インド旅行記

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マダムの天竺日記」
※文中の人名はすべて仮名です。  
プロローグ インド到着 ドゥルグ到着 修行の始まり
お祈りは続くいつまでも… スシュミター来る またまた寺まいり ニルマルとの再会
ダリーラージャラー ドゥルグ最後の夜 ナリヤール! ポリ・バッグ!
出国
プロローグ


 7年ぶりのインド行き計画はウガンダからの1通のメールで始まった。
  「11月28日にインドに行きます。2〜3か月実家にいるつもりなので、都合がついて、とーこも来られたら嬉しいんだけど」

 メールの送り主はウガンダ在住のインド人の友人、ラーダーちゃん。そもそも彼女と知り合ったのは、インド西部・グジャラート州のアーメーダバードという駅の待合室。私の最初のインド旅行中のことだった。ラーダーちゃんは、家族でアーメーダーバードの近くにある、有名な聖地、「アブー山」を観光して、家に帰る列車を待っているところだった。待合室で1人でぼーっとしている外国人の若い女性(当時24歳)を見て、ラーダーちゃんのおばあちゃんが心配して、英語のできるラーダーちゃん(当時14歳)に話をしてみるように言ってくれたらしい。

 私の最初のインド旅行は、「地球の歩き方」的貧乏旅行で、水のシャワーが出れば上等、くらいの安宿ばかりを泊まり歩き、適当な宿がなければ駅に泊まる、というものだったので、かなり消耗していたせいか、心細そうに見えたらしい。
 1観光客として、インドの物売りやドライバー、ホテルマンと熾烈な戦いをし続けていた私には、14歳の聡明そうなインドの少女は、とても新鮮で印象的だった。日本に帰って、10歳も年の離れたラーダーちゃんとの文通が始まった。その後インドに行く度に、ラーダーちゃんの実家に泊めてもらうようになり、彼女の家族マカーニー家とのおつきあいが始まった。その後、彼女の結婚式に招待され、夫ともども出席した。
 ラーダーちゃんは、4年ほど前から嫁ぎ先の家族と、東アフリカのウガンダに移住している。日本からウガンダは、たどり着くまでに丸2日。1週間の休みを取れたしても3日間しかいられない。もうすでに7年近くもラーダーちゃんと会っていないし、このチャンスを逃すと、今度いつまた会えるかわからない。どうしてもインドに行く! という強い欲求がむくむくと起きあがってきた。

 11月28日にウガンダから帰国して2〜3か月滞在するということは、来年の2月頃まではインドにいるということだ。ラーダーちゃんが落ち着いた12月〜1月頃に行くように休暇を取る根回しを始めよう…と考え、ラーダーちゃんの実家、マカーニー家には、「12月か1月に行くから泊めてね」という電話をした。
 ところが11月17日、ラーダーちゃんのお姉さん、ニシャーから1通の手紙が来た。

 「この前12月か1月に来ると言っていたけど、お願いだから12月2日までに来て。もしかするとその後は私実家にいないかもしれないの」

 なんてことなの! せっかくインドに行ってニシャーに会えないなんて! ニシャーはラーダーちゃんの3歳年上のお姉さんで、前回の訪問以来、文通を続けている。ラーダーちゃん以外では最も親しいインド人である。どうしてもニシャーには会いたい。その夜私はインド行きの計画を早めるための算段をあれこれ考え、ほとんど眠ることができなかった。

 1晩考えたあげく、1週間のドゥルグ滞在を含めた10日間の旅行計画を立てた。航空券の手配、ヴィザ取得、仕事の段取り…やることはたんまりあるが、出発までの勤務日数はたったの5日間だ。
 

成田発→デリー

デリー→ライプル→ドゥルグ→ライプル→デリー

デリー→成田



 1 デリー
 2 ライプル
 3 ドゥルグ
 
 
インド到着


 というわけで、11月27日、成田出発。17日にニシャーの手紙を受け取ってからわずか10日。やろうと思えばなんとかなるものである。「27日にインドに行くよ」とラーダーちゃん、マカーニー家に連絡を入れたところ、28日にインド帰国便を予約していたラーダーちゃんも、2日帰国を早めてくれた。出発を早めたせいなのか、ラーダーちゃんも帰国前にウガンダ〜タンザニア〜ケニアに行く必要があり、インドを前にウガンダに戻るのは前日の25日になったらしい。「悠久の国インド」とよく言うが、インド人、よく動くし、動くときには素早いのである。

 さて、インド行きの飛行機はエアー・インディア。前回のインド行きでは、飛行機の整備不備で出発が1日延びた。今回はギチギチのスケジュールなので、無事に予定通り飛んでくれてほっとした。チェックイン・カウンターで、ベジタリアンの食事をオーダーして確認しておいたにもかかわらず、「ベジはない」と言われる。さすがはエアー・インディア。でも「私は予約確認をした」と訴えて、なんとかベジにありつける。私のシートからは映画が見えないので、空席に移動させてもらいヒンディー映画を鑑賞。
 ところが席を移動しているうちに指輪を落としてしまったらしい。その指輪は7年前、ラーダーちゃんの叔父さんの1人にもらった大事な指輪。女性乗務員も床に這いつくばって老眼鏡を片手に探してくれたが見つからない。そのうち「私は英語でアナウンスするから、あなたは日本語で日本人の乗客に頼んでください」とマイクを差し出され、アナウンスをするはめに。その指輪はマカーニー家が信仰している『ジャラーラーム』という聖人を刻んである大切な物。見つからなかったらあきらめられる、というものではないのだ。アナウンスの甲斐あってジャラーラーム指輪は無事に私の指に戻った。今度は抜けないよう中指にはめる。デリーの空港に到着したときには、同乗の多数の日本人から「よかったですね、指輪見つかって」と声をかけられる。

  「エアーインディアのサービスはイマイチだと思っていましたけど、床に這いつくばって探しているスチュワーデスさんを見て、印象がよくなりましたよ」
 思わぬトラブルのおかげでエアー・インディアのPRに一役買うことができたようだ。

 今回の旅行のコンセプトは「マダム」。時間が限られているのでインド国内の移動は飛行機と車のみ。ラーダーちゃんの実家の家族は、インドのほぼ中央、チャッティスガル州のドゥルグと、そこから100キロメートルほど離れたダリー・ラジャラーにそれぞれ20人くらいずつ住んでいる。その2軒にそれぞれセイコーの掛け時計を買ったので、荷物もいつものバックパックではなくて、スーツケースである。スーツケースで飛行機移動ともなると、マダムになるしかないでしょう! マダムに相応しくオレンジ色のショルダーバッグを新調した。大好きなインド鉄道や、リキシャーに乗るチャンスは残念ながらなさそう。

 デリーと、ドゥルグの近くのライプル間の飛行機は週4便で、今日は便がないので、インターネットで予約しておいた空港近くのホテルに直行。デリーのインディラ・ガンディー国際空港にはホテルの出迎えが来ていた。この日は、12年に一回の、結婚する日としてはたいそうおめでたい日だったそうで、デリー市内だけでも7000組が結婚式を挙げたらしい。おかげで道路はいつにもまして混雑していた。
 このホテルは空港までの出迎えと朝食付きで50ドル。私が今までインドで泊まってきたホテルに比べると高いが、インターネットで予約できる空港近辺のホテル中では破格に安い。部屋はなかなか美しく、トイレも清潔だしバスタブやテッィシュペーパーもあって、シティホテルとビジネスホテルの中間といったところ。

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ドゥルグ到着


 デリーから国内線でライプル着。ライプルは、3年ほど前にマッディヤ・プラデーシュ州から分離したチャッティスガル州の州都。デリーやムンバイからドゥルグまで電車で行くと丸1日かかってしまうが、デリー=ライプル間は飛行機で飛べばわずか1時間半。国内線・インディアン・エアーラインの食事はエアー・インディアよりずっとおいしい。世界に名高いタージマハルホテルグループが食事を搬入しているらしい。私が食べたベジタリアンセットは、潰したジャガイモに味付けたものをパイ生地で巻いたもの、グリーンピースのコロッケ風のもの、ベジバーガー、インドチーズのタンドール焼き(特に美味!)、お菓子3種類と豪勢。ライプルから車で3時間も走ればドゥルグに着く。
 ライプルの空港にはラーダーちゃんの叔父さん、アルジュン・バーイー・ジーと、お姉さんのニシャーが迎えに来てくれていた。ニシャーは普段ダリー・ラジャラーに住んでいるのに、わざわざ迎えのために来てくれていたらしい。いつものとおりライプル市内在住の親戚の家、店などを歴訪。ニシャーが結婚後、手製のスナックを売っていた雑貨店にも立ち寄る。どこかに立ち寄る度に何かしら食べることになるので困ってしまう。「シンガラー」という黒い皮に包まれた野菜は、蓮のように水中にできるものらしいが、生で食べるとみずみずしい果物のようで、ゆでて加熱したものは、ゆでた栗やさつまいもに似た味だった。(日本では「菱の実」とよばれているものではないかと思う)
 
 7年前はライプル〜ドゥルグ間は車で3時間程かかったのだが、今は道もかなりよくなって、1時間半くらいで着くという。マカーニー家にたどり着く前に、一家が経営している車のパーツ店に立ち寄る。7年前はドゥルグ市内に3軒、ダリーラージャラーに2軒店があったが、現在はドゥルグの店は3階建ての店1軒にまとめているそうだ。この3階建ての店も前回来たとき建設中だったので、どうなっているか見てみたかった。築7年足らずにしてはずいぶんぼろっちいような気がするが、土埃や雨期の豪雨にさらされているとしかたがないのかもしれない。おどろいたのは店にたむろっていたラーダーちゃんの年下の従兄弟達! 7年前はそろって聖紐式をした少年達だったのに、今では背もすらりと伸びて、すっかり一人前の若者になっている。それぞれ名前を確認してもすぐには信じられなかった。
 そうこうしているうちにドゥルグの家に到着。7年ぶりのデリーはずいぶん都会になっていたが、このあたりの景色は昔とそう変わらないのでほっとする。変わった点といえば、かなりの人が携帯電話を持っていることと、インターネット・カフェがいたるところにあることか。
 家にいる子供達もみんな大きくなっていてびっくりした。子供達のうち、ふたりはプネーの大学に行っていて家にはいなかった。インドでは大学の学位の試験は全国一斉で、どの大学にいようが試験にパスすれば同様の単位を取れるので、特殊な科目を専攻するのでなければ家から離れた大学に通うのは珍しいらしい。

 まずはおばあちゃんの足に額ずいて挨拶。約2年前に現マカーニー家を作り上げた偉大なるデーヴダースおじいちゃん(=通称バープージー)が亡くなってからは、おばあちゃんがマカーニー家の家長らしい。おじちゃんが亡くなる寸前に日本に電話をしてくれたのだが、友達からの長電話のせいで電話が繋がらなくて、話ができなかった。そのことがとても心残りだったので、お悔やみを言いたかった。おじいちゃんはドゥルグ=ダリーラージャラーでは相当な人物だったらしく、葬式には2000人以上来たらしい。

 夜ラーダーちゃんを迎えに駅に行く。26日にウガンダからムンバイに着いたラーダーちゃんは、27日にムンバイを出発して、丸1日電車で過ごし、今夜11時半頃ようやくドゥルグに着くのだ。ムンバイにはラーダーちゃんの弟のスシールが迎えに行って、一緒に連れてくるらしい。
 ドゥルグ駅に入線する電車から身を乗り出して手を振っているスシール。ああ、スシール! 7年前はとってもかっこいい男の子だったのに、すっかり大人になっちゃって…。心配していたとおり、額も広くなってきたじゃないの…。
 7年ぶりに会ったラーダーちゃんは、前よりきれいになっていた。セミロングにカットした髪と、トリコロールのTシャツ、綿の丈の短いパンツがよく似合う。とても2児の母には見えない。

  「ラーダー、チャッティスガルにようこそ! 私の方が早くドゥルグに着いたわよ!」

 抱き合って再会を喜ぶ。本当に会いたかったよ。
 ラーダーちゃんがウガンダに移住した頃は、ドゥルグはまだマッディヤ・プラデーシュ州だった。ラーダーちゃんの次男ラーフルは今年6月に生まれたばかりなのでインドに来たのは始めて。長男のアニルも1歳ちょっとでウガンダに行ったので、インドのことはすっかり忘れてしまっているという。
 お土産にセイコーの掛け時計を2つも持っていった私を夫は笑ったけど、ラーダーちゃんの荷物もすごかった。3か月滞在するので自分たちの着替えだけでも大変なのに、でかい布製スーツケース1個のほとんどはお土産。やはりドゥルグとダリーラージャラー2軒分。その他に自分達の荷物が入ったスーツケース2個、子供ふたりとバギーと大きい手荷物。ムンバイからはスシールがいたとはいえ、そこまではどうやって運んだのか…。インド4年ぶりのラーダーちゃんにとっても、いとこの子供達の成長は目を見張るものであったらしい。買ってきたお土産のいくつかはもう子供っぽすぎると嘆いていた。

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修行の始まり


 再会の興奮さめやらず、床についたのは夜の1時半頃。それでもいつものように6時前には目が覚めてしまう。しかしゲストはうかつに起きられない。私が泊めてもらっている部屋には、ラーダーちゃんの姉妹ニシャー、タッブー、ジュヒーと、ニシャーの娘ギーター、いとこのウシャーが寝ている。7時半頃、ラリータ叔母さんがドアをノックするが誰も起きないので、私がドアを開ける。「とーこが寝ているのにひどいじゃないの」とニシャーは口答えをするが、叔母さんは「他にどうしろっていうのよ」と言いながら、年上の3人(ニシャー、タッブー、ジュヒー)を手伝い要員として連れて行こうとする。ニシャーは寝ぼけまなこで「とーこは寝ていて…すぐお茶を持ってくるからね…」と部屋を出ようとするが、タッブーとジュヒーはしばらく起きようとしなかった。

 ドゥルグの家では夜8時まで店があるので、叔父さん達が帰ってきてから毎晩10時頃に夕食、11時半から2時くらいにかけて就寝。学校に通う子供に食べさせるために叔母さん達は6時〜6時半には起きているらしい。その後はニシャー達年長の娘達が7時半頃起きて、大人達がご飯を食べるのは九時から10時頃まで。叔母さん達や娘達はみんなが食べ終わるまで食べられないので、最後に朝ご飯を食べ終わるのは11時頃になる。

 いったい1軒の家に何人住んでいるのだろう。
 ドゥルグの家に普段いるのは次のとおり。まず家長のシュリデーヴィーおばあちゃん、次男アルジュン叔父さんと奥さんのナグマー叔母さん、アルジュン叔父さんの次男のスジャーン。アルジュン叔父さんの長男長女はプネーの大学の大学院と研究課に在籍している。3男シャシカント叔父さんと奥さんのラリータ叔母さん、プレーム、クマーリー、ヴィジャイの2男1女。4男のプラシャント叔父さんと奥さんのミーナ叔母さん、フリティック、ルナ、ウシャー、ディルの2男2女。ラーダーちゃんの弟スシール、ラーダーちゃんの妹の5女タッブーと6女ジュヒー。6男ナゲンドラ叔父さんの長男、カラン。合計19人だが、店の会計をしているらしい人もひとり住んでいるらしい。今日はその他に、いつもはダリー・ラージャラーにいるブラジさんと奥さんのアーシャーさん、夫妻の長女ニシャーとその子供のギーター、次女ラーダーちゃんと、彼女の長男アニル、次男のラーフル、今日ライプルの実家から里帰りして立ち寄っている6男の奥さんレーヌーさん、それに私も加えると27人(あっている?)。
 私は以後つねに6人くらいから同時に話しかけられるという状況に置かれることになった。

 さて今日こそは帰りの飛行機のリコンファームをしなければならない。到着した日と翌日、ずーっとエア・インディアに電話をかけているのだが、全然繋がらない。デリー事務所だけでもリコンファーム番号は3本あるのだが、常に話し中状態である。インドでは普通の家からよその州に電話をかけるのはなかなか大変だ。たいていの人は町中にあるSTDという、州外、国外にダイレクトにかけられる電話を利用する。エア・インディアの予約確認事務所は大都市にはだいたいあるが、どの事務所にもマカーニー家の電話からは直接かけられないのであった。それにひきかえ携帯電話は州外、国外でも直接電話がかけられるので、電話回線を引くにも順番待ちが大変なインドでは、急速に携帯電話の利用者が増えている。私はマカーニー家の電話からSTDを呼び出しつつ、スシール、シャシカント叔父さん、プラシャント叔父さんの携帯電話を全部使わせてもらってエア・インディアに電話をかけ続けたが、かかってくる電話もあったりするので、リコンファームができたのは、電話をかけ始めて2時間近くたってからだった。電話1本にこんなにがんばったのは、ローリング・ストーンズのチケット以来。2時間かけ続けてようやく電話に出た予約確認係はこっちの気も知らず、「あなた日本人? サヨナラ〜、フジヤマ、ドウモ! え、ヒンディー語で話しているの? 日本のどこから来たの? トーキョー?」といたってのんき。この調子で話していれば電話もなかなか空かないわけだ…。おまけにすごいインド訛りの英語で、予約確認番号のアルファベットを聞き出すのにも一苦労だった。やっぱりめんどうでも、リコンファームは直接窓口に行った方が簡単だ…。

 なんとか予約確認番号を手に入れてすっきりしていると、ニシャーが急に言う。
  「今日は『ワジャン』があるから、歌を覚えるのよ!」
  「『ワジャン』て、演奏会だっけ?」
  「そう。きょうは年に1回のスペシャルなワジャンなの。1曲だけでいいから一緒に歌ってね」

 私が歌うんですか? 一緒にコーラスするくらいならいいですけどね。元合唱団だし、自分で歌も作るくらいですから…なんてことをいうと「歌ってみろ」と言われそうなので、静かにしている。

 夜9時半頃ワジャン会場に連れて行かれる。簡単なお寺の本堂というか、集会場のような部屋だが、ハルモニウム、ターブラー等々の楽器が並び、音響担当も5〜6人いるという本格的なものだった。もうワジャンは始まっていて、次々にいろいろな宗教歌が歌われる。演奏家と歌手が10人くらい正面に座って、聴衆は男女に分かれて4〜50人ほど並んでいるが、なぜかニシャーとギーター、私は正面の席に誘導される。一緒に行ったアルジュン叔父さん、ナグマー叔母さんは聴衆席に座っているのになぜ…? とってもイヤな予感…。それから延々と2時間程ワジャンが催された。ヒンディー映画の曲はテンポも早くノリもいいのだが、ワジャンというのは、ヒンドゥーの賛美歌なので、メロディーも穏やかで心休まるというか…2時間も歌の意味がよくわからないまま聞いていると眠くなってくる。ニシャーとギーターは美声で有名らしく、それぞれ2〜3曲、マイクを持って歌った。11時半を回り、眠気をがまんするのもそろそろ限界…とあくびを飲んでいると、ワジャンのリーダーらしき人が突然アナウンスを始めた。
 
  「今日は年に1度のワジャンですが、はるばる日本からマカーニー家の友人、とーこが来てくれました。とーこは亡きバープージーが、『私の日本の娘』と呼んでいた人です。ここで1曲とーこにも歌ってもらいましょう。」
 
 ああ、ヒンディー語がわかる自分が恨めしい…。しかしこうなったら歌わねばなるまい。ニシャーやギーターについてむにゃむにゃ口を動かすことにしよう。マイクが渡されたので演奏が始まるのを待っていると、ニシャーが「さ、始めていいよ」という。へっ? 前奏とかないの? 私ひとりで歌うの〜? 
 
  「とーこが歌い始めたらみんなが唱和するからね」

 いよいよ覚悟を決めて歌い始めました。
 
  「ドゥルガー女神様、ジャラーラーム様、ヴィル様とともに…」

 ようやく歌え終えてほっとしていると、プラシャント叔父さん、ミーナ叔母さん、ラーダーちゃん、アニルが入ってきた。もう夜も12時近くなので、アニルはかなり眠そうで機嫌が悪い。12時半近くにようやくワジャンが終了した。またしても「ここでもう1度今夜のスペシャル・ゲストに挨拶してもらいましょう」とアナウンスされ、ヒンディー語でスピーチをするはめに。ワジャンの後も神様を祭っているところに行って、たっぷりお祈りをする。家に着くと同室のタッブー達はもう寝ていた。

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お祈りは続く、いつまでも…


 今日は日曜日。日頃から敬虔なヒンドゥー教徒のマカーニー家であるが、日曜日の朝はとりわけ念入りにお祈りをするらしい。仏間、というか、神様の家が二つ飾ってある6畳ほどの部屋に全員集まり、アルジュンB叔父さんが15ページくらいありそうな冊子を手に取った。中に書かれた文字はマカーニー家の母語、グジャラーティー語なので、私には完全には読めないが、表紙の絵はジャラーラームなのでジャラーラーム教典なのでしょう。アルジュン叔父さんはその冊子の1ページ目からつかえることなく最後まで一気に読んだ。教典の最初の方はお祈りの作法や道具が書かれているらしく、「ギー、線香、ベル…」と指さし確認をしていた。最後は全員で「ジャラーラームに栄光あれ」と唱和しておしまい…と思いきや、順々にろうそくの火を神様にかざし祝福を受け、それが一巡したら賛美歌の時間。今度はニシャーがリーダーとなって、立って賛美歌(ヒンドゥーでも賛美歌というのか?)を歌う。終わりそうになると誰かがまた同じフレーズを繰り返してどんどん続く。ついにニシャーが「何回やるのよ!」と言って1曲目の歌は終わった。その調子でさらに2〜3曲歌って、最後はみんなで立ったまま右回りを1回して日曜日のスペシャルなお祈りは終わった。

 朝食の後ジュヒーと近所の寺参り。ここは前回、夫がジュヒーと来て寺参りの作法を教わったところだ。ジュヒーもよく覚えていて、「ジジャジー(=姉妹の夫、義理の兄を呼ぶときの敬称)と来て、写真撮ってもらったのよ」と7年前と変わらない、かわいい顔で微笑む。ジュヒーはブラジさんの末っ子で、今年24歳だというが、いつまでもかわいい。末っ子ってそういうものなのよね。

 家に帰ると「今日のお昼は外だからね」と言われる。前にもこういうことあったなー。誰か知らない人の結婚式に行ってご飯ごちそうになったんだよね…と考えていると、ニシャーに呼ばれてシルクサリーに着替えさせられる。私は今回、着替用に2着シャニワール・カミーズというインドのスーツを持ってきたが、「そういうダブダブしたのはかっこわるい」と言われ、何かっていうと着替えさせられる。マカーニー家の人は日に何回も着替えて、しかも着たものはすべて1日限りで洗ってしまうのである。毎日同じようなものを着ているように見えても、それは着替えて洗う時間帯が日本と違うためそう見えるためで、毎日大量の洗濯をしているのだ。
 さてサリーに着替えてラーダーちゃんとアニルと3人でお出かけ。ラーダーちゃんの説明によると、知り合いの家でお祝い事があるので、そこにお呼ばれするそうだ。
 
  「私が結婚したばかりの時にも同じような催し物があったでしょ」と言われるが、全然覚えていない。
  「覚えていないの〜?」と寂しそうな顔をされ、
  「結婚式の前に新郎新婦になる人にお菓子を食べさせるお祝いがあって、その後、聖紐式があって、結婚式のあとレセプションがあったよね」と確認するが、
  「そうじゃないの〜」と言われ困ってしまう。私のヒンディー語がつたないので、詳しい話は英語で説明しようとしてくれるのだが、私が英語もよくわからない、というのをすっかり忘れているようだ。
 着いた家では、なにやら一室をお寺のように飾り付けて、色とりどりのサリーを着た女性達がお参りをしている。我々もお参りし、プラサード(=神様のさがりもの)として、ステンレスの小皿にはいった木の実と一ルピーコインを頂戴する。

 4年ぶりにウガンダから帰ってきたラーダーちゃんは、他のお客さんや主催者家族との久しぶりの再会を祝っている。私はスーツ式の服から、背中やおなかがあいているサリーに着替えたものだから、さんざん背中を蚊にさされた。ひとしきりお参りと談笑がすんだあと、2階にある食事室に。ここは女性と子供だけの部屋のようだ。パーティー用の葉っぱを綴って作ったお皿に、神様の下がり物のお菓子、チャパティ、ご飯、野菜カレー3種類、野菜カツレツ、スープ状のカレー、漬け物、ヨーグルト、生野菜などがつぎつぎに盛られる。

 夜、寝るときニシャーに、
  「今日ラーダーちゃんと行ったのは何のお祈りだったの? ラーダーちゃんが説明してくれたんだけど早口の英語でよくわからなかった。ラーダーちゃんの結婚の後にもやったとか言ってたけど、私も行った?」
 と聞いてみた。英語の説明で分からないものをヒンディー語で聞き直すというのも無謀だが。
 
 「今日のは、新しくお嫁さんが来た家で、太陽神の奥さんを祀ってお祝いするお祈りよ。ラーダーのも婚家でやったから、私もとーこも行っていないわよ。勘違いよ」
 
 なーんだ、そうなの。新しく来た嫁を近所の人に紹介するおひろめ会みたいなもんなんでしょうね。

 夜、プネーの大学にいる、アルジュン叔父さんの娘、マーヤーから日曜日の定期電話がくる。マーヤーは天然巻き毛のかわいいお嬢さん。しっかりもののナグマー叔母さんにしつけられたので、高校生の時からしっかりしていた。グジャラート式にサリーをきれいに着るためには最低2本安全ピンが必要なので、みんな着るたびに「安全ピンちょうだい!」と探し回る。そのとき、当時17歳のマーヤーが、服の下からチェーンのようにつないだ安全ピンをさっと出してくれたのだ。
 最近の写真を見るとちょっぴりふくよかになっていたが、かわいい顔は昔のままで、
  「マーヤーの写真見たわ。(女優の)カージョールみたい!」と伝えたら、嬉しそうにしていた。

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スシュミター来る


 きのう来る予定だったスシュミターと旦那さんのカイラーシュは、今朝ドゥルグに到着した。スシュミターはラーダーちゃんの妹で、ブラジさんの4女である。とってもかわいい性格で、二年くらい前のメールには、「今、とーこディディをインドに呼ぶ努力をしています。…結婚相手を探しているのよ!」なーんて書いてきたものだ。ところが7月に突然結婚してしまい、式に出るためにインドに行く間もなかった。お見合いの相手と相性がバッチリだったのか、お見合いした日には婚約、翌日には結婚式を挙げたそうだ。こんなに交際期間が短い結婚はマカーニー家でも初めてだとか。
 結婚してすぐ新婚旅行のラブラブな写真をメールで送ってくれたので、スシュミターの幸せな結婚生活に心配はなかったが、今回あまりにも短いインド滞在期間なので、会えそうもないのが残念だった。スシュミター達が住んでいるのはヴィシュカパトナムというところで、ドゥルグから列車で12時間以上かかるらしい。
 ところがスシュミターとカロールはわざわざ私に(そしてもちろんラーダーちゃん達に)会いにドゥルグに来てくれたのだ!
 スシュミターの旦那さんのカロールは、評判通り、明るく楽しい、いいジジャジー(=姉妹の夫、婿)だった。朝やっと着いたのに、半日過ごしただけで夕方にはヴィシュカパトナムに帰って行ってしまった。
 スシュミターの結婚式は急に決まったというが、結婚写真アルバムはイメージ写真も入った豪華なものだった。最近ではフォト・スダジオが凝った仕事をするらしい。ビデオも見たかったが、あいにくマカーニー家のビデオデッキの調子が悪く、完全には見られなかった。
 
 さてこの日は選挙。日本では選挙といえば日曜日だが、なぜか月曜日が投票日だった。インドの選挙は熱い! インドに到着した日から町中インド国旗や各政党の旗がはためいていたし、アルジュン叔父さんもずーっと会議派(コングレス)の3色手ぬぐい(スカーフ?)を首にかけていた。マカーニー家の大人達は交互に選挙に行き、投票済みの目印として、一本の指爪に青いインクをさして帰ってきた。叔母さん達はドレスアップして選挙に出かけ、叔父さん達はTVの選挙速報に釘付け。
  そしてこの日はラーダーちゃんの婚家が信仰している「スワミナラヤン」のグルの83回目のお誕生日だとかで、コルカタ(カルカッタ)の寺で行われてる聖誕祭の様子が延々とテレビ中継されていた。
 夜プネーの大学で研究員をしている、アルジュン叔父さんの長男、ゴーヴィンドから電話。ゴーヴィンドも7年前にはとってもかっこいい男の子だったけど、きっと今はかなり男くさくなったんでしょうね…。 「デリーじゃなくてムンバイから来ればプネーまで2時間だから、次回はムンバイから来てね」と言ってくれる。
 夕飯のメインは、ゴールガッパというスナック。直径五センチほどの小さなチャパティを油で揚げて、風船のようにふくらませる。その中にジャガイモで作ったマサラを入れて、辛い水につけて1口で食べる。普通は屋台で売っているもので、我々も7年目にラーダーちゃんの結婚式に設置された屋台でごちそうになった。薄いパン皮が口の中でカシャッと崩れる感触を楽しむものらしい。女性陣が食べる頃には、中に詰めるジャガイモのマサラがなくなってしまい、キャベツの炒め物を入れて食べていた。

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またまた寺まいり


 朝は台所でお菓子作り。「アラーディヤ」という、豆の粉とドライフルーツ、砂糖をギー(牛乳の精製油)でこねて、釣り鐘型にしたもの。ギーが熱々のうちに形を作る。みんな熱い熱いといいながら作っているが、成形はおおざっぱで、そろっていない。粘土遊びが好きな私も参戦する。
 
  「まー、とーこ、じょうずねー。みんなとーこみたいな形に作るのよ。」
 ほめてもらって気をよくした私は、
  「ガネーシャだって作れるよーん」といいながら、おむすびを結ぶ要領で小さな三角形のアラーディヤも作った。

 きょうはドンガラガーのお寺に行く、と聞いていたので、さっさと支度をして待っていると、ナグマー叔母さんがチラットと見て、「ダメ。着替えなさい」という。え〜この服今朝初めて着たのよ〜。きれいだよ〜。
  
  「マタジー(=お参りに行く女神の通称)は黒が嫌いなの。赤が好きなのよ」
 そういえばいつの間にかナグマー叔母さんは真っ赤なサリーを着ている。というわけで、きのうに続きナグマー叔母さんの娘、マーヤーのインドスーツを借りて着替える。ニシャーが血相を変えて「ギーター!ギーターはどこ〜!」と探し回っている。ようやくギーターを見つけると、
  
  「とーこ、歯を磨いて、シャワー浴びた?」
 と、寺参りの支度を確認される。そう、マカーニー家では、朝起きて歯を磨いて、シャワーを浴びないと寺参りは許されないのです。さらに生理中の女性も寺参りは制限されるらしい。
 
  「バッチリ。カメラも持ったよ〜ん」と言うと、
  「さ、行くぞ!」とアルジュン叔父さんのかけ声。走るようにして、アルジュン叔父さん、ナグマー叔母さん、ニシャー、ギーター、ジュヒーと私は車に乗った。
 
 着いたのはドゥルグ駅。ええ、もしかして列車で行くの? やったー! ドンガラガーは、10年前に一度、ラーダーちゃんの友達のお兄さんの婚約式に出席するために行ったことがあるが、参列者用のバスで2〜3時間の距離だったので、今回もてっきり車で行くのかと思っていた。時間がなくてインド鉄道に乗れないのが残念、と思っていたが、これで短い間とはいえ、列車の旅が楽しめる。 
  
  「ニシャー切符だ!」とアルジュン叔父さんに言われて、
ピンクのサリーを着たニシャーが走る。残った我々は、なぜか改札じゃないところから構内にもぐりこむ。
  「とーこ、ここから降りなさい。」 
 え、ここってホーム? 下は線路ですけど。
 
  「もう電車が来ている。むこうのホームまで階段を渡って行くと間に合わないから、ここからむこうのホームまで行くぞ。」
 
 というわけで、わざわざドレスアップした私も、真っ赤なサリーのナグマー叔母さんも、ホームから飛び降りて線路を走ったのである。ギーターに至っては着替える時間もなかったので、着替えをバッグに詰め込んだまま。何とか全員列車に乗ることができた。きのうはスシュミター達が来ていて比較的ゆっくりした1日だったが、今日は忙しくなりそう。

 インド人は時間にルーズだとか、ゆったりしている、というが、私の印象ではそんなことは全然ない。彼らの体内にはいつも待機電力がついていて、いざスイッチが入ると、起動時間はむしろ日本人より短い。イライラすることもなく、無表情に辛抱強く待っているが、それは「きたるべき時」に備えて万全の準備をしているのだ。だからまさかの時の代替策も、決断も非常に素早い。
 気がつけばまだ朝ご飯も食べていなかった。車内販売の食べ物を少し買うが、お弁当も持ってきている。1〜2時間でドンガラガーに着いてしまうので、お弁当は着いてから食べることにする。 お寺はドンガラガーの山頂にあり、そこまでは1万段だったか、すごい数の階段を上っていくという。苦労してこそ御利益がある、というのは日本と同じ。しかし、あまりにも急いで出てきたせいか、ジュヒーとギーターのサンダルが壊れてしまう。最初からこんなんで山頂まで登れるのだろうか…。
 登山口にある寺に立ち寄ると、門前のレストランから、「あなた達に家から電話が来ている」と言われる。『日本人を連れた家族連れ』で、通じちゃったらしい。電話に出たアルジュン叔父さんが言うには、

  「ナグプルからニルマルがとーこに会いに来るので、早めに帰ってくるようにだって。」
 ニルマルは、おじいちゃん達の唯一の娘ウマーさんの、旦那さんの妹で、ラーダーちゃんの結婚式で会ってから年に1回程度連絡をしている。今回も「インドに行くんだけど、急に決まったし滞在期間も短いので、今回は残念ながらお会いできないと思います」と連絡をしておいた。
 
  「ナグプルからドゥルグまで列車で6時間かかるし、家のものが応対しているから、待たせておけばいいのよ」
 というナグマー叔母さんの一言で、何もなかったかのように、朝ご飯を取り、サンダルの修理をし、体重計屋で体重のはかりっこなんかもした。
 インドでは人の集まるところに体重計屋がいて、1回数ルピーで計れる。「乗ってみろ」というので照れながらも乗ってみると、58キログラム。うそだ〜! そこまで重くないよ〜! 次に叔母さんが乗ってみると80キログラム。でも足を載せる位置を変えると簡単に70キログラムまで落ちてしまった。うーむ、これで役に立つのだろうか? とにかく商売は立派に成り立っているようである。

 さて、いよいよ寺詣での登山、というときに、ニシャーが近づいてきた。
  「とーこ、ニルマルを長く待たせちゃいけないから、リフトで昇ろうっていうのよ。お客さんはお客さんだからね」
 
 ええ、でも御利益は?という間もなく、ニシャーやジュヒーの足はロープウェイ口へ。そういえばサンダルが壊れたせいで、ジュヒーの足もすりむけていたのでした。するとヴァーリー叔母さんが、
  
 「なんでリフトで行くのよ! 自分の足で昇らなくちゃ御利益がないわよ」とかんかんに怒っている。
  そうは言っても、もうすぐロープウェイが来るので、みんなで乗ることにする。うーむ、高い。高尾山なみだ。ここを昇ったらけっこうな時間がかかるだろうなぁ。
 山頂に着くとひとけのない部屋があったのでギーターはお着替え。本尊のマータージーをお参りする前に、他の神々をお参りする。ハヌマーン神は独身につき、近づけるのは男性のみ、ということで我々は遠くから手を合わせた。でも他の女性達はハヌマーン神の本堂に入っている。
 
  「なんで? 他の女の人は入っているよ」
  「私達『ローハナー』は、女は入っちゃいけないっていわれているの。他のコミュニティはいいのよ」
  「そういえばラーダーちゃんのウガンダの家もローハーナー・アパートとかいう名前だったね。ローハナーって何?」
  「グジャラーティーの中の私たちのコミュニティ」

 グジャラーティーのサブ・カーストなのであろうか。ハヌマーン神に近づけないということは、私もローハナーなのか。

 ようやく山の頂にあるご本尊を祀ってある寺に到着(ご本尊は祀るものか、ということはさておいて)したが、一時まで休憩時間だという。神様も休憩するのか、祭司の休憩時間なのか。しばらく待って寺の入り口が開いたとたん、人が群がってあっという間に長蛇の列ができる。待機電力にスイッチが入ったようだ。人口の多いインドではお寺参りも競争である。自分の悩みを解決してもらうために来ているのだから、誰もが前へ前へと押し寄せる。満員電車かストーンズのステージ前かというところ。もみくちゃにされつつも前に来ると、マカーニー家の人々にさらに押し出され、お坊さんの面前に来てしまった。
 
  「この人わざわざ日本から来たんです」
 といつもはかわいいジュヒーが叫ぶ。…こんなこと前にもあったよなー。 7年前にスィク教徒の聖人に会いに行ったときに、この手で順番が繰上になったんだよね…。とぼんやり思い浮かべていると、他の信者にはお菓子のプラサード(=神様の下がりもの)をあげていたお坊さんが、ふむふむと珍しそうに私を見て、ココナッツ一個をくれる。
 
  「結婚して15年も経つのに子供がいないんです」
 とアルジュン叔父さん。いや、いなくたっていいんですけど…とはとてもいえない雰囲気だ。さらにもうひとつココナッツが追加され、なにやら赤いい布に包まれた生花を一盛りくれた。
  
  「言葉はわかるのか? こっちのココナッツは日本に帰ったら割って、旦那さんと一緒に、中の水を飲んで、ココナッツも食べなさい。そのとき花も一緒に食べるように。さっきのココナッツとは一緒にしないように、わかるように別々にしなさい。マータージーは日本語も分かるから、子供が欲しいと声に出してお祈りしなさい。」 
 またしても子宝祈願だったのか。
 
  「世界の子供がみんな幸せになりますように」と日本語でいうと、みんな満足した笑顔になった。
 それにしても私の子宝祈願のために、みんな朝ご飯も食べないで、膝が痛いと言っている叔母さんまで1万段の階段を昇ろうとしてくれたのだろうか。その気持ちはありがたいが、子宝祈願は精神的に消耗するなーと、ぐったりしてしまった。

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ニルマルとの再会


 帰りはショートカットしないで、みんな自分の足で階段を降りた。歩き慣れている私と、クリケット・チームのピッチャーをしている叔父さんにはどうってことないが、他の人はぜいぜいと息を切らしている。私と叔父さんだけ、岩山の中腹にある神様をおがみに行く。けっこう急な斜面で草履を履いていると危ないので、裸足で岩山を歩く。途中門前の店で買い物をしたり、スナックを食べたりしながらゆっくり降りた。

 門前の店には子供用の鳴り物のおもちゃが売っていた。長さ10センチ、直径3〜4センチのパイプに棒がついたもので、横に振ると「とことこ」と音がする。このおもちゃはマカーニー家の人々に大変受けて、「トコトコ」という名前で呼ばれるようになる。門前でも売れていて、あちこちで自分が呼ばれているようで変な気分だった。「トコトコ」を横に振ると「とことこ」と聞こえるが、ちょっと斜めに振ると、「ちゅぷちゅぷ」と聞こえる。「ちゅぷちゅぷ」はヒンディー語で「静かに、お黙んなさい」という意味。私もひとつもらって日本に持って帰ろうと思っていたが、子供達に貸したらその日のうちに壊れてしまった。

 山を下るとちょうどドゥルグ行きの電車が行ってしまったばかりだった。次の電車は2時間後。この近所にナグマー叔母さんのおじさんの家があるというので、そこで休ませてもらうことにする。ただし叔母さんもそこに行くのは初めて、というので、町の人たちに場所を聞きながら、突然大勢(6人)で押しかけることになった。突然押しかけてもインドの人はいやな顔ひとつしないで歓待してくれる。マカーニー家とはまた違った味付けのお昼(といっても5時近くだが)をごちそうになる。

 ようやくドゥルグに帰る列車が来て、なんとか乗り込んだ。ローカル線だが、座席はいっぱい。先に座っていたマカーニー家の知り合いの人が声をかけてくれたので、何とか座ることができた。ローカル線なので、日本人の私に乗客はみんな興味津々。かわいいジュヒーもさんざん注目されていた。「とーこマオシー(=母親の姉妹、叔母)、あれ日本語じゃない?」とギーターに言われた方を見ると、「祝 禮 饗」などという漢字が裏返しに書かれたセーターを着ている人がいる。我々の正面には、ターバンをはずしたスィク教徒の威勢のいいお兄ちゃん2人が座った。ひとりのお兄ちゃんは片目にガーゼをしている。花火でけがをしたらしい。
  
  「とーこディディ、『パタークラ・ポローワチェ』って言ってみて」
 とジュヒーがささやく。げげ、なんてことを言わせようとするんだ! 『パタークラ・ポローワチェ』というのはマカーニー家の母語、グジャラーティー語で、『花火をつけろ』という意味。2〜3日前から、なぜかマカーニー家で練習させられているグジャラーティー語である。かわいい顔して大胆なジュヒーであった。

 他の乗客と楽しく談笑しながらドゥルグ到着。駅にはラーダーちゃんやプラシャント叔父さんが迎えに来ていた。どうもニルマルをかなり待たせてしまい、間が持てなくなったようだ。
 家に入ると、待ちくたびれたニルマルは別室で休んでいた。ただ私に会いに、片道六時間もかけて来てくれたのだ。再会を喜び、ニルマルの持ってきた、彼女の子供達の写真を見る。私のために7年間の成長の経過をセレクトしてきてくれたらしい。遠縁とはいえ親戚なので、てっきり今日はドゥルグに泊まるのかと思っていたら、子供の学校があるから、今夜帰るとのこと。スシュミターといい、みんなこんな私のために、貴重な時間を割いて会いに来てくれて、本当に申し訳ない。結局汽車の切符はとれなくて、11時発の高速バスでナグプルに帰ることになった。ナグプルには翌朝5時頃着くという。

 ニルマルをバス停まで送って、ようやくラーダーちゃんと2人でゆっくり話す時間ができた。
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ダリーラージャラー


 きょうはマカーニー家のもうひとつの家があるダリーラジャラーへ。ダリーラジャラーの家に普段住んでいる家族は次のとおり。
 おじいちゃんの長男でラーダーちゃんのお父さんブラジさんとお母さんのアーシャーさん。ニシャーとギーター、5男のジャヤデーヴ叔父さんと奥さんのディヴィーカ叔母さん、スバーシャーとサンジャイの1女1男。6男のナゲンンドラ叔父さんと奥さんのレーヌー叔母さんと、彼らの娘ジャヤー、次男サンデーシュの13名。それから前からお店で働いている人もいつも見かけるので、もしかしたら住んでいるのかもしれない。
 ダリーラージャラーには鉄の鉱山があって、土の色も赤い。その鉄をドゥルグ(=ビライ)の製鉄工場に運んでいるらしい。
 今回インド旅行では、どうしても見たい物がひとつあった。それは亡きおじいちゃんが設立メンバーのリーダーとなって作ったジャラーラーム寺院。

 7年前に来た時は、このジャラーラーム寺院も、ドゥルグの3階建ての店も、ダリーラジャラーの新しい家もすべて建築中だったので、完成した姿を見ていなかった。
 私がマカーニー家とつきあい始めた当初は、挨拶の言葉は「ジャイ・シュリ・クリシュナ」というもので、クリシュナ神を深く信仰していたが、いつの間にかジャラーラームをいっそう深く信仰するようになったらしい。今では挨拶は「ジャイ・ジャラーラーム」である。スワミナラヤンという聖人を信仰する家にお嫁に行ったラーダーちゃんにとっても、マカーニー家のジャラーラームへの傾倒は多少とまどいを感じるほどのものであったらしい。2〜3年前におじいちゃんが病気になってからは、マカーニー家のジャラーラームに対する信仰はいっそう深まったという。

 お寺は4〜5年ほど前に完成して、毎年4月に行うアニバーサリーには日本にも招待状を送ってくれているのだが、完成してから訪れるのは今日が初めて。おじいちゃんが亡くなってからも、遺志をついで、巡礼に訪れた人が泊まれる宿泊所も作り、将来は診療所も作るという。毎週月曜と木曜日には、ホールを開放して、貧しい人たちのために食事会を開いているという。将来ドゥルグにもお寺を建てる予定で、もう予定地の上には「ジャラーラーム寺院」という看板が建てられていた。

 ダリーラジャラーの家も、ドゥルグと同じように、表札がおじいちゃんの名前のままだった。みんなまだ取り替える気にならないのだろう。建築中だった家は完成していたが、誰も住んでいなかった。もうできてから3年も経つのに、次世代(=スシール達)が結婚して所帯持ちになるまで使わないでとっておくという。人に貸す予定もないそうだ。
 お寺の夕方のセレモニーは6時頃から始まった。ダリーラジャラー中からいろいろな人が三々五々お参りにやってくる。ここでもニシャーが聖歌リーダーとなって、宗教歌を歌い始める。専属の演奏者や儀式を執り行うお坊さん(=パンディット・ジー)もいて、私設の寺とは思えない。他の有力設立メンバーにも紹介される。毎年招待状をもらっているので、名前だけは知っていたが、実際に会うと以前からの知り合いのような気がするから不思議だ。

 マカーニー家ではジャラーラームだけでなく、クリシュナ神やシヴァ神も祀っているが、六男のナゲンドラ叔父さんは特にドゥルガー女神を信仰しているらしい。マカーニー家の活動とは別に、町の青年会のような組織を作り、他の7人のメンバーとともに、貧しい子供達のための学校や病院を作り、無料で提供している。また誰でも安心して飲めるように、町のメインストリートに水道を作った。病気の人が使えるように、マカーニー家の門前には、ぴかぴかの救急車が1台止めてある。夜はその青年会のメンバーの一人の家にお招きされる。彼はクリスチャンなのだが、ドゥルガー女神も深く信仰しているのだとか。その後、鉄の鉱山を訪れる役人達の宿泊施設へ案内してもらう。3階建てのおしゃれな建物で、宿泊できる部屋は私が最初に泊まったホテルより広かった。案内してくれた人は、役人が来たときだけ噴水を出すんだよ、といいながら、庭園の池に水を満たしてくれた。小さな滝もある池で、水が満ちて噴水が出るまで10分以上かかったが、日本から来たスペシャル・ゲストのためにわざわざ出してくれたのである。

 ドゥルグの家でもダリーラジャラーの家でも女の人たちは忙しい。特にマカーニー家では、高校に通うようになるとちょっと都会のドゥルグの学校に行かせるようにしているらしく、ダリーラージャラーの家にはあまり大きい娘達がいない。それでいてジャラーラーム寺院は朝早くから開くし、通学する子供達のお弁当も作らなくてはならないので、お嫁さんたちは大変だ。午後4時から6時頃までが彼女たちのつかぬまの休息時間のようで、
 
  「とーこ、私と話をしましょ!」
 といって、お嫁さん2人(ディヴィーカ&レーヌー)に部屋に連れて行かれた。ディヴィーカーは私と同じ年、レーヌーは6歳ほど年下なので、私も気軽に話ができる。それぞれの結婚写真を見せてもらった。
 
  「どうしてダリーラジャラーには1泊しかしないのよ」とさんざん責められる。

 ダリーラージャラーでは寺の世話があるので、1日の開始時間がドゥルグの家より早い。女性は朝5時半起き。私も6時には起きて、7時過ぎにはお寺に着いた。
 この日の朝の礼拝時には、またしてもスペシャル・ゲストの私のために特別お祈りをしてくれるという。してくれるばかりか、パンディット・ジー(=お坊さん)について、特別に礼拝を執り行わさせてくれるという。いや、しなくてもいいんですけど…だいたい私のために何のお祈りしてくれるのかも聞いていないが、おそらくまたしても子宝祈願であろう。相手を納得させるだけの理論武装ができていないので、黙って儀式を執り行うしかなかった。
 建物の外に祀ってある神様にパンディット・ジーとお祈りを捧げ、ご本尊のジャラーラームとクリシュナ一家にお祈りを捧げる。このジャラーラームとクリシュナ一家は高さ50センチほどもある像で、ラーダーちゃんのお母さん、アーシャーさんが作った衣装を着ている。アーシャーさんは「神様も着替えるので」20着ほど作ったらしい。「神様も食べるから」寺の中には神様の食事を作る台所もある。
 全部で2時間あまりのお祈りを終え、ここでもココナッツをもらった。ココナッツは子宝の象徴なのか? その他にもプラサードを3種類もらった。毎日あちこちでもらうプラサードだけでも生きていけそうな気がする。

 家に帰る前に、お寺の有力メンバーのラトゥール氏のお宅へ招かれる。このお宅は、メインストリートに面した店(食堂)のすぐ裏にあるのだが、入り口を開けるとすぐ下に降りる階段があって、道路から見ると地下に家が建っているので驚いた。土地の段差を生かした設計らしく、裏口には階段がなく、別の道が続いていた。
 家に帰る途中、ラーダーちゃんに聞いてみた。
 
  「ジャラーラームの名字はタッカルだからローハナでしょ。ラトールさんってクシャトリアの名字でしょ?ラトールさんはローハナじゃないの?」
  「そう、ラトールさんはローハナじゃないの」
 するとローハナというのは、グジャラーティーのバラモンで商業に従事する人たちのことなのかなー? とにかくローハナでなくてもお寺の有力メンバーにはなれるようだ。

 家に帰れば家の神様のプラサード。何人かは「断食の日」の人がいたが、「断食用の食事」を取るというのがおもしろい。グジャラーティーはインドの中でも断食をよく行うコミュニティらしい。1週間のうち自分で断食の日を決めて(それはたぶん信仰する神様にちなんでいるのだと思う)、他の人とは違う軽い食べ物を食べる。

 朝食を食べ終えると、ナゲンドラが、「子供達がとーこを待っているから」とせかす。

  「あら、ごめんなさい。だって私、自分のスケジュールを知らないんだもの。前もって予定を伝えておいてね」
 とひとこと言っておく。ナゲンンドラ叔父さんは、おじいちゃん夫婦の末っ子で、私より年下なので、けっこう言いたいことを言える。
 ナゲンドラ叔父さんがダリーラジャラーで他の7人のメンバーと作っている、ドゥルガー女神青年会で作った学校を訪問。小さいが2つも学校がある。その他に診療所が1つ、隣にもう1つ建設中だ。その他町中に作った水道やドゥルガー寺院に案内してくれた後、ナゲンドラ叔父さんの部屋に呼ばれる。
 青年会の活動を几帳面にまとめたファイルを見せてくれる。
 
  「この子は親が事故でなくなって貧乏になったんだけど、とても頭がよくて、学校へ行く資金を出した。この人は旦那さんが亡くなって、頭がへんになってしまい、一人で汽車に乗ってプネーまで行っちゃったんだ…ゴーヴィンドに電話して引き取りに行ったけど、精神病院にこれだけお金を払った。この人は腸が体の外に出てしまい手術した。この人は事故で右足を失った上に、病気で左足も切断した…とーこ、話がわかるか?」
 少しは、と言うと、自分で同じ事をもう一度説明してみろ、と言う。他のマカーニー家の人たちは私のめちゃくちゃなヒンディー語でも、勘を働かせてわかってくれるが、ナゲンドラ叔父さんは容赦ない。
 
  「わかるか。この人一人の手術代だけでも、とーこのカメラと同じくらい金がかかるんだ」
 という言葉にドキッとする。たしかにこれだけの活動をたった八人でやるというのは大変だ。日本の友達にも我々の活動を知ってもらい、協力してほしい、とナゲンドラ叔父さんは言った。

 今日は木曜日。月曜日と木曜日はジャラーラーム寺院で貧しい人々のために食事を提供する日である。食事会は1時半頃から始まるので、我々も行って、手伝いをする。お寺のホールには300人くらいの人が4〜5列に並んで座って食事を待っている。私とラーダーちゃんは食事とは別に、プラサードのお菓子を配って歩いた。直径30センチほどのボールに入ったお菓子を、300人以上に配って歩くのはけっこう大変だ。食べる人は座っているので、我々はプラサードを渡すたびに腰を低くしなければならない。渡すたびに「ジャイ・ジャラーラーム」と唱える。
 食事会が終わった後、またしてもプラサードを頂戴する。一度家に帰って軽い食事をしたあと、ショッピング。
 
  「みんなお寺、お寺としかいわなかったけど、やっとショッピングの時間よ!」
 とラーダーちゃんが私にほほえむ。
 マカーニー家としては、はるばる日本から帰ってきた娘に、何か持たせて帰したい、という態度で、ここで自分のお金を使うのはあきらめた。遠慮なく、「じゃあ次回の里帰りの時、服を借りなくていいように、スーツがいいな」と積極的にリクエストした。今日はまたドゥルグに帰るので、あれこれ迷っているひまはない。
 ショッピングを終え、ちょっと熱があるラーダーちゃんの息子、ラーフルを病院に連れて行くと、もう夕方になってきた。7年ぶりに会ったのに、たった1泊しただけでダリーラジャラーの人々とはお別れ。今度はいつまた会えるかわからない。おばあちゃんも2〜3日ダリーラジャラーにいるというので、ニシャーやギーター共々ここでお別れだ。

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ドゥルグ最後の夜


 車で2〜3時間走り、夜ドゥルグに到着。1日いなかっただけなのに、子供達から「さびしかったよ〜」とまとわりつかれる。
 マカーニー家内の流行語「パタークラ・ポローワチェ」(花火をつけろ)と、人気テレビ番組『キチュリ』出てくる流行語「スーパック」「クリーン」を繰り返しおさらいさせられる。この子達も次に会うときは大きくなっているのかなぁ。
 近所のインターネット・カフェへ。日本のサイト(yahoo.japan)を呼び出していたらフォントのダウンロードだけで相当時間がかかってしまった。

 夕飯の後、急にアルジュン叔父さんが言い出す。
  「とーこ、パーン食べるか?」
  「え、でももうすぐ10時だし、お店閉まっているのではないでしょうか」
  「大丈夫。近所に知り合いの店があるから。ラーダーも行くぞ!」
 また突然のことなので、夜になって冷えてきたというのに、ラーダーちゃんも私も半袖のまま。なんとか出口にあったショールをつかんで、2人でショールにくるまりながら、アルジュン叔父さんの後を追った。いつの間にかディルもくっついてきている。小学生は半袖でも元気だ。
 パーンというのは、キンマの葉で香辛料を巻いたもので、口の中をすっきりさせる嗜好品だ。
 写真を撮ってもいいか、とパーン屋に確認すると、張り切って珍しい形のパーンを作ってくれた。マカーニー家の人々もそんな形のパーンは初めて見るという。普段は三角形のパーンばかりだが、百種類くらいのデザインを知っているらしい。4人で様々なデザインのパーンに喜んでいると、カランが迎えにきた。ラーダーちゃんの友達、モナのお兄さんが日本のコインをもらいに来たらしい。
 
  「とーこ、スケジュールがいっぱいで、いつも誰かに呼ばれちゃっているわね」
 とラーダーちゃん。

 モナはラーダーちゃんの高校の同級生で、今は眼科医になって、お嫁に行ってしまったので、ドゥルグには住んでいない。ラーダーちゃんもモナはもちろん、彼女のお兄さんに会うのも久しぶりで話が尽きず、お兄さんは結局12時過ぎまでマカーニー家にいた。ダリーラジャラーから3時間近くかけて帰ってきたので、眠い。

  「お客さんってこんなに遅くまでいるものなの?」
  「んー、10時頃来る人もけっこういるわね。まぁ、子供の頃から慣れているけど、普通マックスで11時かな」

 ようやく寝室に戻ると、プレームがやってきた。
  
  「とーこディディ、僕、明日朝早くカレッジへ行くから、もう会えないかもしれないと思って…」と差し出した片手には『スィート・ラブ』と文字の書かれたピンクのハートの置物が…。日本人というだけで、特にきれいでも才能があるわけでもない私が、こんなにもてちゃっていいのかしら。
  
  「ありがとう。でも次に来るときには、私じゃなくてガールフレンドにあげてね」
  「とーこディディは僕のガールフレンドだよ」
 
 ははは…、昔のチントゥーが帰ってきたね。最初にプレームに会ったとき、彼はまだ5歳くらいで、チントゥーという愛称で呼ばれていた。私の膝によく乗って、「なんでそんなに目が小ちゃいの?」なんて言っていたのに、今では180センチくらいある理知的な青年。眼鏡をかけて年相応に落ち着きはらって、昔の面影がぜんぜんなかったんだもん。

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ナリヤール!


 とうとうドゥルグを去る日がやってきた。もう1度プレームに会うために、同室の誰もが起きない時間にそーと起きてシャワーを浴びる。いつもはお湯のシャワーなのだが、お湯を出すスイッチがよく分からないので、水でがまんする。こんなに早くから(といっても朝の7時過ぎ)起きたら、他の人に迷惑かな…と思いつつ、階下を眺めていると、お店で働いている会計士が出てきた。
 
  「あれ、そんなところで。下に降りてくれば?」という一言に勇気づけられ、階段を降りた。プレームは朝食を取っているところだった。
  「プレームがカレッジへ行く前にと思って、早起きしたよ」
 それから最後の写真撮影会。学校へ行く前の子供達から、次々に写真を撮る。今日はヴィジャイのお誕生日だが、彼はもう学校に行ってしまったので、ラリータ叔母さんが学校に電話をしてヴィジャイを呼び出してもらう。
  「ヴィジャイ、お誕生日おめでとう。きょう、デリーに行くね。」
  「We will miss you」
 ヒンディーで話しかけても、なぜか返ってくる言葉は英語ばかり。ラリータ叔母さんが言うには、英語で授業をする学校に通っているので、一言ヒンディーや他のインド語を使うたびに罰金を取られるそうだ。

 さて、いよいよパッキング。ラーダーちゃんは、私がリクエストしていたインドの漬け物「アチャール」をたんまり運んできた。
  「うっひゃー、これは多い。この5分の1でいいよ。」
  「ラーキーは、アメリカに帰るとき、スーツケース1つ分持って行ったわよ。ライプルからデリーまでの飛行機は手荷物で大丈夫よ。」

 問題は寺参りでもらったココナッツ3個だ。インドの飛行機はセキュリティ・チェックが厳しい。カメラの電池も手荷物にできないくらいだ。インドに入国する前にも、スーツケースにいれていた、お土産用の使い捨てライターを発見され、成田で没収された。

  「ナリヤール(=ココナッツ)は、日本に持って帰れないと思う。検疫があるから、生の植物はだめでしょう。アチャールも、もしかするとダメかもしれないけど、ココナッツはまず絶対だめだと思うな。」
 積極的にココナッツを持って帰りたくもないので、そう言うと、
  「プラサードだって言えば大丈夫だ。ライプルの空港では話をつけてやる。いざとなったら、お寺でもらった赤いはちまきを巻いて、ココナッツを手に持っていれば、インド人なら誰でもプラサードだってわかってくれるよ。」
 どこまで本気なのか分からないアルジュン叔父さんの発言だが、「プラサード」を持って帰れるのか、ちょっと実験したい気にもなってきた。

 ドゥルグのマカーニー家の人々と別れを惜しみ、アルジュン叔父さん、タッブー、アニル、それに結局カレッジをさぼらせてしまったプレームと一緒にライプル空港へ向かう。ライプル空港でみんなと別れを告げてセキュリティ・チェックを待っていると、「あのー、ナリヤールですが…。」と空港の制服を着た人が、カタコトの日本語で話しかけてきた。
  「私の名前はヤーデヴです。デリーの空港でトラブルがあったら、電話してください」
 アルジュン叔父さんが話をつけてくれたらしい。ヤーデヴさんは六本木のインドレストランで働いていたことがあるそうだ。こんなところでそんな人に会うとは思ってもみなかった。ガラス越しにアルジュン叔父さんにOKサインを出す。

 ライプルからデリーに到着し、国内線空港のトラベルカウンターでホテルを予約。おめあてのホテルは閉鎖されていた。50ドルクラスのホテルは小規模なものが多いせいもあって、どこも満室だ。
  「インターコンチネンタルはどうです?」
  「ご冗談を。五つ星ホテルでしょ。探しているのは50ドルクラスかYWCA、ツーリストバンガロー程度の宿です。」
  「しかしどこもいっぱいだ。マダム、インターコンチネンタルは通常225から230ドルですが、税込み125ドルでご提供できますよ。」
 それはちょっとお得かも。インドでは高級ホテルは税金も高く、室料の35%くらいの税金がついたりする。そういうわけで五つ星ホテルに宿泊することになった。125ドルといえば5700ルピーくらいか。10ルピーのベッド代だけで一晩過ごしたこともある私が、いまや五つ星ホテルに宿泊する身分になったのか…。
 ホテルに手続きに来た旅行会社の人はハンサムなスィク教徒。
  「カウンターではシャルマーさんという人がくると聞いていたので、驚きました。」
 驚いたのはシャルマーはヒンドゥー教徒のバラモンの名字で、頭にターバンを巻いているのはスィク教徒だから。
  「僕はシャルマーさんと同じ会社のスィンです。ヒンディー語がおじょうずですね。」
 と言いながら、ホテルの説明を英語でしてくれるが、いまいちよく分からない。
  「あのー、日本語で話してもいいですか?」
 と流ちょうな日本語に切り替わった。さすがデリーの旅行会社。

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ポリ・バッグ!


 というわけで高級ホテルに泊まったのだが、室料はディスカウントしても、他のものはことごとく高い。部屋の冷蔵庫に備え付けられているエビアンは、500ミリリットルで125ルピー、日本円にして300以上だ。外では1リットルのミネラル・ウォーターが12ルピーで売っている。デリーの中心街とはいえ、日が暮れるとまわりはけっこう暗いが、私は水を買いに外へ出た。1泊目のホテルも、一リットル入りミネラルウォーターが25ルピーもしたので外で買ったが、その値段に比べても高すぎる。ホテル内で夕食も取ったが、ベジターリーが450ルピー…。確かに豪勢ではあったが、マカーニー家の食事に比べると全然美味しくなく、疲れていたこともあって、ほとんど残してしまった。やっぱり高級ホテルは私には向いていない。
 この1週間、常に回りに人がいて、複数の人から同時に話しかけられる状況にいたので、防音のいきとどいたホテルの部屋にいると、マカーニー家の子供達の声が懐かしい。

 さて、明日は出発まで半日しかない。有給休暇を取って旅行にきているので、義理でも土産を買って帰らなければならない。効率よく買い物ができるように、旅行代理店にハイヤーも頼んだ。デリーの地図を出して買い物の順番を検討する。
 まずは、ドゥルグでもらってきたアチャールを入れるタッパー。ドゥルグの家でもプラスチック容器に入れてくれたのだが、すでに漬け汁(=油)がかなりにじみ出ている。これは食べ物なので、検疫にひっかからないよう、スーツケースに忍ばせて持って帰らなければならないが、今のままでは、買ってもらったインドスーツもすべて漬け物で汚れてしまう。しかしインドにタッパーはあるんだろうか。ガイドブックで「インド製ではちょっと困る、という外国生活用品をインド在住の外国人が買いに来るマーケット」というのがあるので、そこに行ってみることにする。その他、お土産用をまとめて買えそうな店、夫のリクエストのTシャツを以前買った通りなどをピックアップして、車で回るルートを作る。
 ほほほ、明日はハイヤーに乗ってショッピングよ。マダムは財布のルピー札を確認するのであった。
 翌日時間通りにハイヤーが到着する。 
 
  「これが今日、行く場所です。まずアチャールを入れる入れ物を買います。朝ごはんまだでしょうから、このお菓子食べてください。」
 とドライバーに行き先を書いた紙とドゥルグ土産のスナックを渡す。観光する時間はないので、ガイドはいらない、今日は買い物だけだと伝えてある。
  「アチャールを入れる入れ物…?」
  「えーと、シール容器っていうのかしら? プラスティックでできていて、こんな風にふたがあって、ぴっちり閉まって、中身がでないやつ。」
  「ポリ・バッグですかね…? こういうのはどこにあるんだか、私はちょっと…」
  「カーン・マーケットに行ってみて。」

 日本ならスーパー・マーケットに行けばたいていのものは買えるが、インドにはスーパーはほとんどない。バザールというのは小さな商店の集合体で、1軒1軒、何が売っているか覗いて見なければわからない。お目当てのカーン・マーケットには『ポリ・バッグ』はなかった。ショッピングしている身なりのいいスィク教徒の奥様に聞いてみる。
  「あら、それはここにはないわ。ボーガル・マーケットに行ってごらんなさい。時間を無駄にしちゃいけませんわ。」
 そう言って、紙に「poly bags, Borgal market」と書いてくれたので、それを持って車に戻る。
  「ボーガル・マーケットに行って!」
  「マダム、そこ行く途中にいいお土産が買えるお店があるけど…。」
  「ボーガル・マーケット! ポリ・バッグが最優先!」

 ボーガル・マーケットにもポリ・バッグは売っていなかった。ホテルの近くの生協で売っているかどうか…と考えつつ、土産屋に入る。外国人旅行者御用達のこじゃれた3階建ての店だが、物価があがったせいか、お土産用に買えそうなものはほとんどなかった。途中、1度見たかった高級ショッピング街で金のピアスを買ったりしているうちに、あっという間に2時半になってしまった。
  「マダム、ホテルに帰りますか?」
 昼食も取らずに付き合ってくれた運転手が聞くが、
  「まだポリ・バッグを買っていないわ。ホテルの近くの生協と、隣のシャンカル・マーケットに行って。」
  「マダム、しかし私の勤務時間は終了です。」
  「3時までの契約でしょ。そこまで行って、私が3時までに戻ってこなかったら、そこで解散でいいから。」

 ポリ・バックを探すのに半日費やしたが、結局ホテルから歩いていける距離に、それはあったのである。
 それからホテルに戻り、パッキング。部屋は4時まで使えるように交渉してある。通常のチェックアウトは12時なので、4時間滞在時間を延長したうえに半額、というのはかなりお得な感じだ。
 チェックアウトした後で荷物を預かってもらい、再びお土産を買いに外出。インドで買い物するのは大変だ。たくさんある店の中から、お目当てのものを探すのに一苦労、デリーでは定価販売が多いが、一応ディスカウント交渉する。商品の受け渡しと、お金の受け渡しが別な人間という店も多いので、買った商品が合っているかチェック。こんな苦労して義理土産を買うなんて…とばかばかしくなる。
 買った荷物をもう1度ホテルのロビーで詰め直す。ちょっと奥まったところに商談用のスペースがあるので、交渉して貸してもらう。こういう時は一流ホテルは便利だ。マダムでよかった。
 
 ホテルのエントランスで映画俳優のサンジャイ・ダットに会った。近づいて握手してほしかったが、サンジャイ・ダットの出演作の名前すら覚えていなかったので、車に近づいて手を振るのがやっとだった。日本人ファンは珍しかったのか、愛想よく手を振り返してくれた。


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出国


 出発時間より2時間以上も早く空港に着いた。ここでもお土産を物色。まだ義理用土産の数が足りないだ。とほほほ。

 デリーではヒンディー語が話せる外国人もそう珍しくないと思うが、それでもぐっと愛想がよくなる。お菓子を一箱買うと、もう1箱同じ物の封を開けて、食べろという。他の日本人観光客に味見をさせてPRさせるつもりらしい。でもツアー客はもうあっちに行っちゃったよ〜。どうするのよ、この口が開いたお菓子…。ただでさえ私にはアチャールとナリヤールがあるというのに。
 
残ったルピーを両替しようとするが、3つある銀行はすべて休憩中だという。空港の銀行に休憩時間があるのか?

 チェックイン・カウンターで片言の日本語を話すインド人に会う。話をしているうちに、いつも行く本郷のカレー屋の親戚だと判明。世の中狭いもんだ。

 ジャラーラーム様のご加護か、信じられないくらいスムースに出国して、私はナリヤールを3個スーツケースに入れて、無事に日本に帰ってきた。あの濃厚な日々を送っていたドゥルグから、たった2日間で日本に戻れるなんて不思議だ。検疫も税関もノーチェック。あまりにも何もかも簡単で、拍子抜けするくらい。日本では電車に乗ることも、トイレに行くことも、すごく簡単なのだ。

 たった2日。日本からたった2日で行ける距離にドゥルグはある。次に行くときは、デリーやムンバイから電車に乗って、24時間かけて心の準備をしてから行こうと思った。

(終)
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