?」とガイドに聞かれ、絶対多数で英語になった。きのうのアジャンター・ツアーで一緒だったベンガル人のグループや、南インドの人もいるので、ヒンディー語より英語の方がわかる人の方が多かったのだ。

  アウランガーバードの市内・郊外観光は、岩山に作られた山城「ダウラーバード」、ムガル帝国アウラングゼーブ帝の墓、タージマハルを模倣して作った、アウラングゼーブ帝の妻の墓、「ビービー・カ・マクバラー」、地下水路で水車を動かしている「パンチャッキー」、古い由緒あるガネーシャ寺院など。ダウラーバードは、自然の岩山を利用して作った戦闘のための実用的な城で、日本の城のようにお堀があった。

ダウラーバード

 そしてエローラ!
 ここはずーっと前から見たいと思っていたが、期待を裏切らなかった。前日、アジャンターを見て、興奮していたが、エローラもすごい。

 エローラもアジャンターと同じ石窟なのだが、こちらは仏教だけでなく、ヒンドゥー教とジャイナ教の僧窟もある。34窟まであり、それぞれがそれぞれの宗教の特色を出した彫刻でおもしろいのだが、やはり一番は、第16窟のカイラーサナータ寺院だ。

 普通の石窟は、岩山を横に掘り進め、人の入る空間(といっても巨大)を作っていくが、カイラーサナータ寺院は、岩山のてっぺんから掘り出して作られた。本殿だけでなく、前殿、寺院、門、堂、像などがある。奥行き81m、幅47m、高さ33mにわたって、岩山を切り開いている。これらはすべて、もとは1つの岩の固まりだったので、床も柱もつなぎ目がない。建造物ではないので、構想上は柱など必要ないのだが、デザインとして地上に建てた寺と同じように作られている。どうしてこんなものを作ろうと思ったのか。宗教心なくしては、こんな大変なことはできっこない。

 アーメーダバードで、キャリコ博物館と階段井戸に感動し、「インドに行くなら、まずこのふたつ」と、鼻息を荒くしていたが、アジャンタとエローラもぜったい見るべきだ。

ジャイナ教の石窟は彫刻が繊細

カイラーサナータ寺院

 

 それにしても、入場料が高いのにはまいる。数年前から、インドでは、観光地の入場料がダブル・スタンダードになっている。インド人が5ルピーくらいで入れるところを、外国人は200〜300ルピー(500〜900円くらい)払わなくてはならない。タージマハールなどは、一時外国人の入場料は800ルピー(2,200円程度)も取っていたそうだ。日本の展覧会の料金に比べたら、高すぎるとはいえないが、ツアーで行く場合、いくつもの観光地を回るので、けっこうな金額になってしまう。「ミニ・タージマハル」と呼ばれる「ビービー・カ・マクバラー」を、200ルピーも払ってまで、見たくない観光客も多いだろう。


『アウランガーバードの思い出』

○ガイドブックの地図
 ここでも「地球の歩き方」の地図が間違っていた。マハーラシュトラ州観光局でもアウランガーバードの詳細な地図は置いていないし、ホテルの住所も「near〜」「opp〜」というようなものばかりなので、地図がないと不便。町もけっこう広いので、数泊する人は地図を入手すべし。

○インターネット・カフェ「sky iway」
 インド国内大手のブロードバンド・インターネット・カフェらしい。ドクター・ラジェンドラ・プラサード・ロードの角にある支店は、日本語フォントの入っているPCが4台あり、スタッフの1人は日本語がわかる人だったので(話しているのを聞いたことはないが)、日本人が集まっていた。私がインドで使ったネットカフェの中では、最も快適だった。

ページTOPへ戻る

親戚訪問4 ムンバイ1


 いよいよ旅の最終目的地ムンバイへ。駅には、亡くなったおじいちゃんの唯一の娘、ウマーさんのご主人、ラームダースさんが迎えに来てくれることになっている。チケットを再確認すると、ムンバイのダーダル駅到着は、早朝5時だ。あわてて電車の中からウマーさんに電話する。

 「スシールには、もう1本あとの電車を取るように頼んでおいたんだけど、予約がとれなかったらしくて、到着が朝の5時なんです。いくらなんでも早すぎるから、駅には来ないで。リタイヤリングルーム(駅の宿泊施設)か待合室で、朝まで待って、それから電話するから」
 「何言ってんの。大丈夫よ」

 大丈夫とウマーさんは言うが、朝5時に迎えにくるためには、家を何時に出なくちゃいけないんだろう。

 ダーダル駅に着くのは朝5時だが、その前の駅で降りる人もいるので、4時ころには起きてしまう。24時間運行するインドの鉄道は、夜中を移動時間に使えるので便利だが、あまり朝早く着くのも考えものだ。

 ところがダーダル駅に着くとラームダースさんの姿が見えない。しばらくプラットホームで待っていたが、客引きのリキシャーワーラーが寄ってきてうるさい。(明るくなってから電話しよ…)と、待合室に行って座っていると、20分くらいしてから、血相変えたラーム・ダースさんが来た。

 「ラームダースさん、お久しぶりです。9年ぶりですね〜」
 とお気楽に言うが、ラーム・ダースさんは無言で私の重い荷物を持ってくれるだけだ。…あ、もしかして待合室に行っちゃったので怒っている?

 「あのー、ホームでお待ちしていたんですが、リキシャーワーラーが集まってきちゃったので…。本当にこんなに朝早くから迎えに来ていただいてすみません…」
 「…電車が時間より早く着いたんだ…。私は時間通りに着いたのに、もう電車が行ってしまったあとで…。…リタイアリング・ルームとかあちこち見てまわって…」
 「す、すみません。そ、そうですよね。ときどき時間より電車が速く着いちゃうことがあってびっくりするんです。遅れるより困りますよね」

 マカーニー家の筆頭ジジャジー(姉妹の夫、婿)ラームダースさんにとっては、『到着が遅れてゲストが消えた』ということは、悪夢のような出来事だったに違いない。私は自分の軽率な行動にしょげてしまった。

 ラームダースさんとウマーさんのマンションは、ムンバイ郊外のクールラ地区にある。ここは国際空港、国内空港に近いので、マカーニー家の人たちが海外へ行く時の拠点になっている。自分の家でも長男だし、マカーニ家の唯一の娘の婿なのでで、家族行事でも忙しいラームダースさんだが、こうして親戚が訪ねてくることもしょっちゅうなので、大変だ。
 「私は普段、定期的には休みは取らないんだ」と言っていたが、衣料店のオーナーでありながら、親戚つき合いなどで店を留守にすることも多いので、その埋め合わせに休めないのかも。

 ラームダースさんとウマーさんに会うのはラーダーちゃんの結婚式以来だ。あのとき、(不本意ながら)子宝祈願をしにみんなでカンケルに行ったが、ウマーさん夫妻には数年後、めでたく待望の男の子が誕生した。そのアビシェークもまもなく7歳だという。

 ラームダースさんもウマーさんも、一般のインド人に比べると穏やかで静かな人たちだ。特にウマーさんは、インド人女性としては、珍しいくらい口数も少なく素っ気なく見えるが、微笑むと花が開いたような、すてきな笑顔になる。そういえば、ドゥルグのおばあちゃんもあまり余計なおしゃべりはしないタイプだなぁ。

 寝不足なのでひと眠りしてから、町に連れて行ってもらう。インド人が動き出すのはだいたい午後3〜4時過ぎ。ムンバイは20年ぶりだ。細密画のコレクションが充実している、プリンス・オブ・ウェールズ博物館にもう1度行きたかった。

 「プリンス・オブ・ウェールズ博物館?いいわよ。私もまだ行ったことないし。行きましょう。でも、その前にプラネタリウムね。アビシェークの学校の今週のテーマなの」
 プラネタリウムを見ていたら、夕方の5時半を回ってしまった。

 「プリンス・オブ・ウェールズ博物館は、6時に閉館するので、もうこれから行かなくてもいいです」
 「…明日は必ず行こう!」
 「明日は休館日のようです…」
 「……私が博物館に電話してかけあってみるよ」

 と、ラームダースさんは言ってくれたが、この時点で観光意欲はすっかりなくなっていた。

 ウマーさんの家からムンバイの中心地まで1時間もかからないが、混雑がひどいので行くのは大変だ。郊外電車に乗るにも自動販売機がないので、長蛇の列。ラームダースさんは、店の若い者に先に並ばせておいて、チケットを買っていた。そのあとタクシーやバスで移動したが、移動するたびにすごい混雑。日本の通勤電車よりひどい。いつもはもの静なウマーさんも、このときばかりは、すごい勢いでバスに飛び乗っていた。20年前もムンバイは大都会で人も多かったが、これほどではなかった。また明日観光のために、わざわざこんな混雑している場所に来る気にはなれない。だいたいウマーさんの家に泊めてもらっている以上、1人で外に出してもらえないだろう。

 博物館が閉まってしまったので、マハーラクシュミー寺院を参拝。海の近くの古そうなお寺で、参拝客の熱気がすごかった。その後、インド門を見て、マリーンドライブを走り、ビーチに行った。博物館に行けなかった私のために、精一杯の観光コースを楽しませてくれようとする。ビーチもまるでお祭りのような人出。インド人はどうしてこんなにビーチが好きなんだろう。

ページTOPへ戻る
親戚訪問4 ムンバイ2


 ウマーさん達の家には、ラームダースさんのお母さん、つまりウマーさんにとってはお姑さんが同居している。このおばあちゃんは、ニシャーのお姑さんのように厳格、というのではないが、やはり古典的なグジャラーティーだ。油をいっぱい使った料理が好きで、チャパティーもギーをたっぷり塗るので、ギラギラと光っている。ダイエットと健康に気を遣っているプネーのナグマー叔母さんが見たら、顔をしかめるだろう。私にとっても、この伝統的なグジャラーティー料理は重い。量は少しでも、油がたくさん使ってあるので、すぐおなかにもたれてしまい、食欲がない。

 「また、それっぽっちしか食べないの?何か食べたいものはない?」
 「西瓜…」
 「西瓜はちゃんと買ってあるわよ」

 あちこちで西瓜ばかりバクバク食べるので、「とーこが行ったら西瓜を食べさせるように」という連絡が来ているようだ。すごいぞ、スイカ・ネットワーク!

 大都会ムンバイの混雑ぶりに辟易した私は、「きょうは家でご飯の作り方を習いたい」と言って、ウマーさんから、ヨーグルトやギー(牛乳から作る精製油)の作り方を習ったりした。インドのミルクは牛乳より濃い水牛の方が一般的だが、「子供は頭がよくなるように牛乳の方がいい」とかいう理由で、わざわざアビシェークのためだけに牛乳からもギーを作る。

 1日中家でのんびり…と思っていたが、この日は、アビシェークの学校で、週に1度の父兄セミナーの日だった。
 「とーこも来る?」と、ウマーさんに言われ、のこのこついていく。私の観光のために、わざわざ遠回りして、ラーマ・クリシュナ寺院に寄る。ムンバイでもしょっちゅう寺参りをしていた。

 アビシェークの学校はユニークだ。彼はまだ6歳だが、3〜4歳の頃からもうこの学校に通っている。もう少し大きい子もいるので、幼稚園というわけでもなさそうだ。基本的に授業は英語で、9年前はほとんど英語を話さなかったウマーさんも、今はかなり話すようになっている。英語だけでなく、ヒッポ・ファミリークラブのように、多言語教育をしているらしく、アビシェークが練習したひらがなのカキカタを見せてもらった。毎週テーマを決めて、学習、考察、実地見学、話し合いなどをしているらしい。学校の庭には、以前やったテーマ、『田舎の生活』のために作った、かやぶきの小屋と井戸の模型があった。

使われることばは英語だが、教育はヒンドゥー倫理に基づいて行われる。父母セミナーも、「オーム」と、聖音の唱和の後、ヒンドゥーの賛美歌を生徒と父兄が一緒になって歌い、瞑想をした後に始まった。

 この日のテーマは「結婚」。100人ほど集まった父兄が、5〜6人のグループに別れ、配偶者に対する不満を告白し合う。その後、それについて発表したい人が、全員の前で言う。日本で同じことをしようとしても、意見なんかまず出てこないと思うが、次々に発表する人が出た。中には夫婦でセミナーに参加していて、奥さんが旦那さんに対する不満を言うと、その意見に旦那さんが反駁したり、謝罪したり…というケースもいくつもあった。妻側の不満は、「仕事をさせてくれない」「お姑さんとけんかしたとき、私の味方をしてくれない」「話しかけても返事が生返事」。夫は、「姑とうまくやってくれない」「アルコールや煙草を禁止する」「肉や魚を食べさせてくれない」「化粧や着替えに時間がかかりすぎ」などといった、たわいもない話だった。

 結論を出すわけではないが、セミナーは「お互いによく話し合うこと」「いいことをイメージして、成功するまで繰り返し練習すること」「相手を理解しようと努める」「離婚した人の半分は再婚してもまた離婚するから、離婚は回避する」という方向に誘導しているように感じた。

 「あなたも旦那さんに対する不満を言いなさいよ」と、同じグループの人に言われたが、特に人前で言うような不満はない。

 「ご飯をうまく作らないと食べてくれないこと、くらいかな?でも最近は夫が太ってきた方が問題かしら」とにんまり。

 セミナーは6時から3時間も続いた。子供達は別室で、授業を受けているらしい。朝から夜の9時まで。まだ6歳だというのに、ハードだ。家に着くともう夜の10時過ぎ。私たちは学校のビュッフェで食事をしたが、ウマーさんはお姑さんのためにご飯を作らなくてはならない。コミュニティごとに食事の制限があるインドでは、店屋物などなさそうだし、スナックやお菓子を除いて、買い食いというのもできなさそうだ。

ページTOPへ戻る

インド疲れ


 あっという間に4週間が過ぎてしまった。今回訪問し、泊めてもらった家は6軒。亡きおじいちゃんの子孫で、インドに住んでいる人には全員会えたので大満足。行く先々で西瓜をごちそうになり、毎日昼寝をし、送り迎えつきという、お姫様旅行だった。我ながら、(まったく何様なんだか…)とあきれるが、マカーニー家にとっても、おもしろい存在だったと自負している。ゴシップめいた話や、うわさ話、家族間の愚痴、家族に言えない悩みなど、第三者の私には話しやすいらしい。

 インドはとても疲れるところだ。とにかく人が多いし、しょっちゅう話しかけてくるので、道を歩くだけでも疲れる。長距離電車に乗ったりすると、ずーっと話っぱなし。もっとも10数時間、ひと言も話さないで同じ車両に乗っているのは、それはそれで疲れそうだ。もちろん日本語が通じる相手ではないので、なんとか頭をひねって、英語やヒンディー語で会話をしなくてはならない(これが特に疲れる!)。最低限、自分の意志は伝えないと、とんでもない目にあう。

 コンビニも自動販売機もないので、飲料水は計画的に確保しておかなくてはならないし、食事の時間が日本よりそれぞれ2〜3時間遅いので、それを知らないと、空きっ腹をかかえて動くことになる。

 宅急便やコインロッカーもないので、基本的に荷物は自分で管理しなくてはならない。

 いろいろな宗教やコミュニティーがあり、タブーや決まり事もたくさんある。外国人だからといって、それを無視した行動は嫌われる。女性の場合は、特に、服装や、男性とのつき合い方には気を配るべきだろう。

 停電や乗り物の遅延は日常的。大都会でも夜はかなり暗い。

 ATMも普及してきたが、地方の銀行では、外貨を交換することも簡単ではない。

 …などなど。日本では使わない機能をインドでは使わないと旅行もできない。そういえば、日本では親戚にだってめったに会わない。親戚つき合いも日本では「使わないでさびついた機能」かも。一番使う機能は「忍耐力」かもしれない。

 インド人は、普段こういう機能を日常的に使って生活しているのだから、タフなはずである。インド人はビジネスの相手としては手強いだろうなぁ。日本に来る前に、11億の人口の中で毎日揉まれているんだもの。私ももう少したくましくならなきゃなぁ…なんて、思うだけで、また疲れてしまう、脆弱な日本人中年であった。

(終)
ページTOPへ戻る