インド旅行記

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らぶらぶ・ナマステ・ツアー」
(another story of SHINDOKU KIKO)
 最初のインド旅行で知り合って以来、文通を続けていたラーダーちゃんが、結婚することになった。
 数年前から、結婚式には来てね、と言われ、半ば冗談、半ば本気で、「絶対行くよ」と言っていたが、とうとう現実のものとなった。10年前、中学生だったラーダーちゃんがお嫁に行く。当たり前だが、なんだか不思議だ。

 私の夫はインドには全く興味がない。結婚してから2度インドに行ったが、どちらも夫を日本に残しての、一人旅だった。

 今回は結婚式なので、できたら一緒に行って欲しい…と恐る恐る頼んでみると、「仕方がない。行く」という。結婚して7年あまり、ようやくその気になってくれたかと、嬉しかった。

 しかし、夫が一緒に行くとなると、また別の問題もある。なんといっても、夫はインドのことなんか、何にも知らないのだ。あの、しつこいリキシャーワーラーや、物売り、賄賂を要求するオフィサルや、お布施を強要する坊さん、手や足が不自由な物乞い、そして、ディープな愛情あふれる、ラーダーちゃんの実家、マカーニー家…。
 
 冷房と冷蔵庫がないと死ぬ、と宣言する夫。さてさて、どうしたものやら…。(*登場人物の名前は仮名です)
ナマステ・ツアー 御一行様 カルカッタに到着 オリッサ州観光
添乗員、走りまわる 結婚式1日目 聖紐式
ある結婚式のようす ダリーラージャラーの家 子宝祈願?
日本の娘 オウジョウ(さよなら)! 添乗員、最後のおつとめ

成田発→カルカッタ(当時:現コルカーター)

カルカッタ→プリー→ドゥルグ→アーグラー→デリー

デリー→成田



 1 カルカッタ(当時:現コルカーター)
 2 プリー
 3 ドゥルグ
 4 アーグラー
 5 デリー
 
ナマステ・ツアー 御一行様


 インドでは、思い通りにものごとが進まない。汽車が遅れるのは当たり前。そのために、到着時間が遅くなり、ホテルに行けず、駅に泊めるはめになり、換金もできなくなり、安食堂で食べるしかなくなる…と、なし崩しに予定が狂う。そんな状況が目に見えているので、いつも、宿泊先も予約しないで、行き当たりばったりに旅行をしていた。

 しかし今回は、夫連れである。しかも、結婚式用の礼装…着物とスーツを入れたスーツケースを持っての旅行だ。これはもう、予定をきっちり立てて、夫を納得させながら、動かなくてはならない。

 そこで、私は、「らぶらぶ・ナマステ・ツアー」という、旅行会社をでっちあげた。私は、妻ではなく、添乗員。お客様の安全のために、ツアコンのいう通りにしてください、というわけだ。そのかわり、旅行計画書を作成し、1泊目の宿は確保し、パスポートやヴィザの手続きも、すべて「ナマステ・ツアー」がする。

 というわけで、カルカッタからインドに入り、ラーダーちゃんの結婚式のためにドゥルグに滞在する1週間を含め、その前後に観光地を2か所盛り込んだ、3週間のツアー・プランを計画した(参加人数は、添乗員を含む2人)。

 ツアーの集合時間は早い。成田からインド行きの飛行機が出発するのは、昼頃だが、出発の2〜3時間前には空港に着いているのがツアーの常識。実は、私は海外旅行ツアーというのは、ローリング・ストーンズのコンサート・ツアーしか行ったことがないが、たぶんそういうものだろう。我々一行は、早朝7時過ぎには、家を出発した。空港に着いたのは10時。海外旅行は何があるかわからないのだから、このくらい早くていいのだ。

 …と、ゆったり、チェックイン・カウンターが開くのを待つが、待てど暮らせど、全然開かない。通常、遅くとも、出発予定時刻の1時間前には開くはずだが、いつの間にか、カウンターには、「Delay」という汚い手書きの文字が表示されている。「遅延」?遅延って、いつまで?そうこうしているうちに、出発予定時間はとうに過ぎ、「Delay」が「Tomorrow」に変わった。ンなに〜? 「明日」?今日は欠航?呆然としたが、もっと呆然としているツアー客を心配させてはならない。

 「まあ、ナリタは空の玄関なんだから、もうインドに着いたも同然よ。きょうはナリタをインドだと思って、観光しましょう。そういえば、ナリタには成田山新勝寺……じゃない、シンショウ・テンプルっていうヒンドゥー寺院があったはずだわ。たしかシヴァ神の化身であるチヴァ神を祀ってあって、千葉県という名前もそこからついたのよ」
 
 そういって、成田山見物をすることになったが、その前にしなくてはならないことがある。この欠航のオトシマエをつけてもらわなくてはならない。エアー・インディアのカウンターに行って、説明を聞いた。
 
  「空港から、今日の宿泊先ホテルへは、バスで連れて行ってくださるそうですが、自力でタクシーで行った場合、タクシー代は出してくれますか?」
  「いえ、お出しすることはできません」
  「カルカッタのホテルに予約を入れていますが、今日の分の宿泊費は負担してくれますか?」
  「その代わりに、本日宿泊するホテル代を、こちらで負担する、と、ご理解ください」
  「これからすぐではなく、空港で昼食をとってからホテルに行きますが、昼食代は負担してくれますか」
  「バスでみなさんでホテルに行った場合、こちらで昼食の支度はいたしますが、それ以外はお出しできません」

 夫は、航空会社と私の会話を聞いて、(そんなことまで聞いてどうする…)と、いう顔をしているが、相手はエアー・インディア。目の前で話をしているのは、日本人だか、実際の相手はインド人なのである。最初にきっちり話をつけておかないと、えらいことになる。もうここからインドなのだ。

 結局、すべてインド人(エアーインディア)の都合に合わせるしかない、とわかり、成田山に観光に行くことにした。インド人相手では、じたばたしてもしかたない。
 
 実は2人とも成田山は初めて。こんな機会がなければ、一生行くこともなかったかも。

 その日宿泊したホテルでは、夕食のメインディッシュが、ビーフステーキだった。エアーインディアで、帰国しようとしていたインド人も多いはずなので、インド人の食事は別なものかもしれないが、あきれた。

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カルカッタに到着


 翌朝、早い時間にたたき起こされて、空港に向かう。きのうの出発予定時刻は12:20だったが、今日は、それより早い時間に出発しそうだ。免税店でラーダーちゃんに化粧品のお土産を買っていこうと思っていたのに、開店前なので、何も買えなかった。
 
 卒業旅行シーズンなのか、途中のタイまで、学生達が飛行機の中で騒がしかった。無料のアルコール類を次々に注文するが、インド人スチュワーデスは、無視し続けている。いつの間にか、日本人スチュワーデス学生達の専属になって、アルコールを運んでいる。うるさい学生どもが、タイで降りたので、ようやく、インド人スチュワーデスと話すチャンスがやって来た。食事時間のずいぶん前から、「私にはベジセットをくださいね」と、取り入っておく。前もって言っておかないと、日本人にはノンベジの食事しかこないこともある。

 約1日遅れてカルカッタに到着したが、ホテルに連絡しておいたので、迎えの車がちゃんと来ていた。先に換金をすませたかったが、駐車場に止めておけないので…と、運転手に言われ、しぶしぶ空港を後にする。車に乗る前に、2人とも、マリーゴールドの花輪を首からかけられて、思わず苦笑する。
 
 今回のホテルは、8年前に泊まったことのある、古びたホテルだった。植民地時代からのホテルということで、かなり古いので、できれば他のホテルにしたかったが、なんといっても、部屋数が多く、割安なので、予約がしやすい。8年前に比べてもいっそう古めかしくなっていたが、1泊だけだから…と、夫に言い訳する。空港で換金できなかったので、ホテルのレセプションで、換金しようとするが、最高で、$20分までだという。$20だけでは、ここのホテルの宿泊料も払えるかどうかわからない。明日また換金するにしても、今日は外に食べに行かない方がいいかもしれない。ツケがきく、ホテル内のレストランで夕食を取ることにして、比較的早い時間から開いている、チャイニーズレストランに行く。

 実はカルカッタには、中国人がたくさん住んでいて、中華料理のおいしい店もたくさんあるらしい。残念ながら、このレストランの料理は、町の安食堂のチャイニーズと大して変わらなかったが、ビールはおいしかった。『ブラックラベル』という銘柄だったが、『ブラックラベル』には2種類あるらしく、その後、他では、このおいしかった、瓶の色が濃い方には、お目にかかれなかった。
 
 
 翌日は換金、リコンファーム、鉄道予約などなど。カルカッタには2泊する予定だったが、飛行機の欠航のために、到着が遅れ、1日減り、観光する時間はなくなった。

 デリーの東京銀行(当時:現三菱東京UFJ銀行)が、「さすが(インドとは違う)日本の銀行!」と思わせる事務能力だったので、カルカッタでも東京銀行を目指す。ところが、トーマス・クックのトラベラーズ・チェックは換金できないという。結局ホテルに一番近い、アメリカン・エクスプレスで、手数料を支払って換金。鉄道予約も、外国人向けの乗車券予約は、ビルが違うとかで、右往左往した。
 
 とにかく、全ての事務作業が終了したので、お昼はちょっとリッチなレストランへ。このレストランは、ホテルのすぐそばにあるのだが、きのうはインドルピーが手元になくて、食べられなかった。本当は、昼より夜の食事の方がよさそうだが、しかたない。タンドリーチキンやマトンビリヤーニなど、パンジャービー料理を味わう。しかも、ここの水はサイコーに冷えていて、とてもおいしかった!

 インドで使う場合、絶対に忘れてはならない英語がある。それは『チルド(chilled)』だ。冷たい水やビールが欲しかったら、『コールド』ではなく、『チルド』と言わなくてはならない。それを知らなかった私は、砂漠で、20度以上はありそうな、『コールド・ドリンク』を、定価の倍の値段で買ったことがある。
 
 この『チルド』ミネラルウォーター、ラッシーの値段が25ルピーのところを、27ルピーも出したが、この先、これほど冷たいミネラル・ウォーターには、お目にかかることがなかったことを思えば、納得できる値段だった。

 航空券のリコンファームをした後、チョーロンギー通りを歩いてたのだか、ふと気づくとツアー客(夫)がいない。あわててあたりを見渡すと、はるか後ろの方から、「…こんなに暑い中、水も飲ませないで、早足で歩きやがって…」と、恨みがましい顔で、汗だくになってついてくる。急いで、レストランに連れて行って、ミネラルウォーターを注文したが、イマイチ冷えていなくて、ご機嫌ナナメだったのだ。
 定価の2倍近くしたが、『チルド』ミネラルウォーターで、ご機嫌が直れば、安いものである。


 ハウラー駅に到着。ここから、最初の観光地、プリーへ向かう。
 夫は、ハウラー駅のレストランで食べた定食が気にいった様子。たかだか20ルピーだか、25ルピーの定食だが、カレーが2〜3種類と、長粒米、チャパティー、漬け物、スナックなどがついて、たしかにおいしい。これで、「汽車はエアコン付きね!」とぜいたくをいわなければ、いいツアー客なんだけど。

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オリッサ州観光

 
 プリーには、ジャガンナート神を祀る、ジャガンナート寺院がある。ヒンドゥー教の四大聖地のひとつで、インド人向けの観光地としても、人気が高い。普段はベンガル湾に面している、のどかな田舎町だが、毎年7月頃にある、ジャガンナート大祭には、観光客や、地元客でごったがえし、山車の車輪に轢かれて死亡する事故も多く、大変な騒ぎらしい。ジャガンナート神は、クリシュナの別名といわれるが、目だけが大きく、首がなくて、顔の下はすぐ胴体、という変わったデザインで、もともとは、別の神様だったのだろうと思われる。

 プリーではツーリスト・バンガローに宿泊。今まで泊まったことのあるツーリスト・バンガローに比べると、質素で、部屋も狭い。プリーは小さな町なので、夫が望むような、「部屋に冷蔵庫がついているホテル」なんかなさそうなので、がまんしてもらう。でも、ツーリスト・バンガローの裏庭にはプライベート・ビーチ風の砂浜もあるし、観光バスの申し込みもできるし、なかなか便利そう。おまけに、併設のレストランには、バーもある。

 とりあえず、リキシャーを雇って、町中を観光することにした。たまたま雇ったリキシャーワーラーの名前が「ジャガンナート」さんだった。プリーをジャガンナートさんのお導きで観光するなんて、できすぎ。ただ、ジャガンナート寺院自体は、ヒンドゥー教徒以外は中に入ることができないので、見学できなかった。異教徒は、ジャガンナート寺院の向かいに建つ、図書館の屋上から覗くのが精一杯だが、寺院近くを通りかかった時間に、図書館が閉まっていたので、それもできない。まぁ、明日は観光バスで、オリッサ州の有名な観光地をあちこち回るので、いいでしょう。


 オリッサ州観光バスの出発は、翌朝の7時。ふたたびツーリスト・バンガローに戻ってくるのは、12時間後の、夜の7時の予定だ。
 参加者の中で外国人は、我々ふたりだけ。ガイドは、いることはいるが、アナウンスは、オリッサ州の言葉、ウリヤー語と、ヒンディー語だけ。我々2人のために、ときどき英語で話してくれるが、そのほとんどは、集合時間で、観光地の説明ではない。

 オリッサ州のこのあたり、プリー、コナーラク、ブバネシュワルのあたりは、有名な観光地がたくさんあり、観光バスも多い。観光地を見学している間に、バスの停車位置が変わっていることもあったので、どのバスに戻るのか、わからなくなりそうだ。インド人がたくさんいると、みんな同じ顔に見えてくる。置き去りにされないように、他のバスツアー客と仲良くなることにした。

 カルカッタから来たという、新婚風のカップルがいた。こっそり、「ミスター&ミセス・カルカッタ」とあだ名をつけ、お昼を食べる時や、観光するときは、意識的に一緒にいるようにした。おかげで、観光地の説明も、彼らから聞くことができた。同じバスの人も、唯一の外国人である我々が気になっていたようで、ちょっと夫と離れると、すぐに女性の観光客が近づき、話しかけてくれる。私が多少ヒンディー語を話せることがわかり、会話もはずむようになってきた。

 このバスツアーで回ったのは、コナーラクの太陽寺院、ブバネシュワルのリンガラージ寺院、ウダヤギリ、カンダギリという、ジャイナ教徒の僧院跡、など。他にもいくつかヒンドゥー教寺院や、仏教寺院を回ったが、最も有名なリンガラージ寺院は、プリーのジャガンナート寺院と同じく、異教徒は入れないので、我々を含め、数人はバスの中で待っていた。ツアー客の中にも、ヒンドゥー教徒ではない人が何人かいたらしい。

 コナーラクの太陽寺院は、寺全体が24個の車輪の車を引く、7頭の馬を表していて、崩れかかっているとはいえ、すばらしい彫刻だった。かなり大きなお寺だが、これで全てではなく、その昔は、高さ60mもの、さらに大きな本殿が建っていたという。カルカッタの新婚さんは、「当時のハイテク技術を駆使して、猛スピードで作ったので、これだけのものを作るのに、20年しかかからなかったそうです」と教えてくれた。

 バス・ツアーのほとんどは寺参りで、大小合わせ、6〜7か所の寺に行ったが、一番時間を割いたのは、『ナンダンカナン』という、広大な公園だった。ここには、巨大なコンクリート製の恐竜の像があったり、ホワイト・タイガーがいたり、珍しい植物があったりで、ツアー客も熱心に説明を聞いている。ここで、こんなに時間を費やすのなら、コナーラクやブバネシュワルの考古学博物館にも行きたかったなぁ…と思う私には、『ナンダカナン?』な場所だった。
 12時間どころか、13時間以上のバスツアーを終えて戻ると、さすがにぐったりしていた。疲れをいやすために、バーで、ビールなどをいただこう、という話になった。インドでは飲酒が歓迎されないので、私は躊躇したが、疲れ切ったツアー客(=夫)に、そう言われては、おつきあいするしかない。めったに注文する人もいないのか、ツーリストバンガロー併設のバーのビールは、キーンと冷えていて、胃に染み渡るくらいだった。

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添乗員、走りまわる 


 プリーからラーダーちゃんのいるドゥルグに行く汽車が出発するのは、午前6時半頃。遅くとも、6時までには駅に着いていたい。かなり早く起きて支度をしていると、どうも夫の様子がおかしい。

  「…なんか、腹の調子が悪い」
 冷たいビールを2本も飲むから。1本で止めておけって言ったのに。

  「駅に行けそう?」
  「行ってみる」

 不安要素を抱えたままプリー駅へ。出発予定は7時前なのに、例によって大幅に送れているらしい。プラットフォームで待つ間に、夫の容態がどんどん悪くなってきた。

  「…ダメだ。動けそうもない」

 えっ!

 それは大変!

 この汽車しか、ドゥルグに行く方法はないのだ。しかも、この汽車に今日乗らないと、明日は運行していないので、出発は、早くてもあさってになる。しかし、どう見ても、夫は汽車に乗れそうな状態ではない。顔は蒼白で、下を向いたまま、うなっている。

 駅から動かせないと判断した私は、大急ぎで、駅の宿泊施設を借りに行った。

  「夫の具合が悪いので、リタイヤリング・ルームを借ります。汽車は遅れていて、まだ到着していません」
  「マダム、この汽車は、あと3時間もすれば到着しますよ。たった3時間のためにリタイヤリング・ルームを借りるのはもったいない。待合室で休んではいかがですか?」

  リタイアリング・ルームの利用は、原則として、自分の乗車予定の汽車がくるまでの間だ。

  「3時間だけでもかまいません。かなり具合が悪そうなので、ベッドに寝かしたいのです」

 早口で血相変えて頼み込む私に、駅のオフィサルも同情してくれたのか、普段より処理が早かったような気がする。
 スーツケースとバック・パック、リュックサックと、70キロ以上ある夫を抱きかかえ、駅の2階にある、リタイヤリング・ルームに入った。私は半袖なのに、暑がりの夫がガタガタ震えている。

 チョーキーダールと呼ばれる、リタイヤリング・ルームの門番に毛布を頼んだ。
  「ブランンケット?」

 門番のおじさんに、ブランケットという英語は通じなかったようだ。毛布ってヒンディー語で何ていうんだっけ?たしか、kで始まる単語だったよね。そうそう…たしか…。

  「カファン、ください」
 そういうと、おじさんは、目を見開き、眉間にシワを寄せ、口を開けて、一歩下がった。

  「あ、違う。カファンじゃないや。カンバルだ。カンバル ディージエ(ください)」

 『カファン』は、死体をくるむ『屍衣』だった。もうすこしで夫を殺してしまうところだった。

 夫をリタイヤリング・ルームに寝かせ、汽車のキャンセルと再予約に走る。今日乗るはずだった汽車はまだ到着していなかったので、キャンセル料は取られなかった。続いて、あさって出発予定の、ドゥルグ行きの、同じ汽車を予約する。そしてドゥルグに電話。

  「もしもし。夫がプリー駅で倒れたので、今日の汽車に乗れない。明日ドゥルグに着く予定だったけど、明日の汽車もないし、そちらへ行くのは、やのあさってになります」
  「ええ、大丈夫?病院には行ったの?」
  「まだ。今、駅のリタイヤリング・ルームで寝ているの。様子を見てからにしようと思って」
  「お医者さんに見せた方がいいよ」
  「うん。また、電話するね」

 病院といっても、英語で説明しなくちゃけいないと想像すると、ぞっとする。とにかく、ミネラルウォーターを買って、リタイヤリング・ルームに戻った。

  「どう?」
  「ダメだ〜。きのうの海老カレーにあたったみたい」

 海老カレーは私も食べたが、何ともない。12時間以上のバスツアーで疲れているところに、キンキンに冷えたビールを飲んだのがいけなかったのだろう。飲酒を好まない、ジャガンナート様のたたりかも。

 病院行きを想定し、『下痢』だの『吐き気』『寒気』という英単語を調べ、とっさに発音できるように、カタカナでルビをふっておいた。

 とにかく、ひたすら水を飲ませ、トイレに通わせることにした。そうこうしている間に、遅れていた汽車が到着したらしく、門番のおじさんが、知らせに来た。

  「ああ、そうそう。あの汽車はキャンセルして、次の汽車を予約し直したので、まだ、リタイヤリング・ルームにいれますよね?」
 オフィサルに部屋の使用の延長を申し出て、さらに半日いた。夕方になり、ようやく夫が少し動けるようになったので、ホテルに移ることにした。最初泊まったツーリスト・バンガローには戻りたくない、というので、地元に古くからあるホテルに行くことにする。
  「そのホテルはインド人向けですよ。外国人がよく泊まるホテルを紹介しましょうか?」と、リキシャーワーラーがしきりに言うが、病人を連れて、あちこち行きたくない。まっすぐ目的のホテルに連れて行ってもらった。
 
  「夫が具合が悪いので、こちらから何か言うまで、部屋には絶対にこないように」
  高飛車にそう言い捨てて、部屋にこもった。部屋についてからそう言えば良かったのに、チェックインの時に言っちゃったもんだから、4階の部屋まで、またまた夫と荷物を1人で抱えて階段を上るはめになった。階段を駆けおりて、ミネラルウォーターを買い、ついでに、ラーダーちゃんに電話をかけて、宿泊先のホテルの連絡先を伝えた。これでドゥルグ滞在期間は2日間減ってしまったが、しかたない。

 気がつけば、朝から何も食べずに、走り回っていた。私もすっかりくたびれていまい、早々にベッドに入ったが、疲労のせいか、その夜から下痢が始まり、15分に1回はトイレに行く状態だった。

 翌朝になると、夫の様態もほぼ回復していた。どうせ今日もドゥルグ行きの汽車はないし、1日、ゆっくりプリーで過ごすことにした。
 チェックインの時の、高飛車な態度を反省していたので、フロントに挨拶に言った。
  
 「きのうはすみませんでした。日本から来て、プリーに2泊泊まっていたのですが、きのうの朝、出発しようとしたら、駅で突然、夫の様子が悪くなってしまい、あわてていました。ようやく様子も安定したようです」

 そんな話をしているうちに、だんだんうちとけてきた。ラーダーちゃんの結婚用に、ヒンディー語で言うお祝いを教えてもらったり、インドのカレンダーも、ふたつもらってしまった。おまけに、あさっての朝、駅まで、ホテルのバスでタダで送ってくれるという。

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結婚式1日目


 翌日は、ホテルの車でプリー駅へ。定刻に出発してほっとした。ここからドゥルグまでは、ほぼ丸1日。朝方4時過ぎにドゥルグに到着する予定だ。

 日本では、乗り換え時間は、15分もみておけば十分。30分もあると、間がもてないような気がするが、インドでは半日は見ておいた方がいい。一昔前に比べると、ずいぶん時刻表通りに動くようになったが、3時間の余裕をみて、電車を乗り換えようとして、失敗したこともある。
 このプリー駅発の列車も、今日は、始発駅のプリーこそ定刻に発車したが、2つ目の駅、3つ目の駅ともなると、だんだん時刻表の時間とずれてくる。遅れるのはまだいいが、どういう加減なのか、予定より早く着くこともある。日本と違って、始発から終点までは長いので、しかたがないのだろう。デリーやボンベイ(現ムンバイ)やカルカッタ(現コルカーター)までだと、車中で2泊する列車もある。

 乗ってしまえば、じたばたしても仕方ない。ひたすら長い長い乗車時間を、同じ車両の乗客や、コンダクター(車掌さんのような鉄道オフィサル)と話をする位しか、暇つぶしの方法はない。我々が乗ったAC(エアコン)二等寝台車は、寝具(シーツ2枚、毛布1枚、まくら)と、3食付きのリッチな車両。とはいっても、日本人の感覚ではメンテナンスが行き届いていないので、少々汚れた感じだ。エアコンなしの二等車だと、お茶やピーナッツ、弁当など、いろいろな物売りが来て楽しいのだが、半病人には煩わしいだけかもしれない。

 お昼の弁当は来たが、夕食がなかなか来ない。さっき、ベジタリアンかノンベジかと聞かれてから、ずいぶん時間が経った。9時になっても来ないので、さっさと寝てしまうことにする。10時近くに夕食セットを届けにきたが、おなかも本調子ではないし、我々の感覚では、『食べるには遅すぎる時間』なので、せっかくだが手もつけないで、引き取ってもらう。

 朝の4時過ぎに、ドゥルグの隣駅、ライプルから、集団が乗り込んできた。我々の向かいの椅子に何人か座り、我々の荷物を置いてある、椅子の下に、どんどん大量の荷物を押し込み始める。夫は、「これじゃ、降りるとき、出せないぞ」と、仏頂面をしている。

  「あのー、すみません。私たちは次の駅で降りるので、荷物を手前に出しておいてもいいですか?」
 そう、ヒンディー語で言うと、上品な白髪の婦人が、

  「わたくし、英語がわかりますのよ。わたくしたちの荷物は移しますわ」と、隣のコンパートメントに運び出させてくれる。

 こんな風に、ソフトケイトされた物腰のインド人は珍しい。鉄道旅行は、飛行機に比べて、たくさん荷物が持ち込めるからいい、と言う人が多いくらいで、みんな、ものすごい量の荷物を持って移動している。3段の寝台車は、寝台を使う時間が来るまで、上段は荷物置き場になるので、いざベッドとして使うときには、その荷物の置き場で一悶着あるのが普通だ。 


 ドゥルグ駅に着くと、アルジュンおじさんが迎えにきてくれていた。

  「こんなに朝早く、すみません。駅に着いたら、しばらく待合室にいようと思っていたのですが…」
  「何を言うんだ。旦那さんは大丈夫か?」
  「Nice to meet you」
 
 夫は英語で挨拶し、おじさんと固い握手を交わした。

 実はこの日から、結婚式の行事がスタートすることになっていた。それで、この日の2日前にはドゥルグ入りをする予定だったのだが、こういう状況になってしまっては、しかたない。マカーニー家は、結婚式初日の準備のために、早朝だというのに、もう動き出している。 

 インドの結婚式は1日ではない。なんだかんだと、1週間くらい続くらしい。初日の今日は、『婚約式』。婚約式といっても、ラーダーちゃん達は、半年前にすでに婚約はしている。今日は、明後日に控えた、正式な結婚式の前の、正式な婚約式だとか、何とか。ナンダカナン。とにかく、昼前から、お客が押し寄せてくるので、少し寝ておけと言われ、仮眠する。

 ラーダーちゃんの家は、大きな2階建てで、2階には、20畳ほどの広間がある。そこで婚約式をするらしい。昔、ラーダーちゃんの友達のお兄さんの婚約式に、連れて行ってもらったことがあるが、その会場のように、広間にうすい布団のようなものを敷き詰めてある。
 私は、この日のために、マカーニー家が買ってくれた、赤と黄土色の、絹のレースのサリーを着せられた。ずっしりと重く、豪華である。ラーダーちゃんのお姉さん、ニシャーのルビーのピアスを始め、マカーニー家の女達が、アクセサリーをあれこれ貸してくれる。夫はシャツとジーンズのままでいいという。よく見ると、ラーダーちゃんのお父さんを始め、他の男の親族もけっこう気楽なかっこう。ネクタイ締めていたのは、花婿と数人だけだった。

 お客さんが集まり始める前に、ラーダーちゃんの友達が来た。
  「モナ!久しぶりねぇ。覚えている?ラージシュリは?」

 そう声をかけると、モナはびっくりして笑った。

  「やだ!モナだなんて!ラージシュリだなんて!よく覚えていたわね」
  「そりゃあ、覚えているわよ。そのサリーすてき」
 
 モナと4年ぶりだ。ラージシュリもやってきて、ラーダーちゃんの高校〜大学時代の懐かしい仲間がそろったようだ。ラーダーちゃんは、英語で全ての教科を教える学校に行っていたので、友達も全員、英語がペラペラだが、私は少しでもヒンディー語を話したい。モナやラージシュリにヒンディー語で話しかけているうちに、夫にまで、ヒンディー語で「そこに座って」なんて言っていた。


 ラーダーちゃんは、茶色と金色のレースのサリーを着て、額から、耳、首、腕と、びっしり金のアクセサリーを着けている。まるで絵で見た、ラクシュミー女神のようだ。

 普通よく見るサリーは、布を右前下から左肩に掛けているが、グジャラート式では、左側の背中から布を回し、右肩から手前に掛ける。ラーダーちゃんも婚約式には、グジャラート式で着付けた。この着方は、グジャラーティだけでなく、ラジャースタニー、シンディーといった、西北インドの砂漠地方出身のコミュニティーでするらしい。ラーダーちゃん達マカーニー家が住んでいるのは、インドの中央部、マッディア・プラデーシュ州(当時:現在はチャッティ・スガル州に分離した)だが、もともと祖先は、砂漠に近い、グジャラートに住んでいたらしい。

 ラーダーちゃんの旦那様になるアジャイは、背が高くて、がっしりとした、まじめそうな人だった。ラーダーちゃんの家族が、よってたかって、アジャイの印象を私に聞く。
 
  「え、よさそうな人じゃない?まじめそうだし…。だいたい、もう半年以上もつき合っているんだから、みなさんの方がよくご存知なのでは??」

 インドではお見合い結婚が普通だ。最近では恋愛結婚も増えてきたらしいが、宗教やカーストの問題もあるので、基本的には、お見合い結婚。ラーダーちゃんとアジャイも、グジャラーティーのバラモン同士のお見合い結婚だ。でも、マカーニー家はクリシュナ信仰で、アジャイの家は、スワミナラヤンという聖者を信仰しているらしい。ニシャーが、そっと近づいてきて、「あっちの家の人には、『ジャイ・シュリ・クリシュナ』じゃなくて、『ジャイ・スワミ・ナラヤン』って言うのよ」と教えてくれる。

 婚約式自体は、前に見たのと同じように、来客が、カップルに、一口ずつお菓子を食べさせ、額に赤い染料と米粒を付けていく、というものだった。ニシャーが、ラーダーちゃんの隣に座って、額の染料をぬぐったり、食べきれないお菓子を出したりと、つきっきりで世話を焼いている。旦那さん側から、ラーダーちゃんに贈られたサリーを、婚約式の衣装の上から掛けた。この緑と赤の配色の絹のサリーは、婚約式のときにもらうものなのか、おばさん達やニシャーも持っている。アジャイの弟も、日を前後して結婚式をするらしい。アジャイの弟の奥さんになる人から、「私たちの結婚式に来てね」とささやかれる。
 
 お菓子と赤い染料入りの米粒以外に、カップルの額に手を当てて、祝福していく人たちもいる。両手で拳をつくり、カップルのこめかみに軽く当て、舌で「ぐっ」というような音を出すのが、祝福方法らしい。

 お客さんがみんな帰ってから、日本から持ってきた着物をラーダーちゃんに着せてみた。痩せているので、私の着物だと、しわが寄る。でも意外に似合って、すてきだった。もっとちゃんと着付ければ、なかなかのものだろう。長襦袢を省略して、半襦袢で着せたのだが、それでも、サリーに比べると、着物はかなり重かったらしい。
 
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聖紐式


 翌日の行事は、聖紐式。ヒンドゥーの、バラモン(ブラーフマン)、クシャトリア、ヴァイシャの人たちは、死後も別の世に再生する、「再生族」だという。男達は、一定の年齢になると、その再生族の印に、木綿の糸で撚った紐(ジャネーブ)を左肩から斜めにかける。聖紐式は、この紐をかける一種の通過儀礼、成人式のようなものだ。紐は聖紐式で身につけたら、一生はずさない。汚れたら取り替えるが、取り替える時も、半分はずしながら、新しい紐をかける。トイレに行く時など、汚さないように、耳に掛ける、と、アルジュン叔父さんが教えてくれた。最初は3本の糸で縒った紐、結婚後は6本で縒ったものに替えるという。

 ラーダーちゃんのお姉さんのニシャーの結婚の前も、ラーダーちゃんの弟と、従兄弟の1人が聖紐式をした。結婚式で遠くから親戚が集まるので、時期を合わせて聖紐式もやってしまうのかもしれない。今回聖紐式に参加するのは、ラーダーちゃんの年下の従兄弟4人。みんな13〜4歳くらいだろうか。

 ラーダーちゃんの家はジョイント・ファミリーだ。おじいちゃん夫妻には6人の息子と1人の娘がいるが、6人の息子のそれぞれの家族、合計40人弱が、2軒の家に分かれて住んでいる。それで、同じ年頃の男の子達が4人もいるのだ。

 聖紐式が終わった後は、なぜか大ダンス大会。ラーダーちゃんの友達のモナは、「預かって」と私にバッグを渡し、踊りの輪の中に入っていった。呆然と見ていると、おばさんの1人に、「バッグ、私が持っているから、踊ってきなさい」と背中を押される。それでも気後れしていると、70代のおじいちゃんが、おばあちゃんの手をとって、踊り始めた。金婚式も過ぎているらしいが、おじいちゃん、やるなぁ〜。我々夫婦も輪に加わった。

 聖紐式の会場は、明日も結婚式に使う会場で、南インドの神様を祀ったお寺らしい。お寺の敷地内に、ステージのついたホールがあり、宿泊施設もある。ラーダーちゃんの家族は、ふだん2軒の家に住む人数だし、おじいちゃんの唯一の娘であるウマーさん一家もムンバイから来ているので、ドゥルグの家1軒には、とても収まらない。明日の結婚式も同じ会場なので、今晩は何人か、この会場に泊まるという話をしていた。我々は家に戻って、明朝出直すことにした。

 家に戻る前、女達は、メヘンディーをした。メヘンディーというのは、最近日本でも、毛染めによく使われる「ヘナ」という植物性の染料で、結婚式やお祭りなど、おめでたい時に、手のひらを染めるもの。赤く染まった模様は、2週間程度で退色してしまうので、「トゥー・ウィークス・タトゥー(2週間の入れ墨)」と呼ばれていたりする。ヘナを水溶きし、細いチューブからしぼり出して、細かい模様を描いていく。ニシャーは、メヘンディーの名人なので、何人もの手のひらに模様を描かされて、「首がだるい」と言っていた。私の掌にも描いてくれた。色が定着するまで、3〜4時間、ヘナを洗い流せないので、両手が使えないと困る。左手だけにしておいてもらった。

 新婦のラーダーちゃんは、両手・両足。足はつま先から足首の上まで、手は、つま先から肘のちょっと手前まで、掌だけでなく、甲側もびっしりと、プロのメヘンディー・デザイナーに描いてもらっている。ひとりでは何にもできないので、食べ物も口まで運んでもらっているし、立ち上がるだけでも、両脇を抱えてもらいながら、やっとという感じだ。
 後から、インドのことわざで、「メヘンディーをつける=仕事ができなくなる」というのがあるということを知った。

 翌日はいよいよ結婚式。この後、花婿側で主催する結婚式(『レセプション』と呼んでいた)もあるらしいが、インドで結婚式といえば、花嫁側の家で主催する方がメインだ。

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ある結婚式のようす

 
 ラーダーちゃんは朝早くからシャワーを浴びて、プロのメイク屋さんが家に来て、メイクとサリーの着付けをしている。メイク屋さんは、日本のメイクさんが持っているようなメイク・ボックスを持ち歩き、助手を連れてきていた。口紅やアイシャドー、チークは日本と同じだが、ファウンデーションはあまり塗らないようだ。おしろい、というか、パウダーをちょっちょっと、はたいただけ。そのかわり、眉毛の上に、筆で白い点々模様を丁寧に描き込んでいく。これだけ見ているとヘンだけど、後で髪や額にアクセサリーをつけたら、お化粧が映えた。髪の毛はアップに結ったが、耳のわきで、一房くるんとカールさせたのは、あまりラーダーちゃんに似合わない気がする。それにしても美しい。婚約式の時とは、また別のサリーを、グジャラート式に着た。きのう描いたメヘンディーが、サリーとマニキュアの赤と、マッチしている。このくらいの豪華なサリーだと、アクセサリーもジャラジャラつけないと合わない。

 私は、婚約式とは別の、『ガーグラー』という、すその広がったスカートと、上着のスーツを着た。これもマカーニー家が買って用意してくれたものだ。ガーグラーはもともと、砂漠地方の民族衣装だが、これはずいぶんモダンで、日本のパーティーで着てもおかしくなさそう。夫は日本から持ってきたスーツに着替えた。出発前は、ズボンのウエストがちょっときつめだったので心配していたが、プリーで絶食したのが効いたのか、ちょうどよかった。怪我の功名とはこのことか。

 会場は前日と同じ、南インドのお寺のホール。
 会場の前の道(公道)には、結婚式用のゲートが(勝手に)作られている。もちろん公道なので、車を止めるわけにはいかないが、見ると、ほとんどの車が遠回りをしてくれている。

 お客さんが三々五々集まってきて、しばらくすると、花婿の一団がやってきた。花婿の家は、ドゥルグから車で3時間ほど離れたライプルにあるので、バスで集団でやってくる。我々花嫁側は、全員で会場の入り口までお出迎えだ。このとき、花嫁のすぐ下の妹は、頭に壺を載せて、まっさきに花婿側のお出迎えをすることになっているらしい。

 花婿は白馬に乗ってきた!白馬の前後は、お祝いの曲を演奏するブラスバンドや、花婿側の集団。これじゃあ他の車は通れないわ。

 花婿側が到着して、セレモニーが始まった。
 ホールを二分して、ステージに向かって右側に男、左側に女が座っている。夫はヒンディー語を話せないので、私の隣に座らせてもらった。ステージの上では、ヒンドゥー式の結婚式の儀式が執り行われている。儀式を執り行っているのは、聖紐式のときと同じお坊さん。ヒンドゥーは、シヴァ派、クリシュナ派の他に、細かいセクトに別れているので、各家庭に、「かかりつけの坊さん」がいるらしい。このお坊さんは、結婚式でも、ふつうの白いシャツとドーティー(ヒンドゥーの男が腰に巻く布)と、いたってカジュアル。結婚式の公式カメラマンも、ビデオカメラマンもいるのだが、夫がカメラを持ってきたせいか、いいシーンになると、このお坊さんが、「フォトグラファー!」と、写真を撮らせるために夫を呼ぶ。

 ラーダーちゃん側には、おじいちゃんの娘で、ラーダーちゃんの叔母のウマーさん夫妻か、ニシャーが、新郎のアジャイ側には、アジャイの妹の旦那さんが、つきそっている。この、義理の兄弟(ジジャジー)、というのは、儀式では重要な役割を果たすらしく、叔父さん達や、ラーダーちゃんのお父さんより忙しそうだ。

 重要なポイント、ポイントでは、よく見えるように、あるいは、写真を撮るために、我々も壇上に呼ばれるが、基本的には、ほとんどの家族は用もなく、ヒマである。儀式の合間合間に、我々夫婦は、おじいちゃんやマカーニー家の人から、いろいろな人に紹介され続けた。おじいちゃんは、「これが日本の娘のとーこと、その婿だ」なんて言っている。来客は数百人にも及び、誰がどういう関係の人なのか、すでにわからない。ひたすらカタコトのヒンディー語を駆使して、挨拶するだけである。

 ホールは数百人分の椅子の他に、いろいろな屋台が設置されていた。出席人数も多いので、食べられる人から、ビュッフェ式に食事をしていく。もちろんベジタリアン料理だけだが、バライティーに富んで、おいしそうだ。マカーニー家の人たちから、しょっちゅう、「とーこ、ご飯食べた?」と、聞かれるが、「家族は、あとあと」と言って、外交に力を注いだ。

 ちなみに、ラーダーちゃんの結婚式の招待状は、ご両親の名前ではなく、家長のおじいちゃん夫婦の名前で出された。この、招待状がまた、なかなか興味深いものだった。

 マカーニー家はグジャラーティーという、西北インド、グジャラート地方出身の、グジャラーティー語を話すコミュニティに属している。住んでいるのは、マッディヤ・プラデーシュ(=中央州、当時)という、インドのど真ん中にある州で、その州の公用語はヒンディー語。グジャラーティー語とヒンディー語は、ともに北インドの言葉で、似てはいるが、文字も違う。 結婚式の招待状は、グジャラーティー語で書かれたものと、英語で書かれたものの2種類あった。
 
 英語の方は、結婚する2人の名前、親の名前、結婚式、ビュッフェの時間などが、書かれている。

 グジャラーティー語のカードには、結婚式だけでなく、2日前の婚約式、聖紐式のことも記載されている。聖紐式で元服する4人の従兄弟の名前と、それぞれの父親の名前も明記されている。その他、主催者側として、おじいちゃん夫妻の名前の他に、ラーダーちゃんのご両親、父方5人の叔父さん夫妻、唯一の叔母さん夫妻、姉のニシャー夫妻の名、ラーダーちゃんの弟の名前、従兄弟の名前もある。そして、おじいちゃん一家の中で、1番小さな男の孫(ラーダーちゃんの従兄弟)から、「僕たちのお姉ちゃんの結婚式にかならず来てね」という一文と、ニシャーの娘(=一家で1番小さな女の子)からも、「私の叔母さんの婚約式に、きっときっと来てね」というメッセージが印刷されている。婿になるアジャイに対する記載も、英語版より詳しい。関係者がすべてバラモンの商人階級であるためか、おもだった人の名前の前には、「シェート」と、グジャラーティー語で、「商人/富豪」という意味の敬称がついている。グジャラーティー語は、完全に読めないが、結婚式の招待状にはよく書かれている、新郎新婦の学歴が書いてなかった。ラーダーちゃんは、生物学部卒で、英文科修士だったか博士を持っているし、おそらく新郎もそれに見合う学歴だと思うが、書いていない。(その後、もらった、何人かの結婚式の招待状には、必ず学歴が書かれてあった。)

 これはラーダーちゃん側の招待状だが、新郎側は新郎側で、招待状を印刷しているはず。
英語の招待状にもグジャラーティー語の招待状にも、「おめでたく」「始まりに縁がある」、像頭の神、ガネーシャ神の絵が描かれてあった、


 ヒンドゥーの結婚式の儀式には、いろいろあるようだが、布で隠した新郎新婦の手を結ぶもの、お互いにお菓子を食べさせ合うもの、マントラを唱えながら、ギーや香料を火にくべるものなどがある。最も重要なのは、その火の回りを7周歩くもので、これをもって、正式な夫婦となるらしい。中学生だったラーダーちゃんが…と思い、少し涙ぐんでいると、まわりから、「まだまだ、後よ」と、へんな慰められかたをする。

 我々も、「親戚のかため式」に参加した。英語で「セイム・ステータス」と説明してくれたが、新郎新婦の両家で、お互いに見合う立場の人と、抱擁しあい、赤い粉をなすりつけあって、遠慮のない間柄になる儀式らしい。私はラーダーちゃんの「姉」というポジションにいるらしいのだが、新郎のアジャイにはお姉さんがいないので、叔母さんらしき人と、抱き合った。このあたり、説明がないまま、夫も誰かと抱き合い、赤い粉をつけている。
 
  それが済むと、いよいよラーダーちゃんは実家とお別れだ。このまま、ドゥルグの家には戻らず、アジャイ達とバスに乗って、ライプルに行ってしまう。せっかく4年ぶりに会えたのに、一緒にいられたのはたったの3日間だった。花婿に手を握りしめられながら、去ろうとするラーダーちゃんを見つめながら、感慨に浸っていると、あちこちから嗚咽が聞こえてきた。…嗚咽というより激しい。わんわん泣いている。女だけでなく、ラーダーちゃんと仲良しのシャシカント叔父さんも、男泣きをしている。思わず私も、もらい泣きをすると、「思う存分泣け」といわんばかりに、皆、手をとり、肩を抱きながら、一緒に泣いてくれる。「まだまだ、後よ」と言われたのは、おめでたい儀式の最中ではなく、別れのときに泣け、ということだったのかもしれない。

インドは広く、いろいろなコミュニティーの人が住んでいるので、『これがインドの結婚式』とは、いえないかもしれない。とにかく、ラーダーちゃんの結婚式はこんな感じだった。


 一夜明けて、おじいちゃん夫妻の部屋に呼ばれる。そこでは、きのうの結婚式でもらった祝儀袋を開けて、みんなでお金を数えていた。

 祝儀の金額について、日本では、「2で割り切れる数字にしない」とかなんとか言われるが、インドでは、キリのいい数字ではなくて「○○1ルピー」になるように包むらしい。0ではなく、1から新婚生活をスタートさせるという意味だ。さすがは0を発見したインド人。0と1との違いがよーくわかっている。ラーダーちゃんの結婚式では、101ルピーが相場だったらしい。マカーニー家が、私の結婚式用に買ってくれた式服の金額を受け取らないので、少し大目に包んだのだが、アルジュンおじさんの奥さんに、「101ルピーでよかったのよ。おバカ!」と言われてしまう。インドにも祝儀袋がある。結婚式の招待状と同じで、繁栄と始まりの神様、ガネーシャの絵が描かれているものや、お祝儀の1ルピーコインのレプリカがついているデザインが多い。
 
 部屋に呼んだおじいちゃんに、「今日はどこに行きたい?」と聞かれる。ハイキングに行くか?寺に行くか?と聞いてくれるが、正直いって、くたくたである。ドゥルグに来てから、婚約式、聖紐式、結婚式と、ほとんどノンストップ。もちろん、マカーニー家の人も同じだし、我々のようなゲストを歓待するために、かなり忙しかったと思うのだが、みんなタフである。たとえ疲れていても、ゲストをもてなす、というホスピタリティーが身についているのだろう。

  「きょうは家でゆっくり。バーザールに行ってみたい」とリクエストして、商店街に連れて行ってもらうことになった。

 このあたりには、商店街がいくつかあるが、中でも、「オールド・マルケット」と呼ばれる、昔ながらの市場と、「シビック・センタル」という、定価で買えるモダンな商店街が大きい。アルジュンおじさんの長男のゴーヴィンドが、シビック・センタルに連れて行ってくれた。シビック・センタルはきれいで、商人もしつこくないし、定価で買えるので便利だ。でも、インドっぽい珍しいものも、インドっぽいかけひきもないので、ちょっと退屈。しかも、何か買おうとすると、ゴーヴィンドが払おうとするので、面倒くさい。年上の強みで、「あなたが払うと、ショッピングを楽しめない」と言って、ステンレスの小皿などを少し買ったが、さっさと切り上げて、家に戻った。

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ダリーラージャラーの家


 その日は、比較的、ゆっくり過ごした。毎日いろんなことが次々に起こり、ひとりひとりと落ち着いて話すひまもなかったが、ようやく余裕が出てきた。だいたい、夫と話をする時間さえ、ろくすっぽなかった。グジャラーティー語もヒンディー語もさっぱりで、英語力も、私とどっこいの夫は、何が起こっているかもよくわからないまま、つき合わされてきたのだから、さぞかし疲れたことであろう。ドゥルグに着いてからきょうまで、4日間の出来事を、ようやく夫に説明していると、ニシャーが来て、言う。

  「ダリーラージャラーに行くから、2〜3日分の荷物をパッキングして、下に降りてきてね」
  「なんだって?」説明を求める夫に、
  「…これから、もう1軒の家に移動するから、2〜3日分の荷物を用意しろって」と伝え、荷物を詰めながら、
  「もう1軒の家は、ここから100kmくらい離れたダリー・ラジャラーという町で、ラーダーちゃんのお父さん達は、普段そこに住んでいて…」云々、説明をする。2人だけで話せる機会が少ないので、いつも話が途中で終わってしまう。
 
  「なんでそこに行くんだ?」「2〜3日って、何日まで?」と、夫に聞かれるが、私だって知らない。とにかく我々がいるのはインドで、マカーニー家に泊まっているからには、むこうのいいなりなのである。
 
 支度ができて、車に乗り込んだのは、夕方になってからだった。我々の他に、ムンバイから来ているウマーさん夫妻や、ウマーさんのご主人の妹さんなど、普段はいないゲスト一同も一緒だ。ウマーさんは、おじいちゃん夫妻の唯一の娘で、ご主人のラームダースさんは、大事な婿だ。ウマーさんの兄弟たちも、「ジジャジー」(義理の兄弟)と呼んで、大切にしている。どうもこのジジャジー、妹の夫、婿、義理の兄弟というのは、家にとって、とても重要な客であるらしく、ラームダースさんと夫は、ゲストの中でも、最も厚遇されている。そのVIPゲスト2人を含む、ドライブが始まった。

 ドゥルグからダリー・ラージャラーに行く道は、かなりデコボコだ。国道らしいのだが、大半は舗装されていない土の道。時々、相当ぶっ飛ばしていたようだが、道が悪いので、平均時速でいうと、50kmも出ていないようだ。それにしてもプリー以来、おなかの調子も万全ではない我々にとっては、つらい。車は2台出してくれたが、例によって、小型スズキマルチに7人乗りである。でこぼこの道を通るたびに、車体は激しく上下し、頭をぶつけないように、夫は両手を車の天井につっぱっている。私は、せまい車の中で、夫も分も質問ぜめにされ、乏しいヒンディー語力を駆使しながら、なんとか答えるのにせいいっぱい。今までは、ラーダーちゃんがいたので、ヒンディー語よりは、多少使える英語で、受け答えすることができたが、今は質問の意味を確認するのも一苦労だ。もともと英語もヒンディー語もうまくないのに、今回は夫の答える日本語も入り、頭の中は、すっかりごちゃごちゃになってしまった。

 ようやくダリーラージャラーに着いた頃には、あたりは真っ暗。土埃の舞う道を、鉄鉱石を積んだトラックが、あやしくライトを照らしながら走るダリー・ラジャーラーの町を、夫は一目で気に入ったようで、写真をパチパチ撮っていた。私はダリーの人々との挨拶でそれどころではない。おととい結婚式で会ったばかりだっていうのに、なんでこんなに熱い歓迎なんだ…。ダリー・ラージャラーは、ドゥルグと違って、蚊が少ないので、久しぶりにゆっくり眠れた。
 
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子宝祈願?


 久しぶりに熟睡したので、きのうの移動の疲れもとれ、すっきりと目覚めた。ダリー・ラージャラーの家には、おじいちゃんの長男、5男、6男夫婦の家族が一緒に住んでいる。家の表は、車のパーツショップで、メインストリートに面している。家の裏には、新しい家を建築中で、もうほとんどできあがっていた。コンクリートで作った家は、壁にあらかじめくぼみを造って、棚や収納場所にするようだ。屋上で、太陽神を祀るプージャー(お祈り)をして、町をみていると、すがすがしい。メインストリートをのし歩く牛のあとから、牛糞を拾って歩く人が見えた。乾燥させて、燃料にするのだろう。

 そんな風景を見ながら、のんびりしていると、急にまわりがあわただしくなってきた。
 寺参りに行くから、とーこ達も来い、というのでついていく。

 マカーニー家は、信仰心篤い一家なので、おじいちゃんに「日本の娘」と言われた私は、寺参りといえば、何をおいても、一緒に行かなくてはならない。なぜか、ニルマルは行かない、というので、我々夫婦、ウマーさん夫妻と、ニシャーを、6男のナゲンドラおじさんが連れて行ってくれることになった。隣近所の人なのか、スィク教のご婦人も1人一緒だ。寺、というから、歩いていくのかと思ったが、ジープで行くらしい。
 なんだか、あと何時間すると寺が閉まるとか、なんとかいいながら、すごい勢いで、ダリー・ラージャラーの家を出発した。

  「1時までに行かないと行けないんだ」
 
 1時って、まだ10時前よ。いったいどこまで行くの?
 
  「カンケルの近くだ」
 
 と言われても、カンケルというのが、どこにあるのか知らない。とにかく、本当に急いでいるらしく、ナゲンドラおじさんは猛スピードで走っている。おじさんといっても、私より年下なので、何となく弟のような感じだ。デコボコの道をすごいスピードで飛ばすもんだから、車体が大きく上下して、私は頭を、おもいっきり天井にぶつけてしまった。

  「こんなに強く頭をぶつけたら、ヒンディー語を全部忘れちゃうからね!」

 ナゲンドラに思いっきり文句を言いながら、まわりを見渡すと、ライオンや虎の絵の看板が、道のあちこちに立っている。

  「あれ、何?動物園が近くにあるの?」
  「このあたり、出るんだよ。ライオンとかトラが。ゆっくり走っていると危ない」
 
 嘘だ〜い!それじゃ、保護区じゃない!まさか…と思うが、時々、「DANGER」という看板もあるので、とにかく何かは出るらしい。なんだって、そんな所をわざわざ、何時間もかけて寺参りに行くんだろう…。
 
 そんな山道を2時間少し飛ばして、着いたところは、田舎の小さな町だった。我々が行ったのは、お寺ではなく、こざっぱりした大きな一軒家。
 
  「とーこ、朝、シャワー浴びたか?」
  「え、まだ」
  「寺参りに行くのに、なんで浴びていないんだよ!」
 と、ナゲンドラにしかられたが、
  
  「だって、お寺に行くって聞いたのは、出かけるちょっと前だったし、シャワー室、混んでたもん」
 と、口答えをする。私の方が年上なので、ナゲンドラも、強く言えないみたいだ。しょうがないなぁ…という顔をして、
  「シャワールームを貸してもらおう」と言う。
 
 こんな、赤の他人の家で?どうやら、寺参りの前のシャワーは必須らしい。我々日本人は、夜、お風呂に入って、1日の疲れと汚れを落とすが、インド人は、朝シャワーを浴びるのが好きだ。最初は、土埃で汚れた足でベッドに入る気がしなかったが、そもそもインドの安宿では、朝以外、ホットシャワーが出ないことも多い。マカーニー家でも、朝、シャワーを浴びてから、おじいちゃん、おばあちゃんに挨拶することになっている。でも、ダリー・ラージャラーの家には、シャワールームが2つしかないので、今朝はまだ、浴びていなかったのである。
 とにかく、その家でシャワーを浴びさせてもらう。この家のシャワー室は広くて、ちゃんと熱いお湯もふんだんに出て、気持ちよかった。夫ものんきに、「得したね〜」なんて言っている。
 
 シャワーを浴びると、
  「頭に被る布はあるか?」とナゲンドラに聞かれる。
  「え、ないよ」
 
 まったくこいつは…という顔をされるが、そういうことは、連れ出す前に聞いておいてほしい。布ならなんでもいい、というので、ハンカチを頭に載せることにした。

 朝から大あわてで連れ出され、他人の家でシャワーを浴び、頭に載せる布がどうのって、いったい何事なのか…?と不審に思っていると、豪邸の快適な居間から連れ出され、12畳ほどの、ちいさなコンクリートの部屋に連れて行かれる。そこには、文字通り、人がすし詰めになって座っていた。どうやら、部屋の1番前に座っているスィク教徒の男の人が、「グル」(師)らしい。
 
  「あの人がバーバー(おじいさん、という意味の尊称)よ。あの人の前に行ったら、悩みを話して聞いてもらうの」
  「悩み?悩みといってもねぇ…」
  「とーこ、結婚して何年になる?」
  「えーっと、8年目かなぁ」
  「子供が欲しいんじゃないか?」
 
 いや、そうでも…とは、インドではとても言えない。インドでは結婚しただけでは半人前、子供が生まれから、やっと1人前の成人とみなされるのだ。
  
  「そうねぇ。まぁ、いた方がいいとは思うけど…」
  「そうだろう、そう思って、わざわざ連れてきてやったんだぞ」

 そう、ニシャーとナゲンドラが、交互に説明してくれるが、そんなことを聞くのは、ここに来てからが初めてで、ジープに乗る前は一言も言っていなかった。
  
  「え、わざわざ、私たちのために、みんなで来てくれたの?」
  「いや、みんな、それぞれ、悩みがあるしさ。ウマーとラームダースのところも、結婚して12年も経つけど、まだ子供がいないしね」
 
 それならわかるけど。それで、ニルマルは一緒に来なかったんだ。それはいいんだけど、いったいいつまで待つの?全然前に進まないみたいだけど…。
 2時間くらいすし詰めの中で座り続けて、お尻も痛くなり、いいかげんいやになってきた。すると、一緒に来ていたスィク教徒の女性が、急に声をあげた。
 
  「ああ〜。なんだか気分が悪い。きょうはせっかく、ボンベイから人を連れてきたっていうのに…。この人たちは、ジャパーンから来たんですよ…」
 
 うう…、ヘタな芝居である。「ジャパーン」というセリフを聞いて、前に座っている人が、みんな振り返って私たちを見る。すし詰めの部屋に、ぎっしりいるインド人に、一斉に注目されるのって、なんだか恐い。
 しかし、おばさんの芝居が効いたらしく、我々の順番は繰り上げになり、一同、グルに呼ばれた。
  
  「ふんふん、この人たちが、ジャパーンから来た人たちかね?」
  「はい。結婚して8年もたつのに、まだ子供がいないんです」
 ナゲンドラやニシャーが勝手に答えてくれる。
  「名前は?」
  「よがと、とーこです」
 夫の名前は、『よが』にされてしまった。
  
  「ふんふん…それでは、ジャパーンに帰ったら、41日間、毎朝シャワーを浴びた後で、この薬をコップ1杯の水の中に1滴入れて、飲みなさい。その41日間は、肉やアルコールをとっちゃいかん。菜食で過ごすように」

 私は、お礼の「ダンニャワード」という言葉しか言わなかったような気がする。とにかく、その、容器にはいった薬をいただいて、部屋を出た。一緒に来た人たちも、それぞれ、悩みを聞いてもらい、処方箋をもらっていたようだった。
 その後、また豪邸のきれいな部屋に戻り、食事をいただいた。

  「これは、神様の食事だから、汚してはいけないの。食べ始めたら、最後まで残さないで、食べなくちゃいけないのよ」
 と、ウマーさんが教えてくれる。おなかの調子がイマイチの私たちにとっては、それだけでもプレッシャーだったが、チャパティー2枚と野菜カレーが2種類、サラダや漬け物など、おいしく最後まで頂戴した。


 お祈りは終われば、そのまま観光タイム。車でダリー・ラージャラー方向に帰りながら、湖などを遠目に見ながらドライブ。お寺も2カ所ほど立ち寄った。お寺でお祈りをすると、赤いシフォンの布で、金色の文字で神様の名前が書いてあり、縁には金色のビラビラがついた、ハチマキをくれる。そのハチマキを額に巻いて、もう一度お祈りをする。いちいち派手だ。その姿格好や、お寺をカメラで写せ、と、いちいちナゲンドラが言うので、「いやっ。ラーダーのレセプションのために、フィルムを残しておかなくちゃ」と逆らってみる。
  
  「とーこ、ナゲンドラおじさんは、いい人なのよ。ものすごく働き者だし、信仰心も篤いのよ。そんなに怒らないで」
 と、ニシャーにいさめられるが、私だって、文句を言える相手には言ってみたい。毎日、毎日、なんだかわけがわからないまま、どこかに連れていかれ、疲れ果てているのだ。しかもナゲンドラときたら、夫とふたりで話していると、「そうやって、ふたりだけにしかわからない言葉で話すのはよくない」なんて言うのだ!私たちにはグジャラーティー語はさっぱりわからないし、ヒンディー語や英語だって、ほとんどわからない。でも私は、この頭が固いナゲンドラが大好きで、日本に帰ってからも、文通を続けることになるのであった。

 夜は、ナゲンドラの次男の剃髪式。生まれてから、一度も切らなかった赤ちゃん(1歳半か2歳くらい?)の髪の毛を、切る式である。この式にも、ナゲンドラの唯一の女兄弟、ウマーさんと、旦那さんのラームダースさんが重要な役割をするらしい。ラームダースさんは、ムンバイに店を持つ忙しい身なのだが、1週間ほど妻の実家のマカーニー家に滞在して、あれやこれや、いろいろな儀式に参加している。

 翌日は、ダリー・ラージャラーの鉱山へ。採掘場では、女の人もたくさん働いている。サリーを着て、頭に載せたかごに、鉄鉱石を入れていく。ずいぶん悠長な感じだが、人件費の安いインドでは、機械を使うより、安上がりなのだろう。ここでとれる良質の鉄鉱石を、ドゥルグの隣町のビライというところに運んで、鉄を作っている。山中の土が赤い。

  「ほら、石で字がかけるよ」と、ナゲンドラが拾ってくれた石で線を引いてみると、赤いチョークのようだった。
 鉱山に作られた、木材のアートや、公園など、珍しいものをいろいろ見せてもらい、またドゥルグに帰ることになった。

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日本の娘
 

 ドゥルグに帰ると、今日、もうひとつ結婚式に行こうと誘われる。ラーダーちゃんの旦那さんの弟の結婚式だ。ラーダーちゃんの旦那さん、アジャイの妹は、もう結婚して、タンザニアで暮らしている。遠いので、そうたびたびインドに帰るわけにはいかないので、アジャイと弟の、結婚式の日取りを合わせて行うことになったらしい。これからラーダーちゃんとひとつ屋根の下に住むことになる人たちの結婚式だから、顔を出しておきたい気もするが、夫は「いやだ」という。

  「毎日、毎日、わけもわからず、いろいろなところに連れ回され、くたくただ。だいたい、なんでその弟の結婚式にいかなくちゃいけないんだ。招待状ももらっていないのに、行くのは失礼だ」
 
 我々が行けば、マカーニー家の顔が立つ、と説得してみたが、よほど疲れているのか、頑として意見を変えない。ついに、嫁に行ったラーダーちゃんからも出席依頼の電話が来るが、どうしても行きたくないらしい。
 
 それも無理はない。
 もともと夫はインド好きでもなんでもないのだ。インド好きの妻につき合わされて、妻の友人の結婚式に来ただけなのだ。日本だったら、結婚式が終われば、フリーで、のんきに観光でもしている頃だろう。それなのに、毎日、毎日、こっちの都合も希望も聞かずに、いろいろなところに連れ回され、「ふたりだけで日本語で話すな」なんて言われた日には、頭にもくるだろう。

 でも、マカーニー家は、心底、親切心でやってくれているのだ。孫娘の結婚式のために、はるばる遠い国から来てくれた婿が、退屈しないように、一家を挙げて歓待してくれているのだ。日本の娘に子供ができなくて、離婚などされないように、はるばる聖人のもとへお祈りに連れて行ってくれたに違いない。

 両方の気持ちがわかる私は、おおいに困ったが、夫が出席しないで、私ひとりで行っても、参列する意味がない。結局、アジャイの弟の結婚式には欠席することにした。


 後から知ったのだが、アジャイの弟と新婦は、異カースト間の恋愛結婚だったらしい。
 アジャイの家も、マカーニー家と同じ、グジャラーティーのバラモンだが、マカーニー家より、モダンらしい。アジャイの弟の奥さんはの家はスィク教徒だという。スィク教というのは、ヒンドゥー教とイスラム教が融合してできた宗教で、男達は、髪を伸ばし、ターバンを巻いて収納している。日本人が、『インド人』と思う人たちは、たいていこのスィク教徒である。スィク教徒は、もともとパンジャーブ州の出身だ。インド映画などでは、このパンジャービーと、グジャラーティーが対照的なインド人として、よく登場する。パンジャービーは、体ががっしりしていて、『バングラー・ダンス』と呼ばれる、激しいダンス好き。加えて、スィク教徒となると、肉食もOKで、上背もある…というイメージ。一方グジャラーティーは、インドで唯一の禁酒州、グジャラート州に多く住んでいる。そこには、ヒンドゥー教より厳格な、ジャイナ教徒も多く住んでいることもあり、グジャラーティーはヒンドゥーの中でも菜食主義者が多い。マハートーマー・ガーンディー(ガンジー)もグジャラーティーだが、菜食、禁酒、断食の習慣、と、禁欲的で、信仰心が篤い人が多い。そのふたつのコミュニティーの人間が結婚するというのだから、おもしろい。スィクの奥さんが、ヒンドゥー、アジャイ家の、「スワミナラヤン」を信仰する宗教に改宗する形をとったらしい。 


 結婚式に行かないことになり、マカーニー家との間に多少、気まずい雰囲気が流れたが、夫のがまんも限界に近づいているので、ドゥルグから出発する汽車の予約を取りにいくことにした。またまたアルジュンおじさんに駅まで連れて行ってもらう。アルジュンおじさんの息子、ゴーヴィンドも、プネーの大学に帰るので、ついでにおじさんもプネー行きのチケットを買うという。
 ドゥルグの駅は、いつものように混んでいた。乗車券の購入申込書に記入しようと思うが、もう用紙がなくなってしまっていた。かわりに置いてあるのは、わら半紙をA5サイズくらいの大きさに切ったもの。

  「いいか、とーこ、私がプネー行きの申込書を書くから、それと同じように書いてみなさい」
 アルジュンおじさんは、そういって、わら半紙に書き始めた。
  「Dear Station Master, …」
 
 おじさん、それって、乗車券の申し込みというより、手紙じゃありませんか!希望の列車の出発日時、列車名、クラス、人数などを箇条書きにすればいいか、と思っていた私は驚いてしまったが、ここはひとつ、おじさんの言うとおりにしよう。ただ乗車券を買ってくれるのではなく、買い方を教えて、私が自分で買えるようにしてくれるのが、アルジュンおじさんのいいところだ。

  「なんだ、とーこ、ACカーで行くのか?私は、息子には二等車で行かせるぞ」
  「私も二等車で旅行するのは好きですよ。でも、今回は、夫がいるから」

 そう、いいながら、ふたりで窓口に申込書を出す。あいにく、私の希望の汽車は、もういっぱいで、キャンセル待ちだという。

  「とーこ、どうする?そんな、あしたの汽車で急いで行かなくても、もう少しゆっくりしたらいいじゃないか」
  「でも、夫はインドに来るのが初めてだし、タージマハルやデリーも見せたいんです。ウエイティング・リストも8人だけだっていうし、申し込んでおきます」
  「この次の日の電車で、ボーパールまで行って、そこで乗り換えて行けばいいじゃないか。ボーパールからは、シャタブディー急行という、とても快適な汽車で、早く行けるぞ」
  「でも、ボパールの乗り換え時間は、1時間半しかありませんよ。その前の汽車が遅れると、シャタブディーにも乗り遅れて、その日はもう運行がないし」

 私は、時刻表を暗記するほど眺めて、希望の汽車の予約が取れなかった場合の代替案も3つほど用意してあった。インド人とディベートする時は、具体的な数字をあげながら、論理的に説明しつつ、こちらの立場を明確に主張しなければならない。

  「そうかい…。じゃあ、予約がとれなかった場合には、あと1日泊まる、ということにしような」

 このときは、アルジュンおじさんを相手に、私の主張が通ったので、内心「ヤッター!」と叫びたいくらい嬉しかった。3年半前に来たとき、飛行機でデリーまで帰ろうとしたのに、「航空運賃が高すぎる」という理由で、おじさんに、止められたことがあったのだ。あのときは、自分の考えをちゃんと説明できなかった。

  「とーこ、『タンガー』に乗ったことあるか?」
 『タンガー』というのは、乗り合い馬車だ。馬車といっても、ちゃんとした椅子席ではなく、荷台のようなところに乗る。私は、最初インドに来たときに、砂漠の町で乗ったことがあった。でも、夫は経験がない。そういうと、おじさんは、タンガーを拾い、私たち2人だけで乗せてくれた。ポカポカ走るタンガーを2人だけで独占というのも、なかなかいいもんだ。
 
 そんなゆったりした時間もつかのま。夕方には、花婿側主催のレセプションに出かける。ドゥルグから、車で3時間くらいの距離にある、ライプルのホテルでやるらしい。私は、この日のために、はるばる日本から、着物一式を持ってきていた。レセプションはホテルと聞いていたので、そこで着替えるつもりだった。ところが、前にラーダーちゃんに着付けていたのを見ていたおばさんが、「ダメ。キモノって、着るのに、時間がすごくかかるみたいだから、ここから着て行きなさい」という。」
 やだなぁ。またスズキマルチに7人乗りでしょ。帯がつぶれちゃうなぁ。早く着付けられない、自分の着付け能力を恨みながら、着物姿で出発することになった。
 
  「髪の毛、そのままでいいの?」
 おしゃれな娘たちが、気にしてくれるが、どうせ車の中でぐちゃぐちゃになるのは目に見えているので、ナチュラル&ワイルド・ヘアーのままでいくことにする。

 レセプションの出席者が多いので、スズキマルチではなく、ジープで行くことになった。といっても、人数も多いので、すし詰め状態が改善されるわけではない。またデコボコの道を、激しく揺られながら走った。早くも着崩れしはじめている。途中でおじいちゃんが、何だか大声で怒り始めた。他の者はだれも口をきかない。かなり険悪なムードだ。
 もしかして、レセプションの前にあった、アジャイの弟の結婚式に出なかったとこを怒っているのかな。やっぱりまずかったのかな、と、ビクビクしていると、1軒の宝石屋の前に車が止まった。
 帯がぐちゃぐちゃになって焦っていた私は、鏡のある宝石店で、応急処置をすることにした。二重太鼓に結んだ帯が、ジープに揺られて、見るも無惨。まさか、店内で脱いで着付け直すわけにもいかないので、あちこちをひっぱったりするが、どうもうまくいかない。最後は、「どうせ、和服なんか見たことがない人ばかりなんだから、これでよし!」と、覚悟を決めた。

 そんなことをしていると、機嫌が直ったのか、おじいちゃんが、にこにこして、「とーこ、どれにする?」なんて聞いてくる。は?どれって?
 おじいちゃんは、ブレスレットの売り場で、これとこれと、それを見せてくれ、なんて、店員に言っている。

  「とんでもない。サリーもガーグラーも買ってくださったのに、ブレスレットなんかいりませんよ」
 そう、必死に断るが、夫の指の号数まで聞いてくる。実は我々は、ふたりとも指輪が好きじゃないので、結婚指輪も持っていない。そして、指の号数なんか、相手だけではなく、自分のだって知らないのだ。
 
  「日本では、アクセサリーをつける習慣がありません。特に男の人は、めったにつけないんです」と言ってみるが、

  「ここはインドだし、お前はわしの娘だ」とか、なんとか、言って、もうお金を払っている。結局、呆然としている間に、私にはブレスレット、夫には指輪を買ってくれた。
  
  「おじいちゃん、怒ってたんじゃないの?」と聞く私に、
  「レセプションに行く前に、ここに寄って、ふたりに買ってあげたかったのに、渋滞で着くのが遅くなったので、怒っていたんだよ。そんなこと言ったって、車が混んでいるのは私のせいじゃないのに、もう、こうやって、怒られっぱなしだよ」と、耳をひっぱられるまねをして、アルジュンおじさんが、笑いながら教えてくれる。

 そうだったのか。アジャイの弟の結婚式にも出なかった私たちに、わざわざアクセサリーを買ってくれるために、きりきりしていたんだ。おじいちゃんにも、アルジュンおじさんにも、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 レセプション会場は、ホテルの広い庭だった。ステージが設けられて、2組の新婚カップルが立っている。結婚式から3日経って、ラーダーちゃんも新妻らしくなっている。アジャイの弟は、アジャイとよく似ていて、お父さんと3人で並ぶと、三つ子のようだ。
 それにしても、レセプションというのは、それだけ。つまり、会場に新郎新婦の知人が集まり、お祝いを言って、ビュッフェでご飯を食べるだけ。まぁ、日本でも、初詣や法事など、行事というのは、そんなものかもしれない。

 レセプション会場を後にしたのが、夜の11時頃だったと思うが、その後も、ライプル市内の親戚の家を何軒か回った。なんだか、もう、どこに連れて行かれたのかも覚えていないが、ドゥルグに帰って来たのは、深夜3時頃だった。

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オウジョウ(さよなら)!


 いよいよドゥルグを離れる日が来た。キャンセル待ちのAC二等寝台の予約が取れたのだ。

 きのうの深夜、というか、今朝の3時まで起きていたというのに、朝はみんなそろって、お祈り。今日は日曜なので、特別念入りなお祈りをする。マカーニー家は、クリシュナ神を特に熱心に信仰している。仏間、というか、クリシュナ神を安置している小部屋には、厨子があり、毎朝、庭の花を摘んで、花輪を作り、クリシュナ神像の首にかけている。その他にも、庭にはシヴァ神やトゥルシーという、神聖な木の植木鉢、などなど、さまざまな信仰の対象があり、ひとつひとつ、丁寧にお祈りを捧げている。
 クリシュナ神に捧げようと、手折ったトゥルシーの小枝に、「どれどれ」と鼻を近づけたら、おばあちゃんが、「その枝は、とーこが神様より先に匂いをかいじゃったから、神様には捧げられない。他の枝を供えるから、その枝の葉っぱは、とーこが食べちゃいなさい」と言われる。

 神様にお供えをした、ミルクやお菓子、ココナッツ、はなびら、葉っぱなどは、お祈りが終わったあと、『プラサード(さがりもの)』として、食べる。
 家の中の神様だけでなく、近所のお寺にも、あちこちお祈りにいくので、プラサードだけでもかなりの量になる。
 きのうの土曜日は、『ハヌマーン』という、猿のかっこうをした神様の日だったらしい。ハヌマーン神は、独身の男性なので、女性はお祈りに行ってはいけない、ということで、夫だけが、おじさん達に連れられて、ハヌマーン神殿にお参りに行っていた。

 お参りがひととおり済むと、お土産攻撃だ。きのう、おじいちゃんにアクセサリーを買ってもらったのに、他の家族も、何かしら、プレゼントをくれようとする。我々は、ラーダーちゃんの結婚祝いの他は、たいした土産も持ってきていないし、1週間、お世話になりっぱなしだったので、困ってしまう。荷物を増やしたくない、という実際的な問題もある。
 もう、これ以上、何もいらない、と断り続けるが、子供達がくれた文房具セットなど、断ることもできない。夫は、もうひとりのジジャジー、ラームダースさんから、シルディー・サイババという聖人の姿を刻んだ銀の指輪をもらった。私は、プラシャーントおじさんに、ジャラーラームという聖人の指輪をもらった。
 シャシおじさんには、もうこれ以上、荷物がはいらないから、と断ると、「がっかり」といって、身をかがめた。その拍子に、シャシおじさんの胸のポケットからボールペンが落ちたので、拾って渡そうとすると、「僕からのプレゼント」といって、にっこり笑う。なかなかの頭脳プレー。
 几帳面で手先の器用なジャヤデーヴおじさんは、「I LOVE INDIA, I LOVE JAPAN FROM MAKANI FAMILY」と、手製の切り貼りをした、マカーニー家の店の名前のはいったダイアリーをくれた。胸がいっぱいだが、果てしないお土産攻撃に、夫は倒れそうになっている。
 
 日本では、ものを買うのにも会話は必要ない。何かする度に、会話だけでなく、やりとり、受け答え、時には討論さえ必要なインドにいると、人間関係というのは、やはり、会話を通じて成り立っているのだということを、再認識させられる。人間らしい社会、豊かな文化だと思うが、簡略化した人間関係に慣れてしまっている我々日本人には、時間ばかりが気になって、やりとりに疲れてしまうことも多い。

  「とーこ、きのう買ってもらったブレスレットはしないのか?」 と、アルジュンおじさんに聞かれる。
  「汽車の中で落としたり、ぬすまれちゃったりするといやだから、バッグに入れました」
  「とーこ、インド人はそんなに悪い人ばかりじゃないよ。安心しなさい。ラーダーの結婚式にお寺に泊まっただろう?あの時、たくさん高い金のアクセサリーも、たくさん持っていって行ったんだ。部屋に置いて、鍵を掛けるのを忘れていたけど、盗まれなかったよ」

 インド人はそんなに悪い人ばかりじゃない、と言われると、反論できない。1度しまったブレスレットを出して、身につけた。そこへ、アルジュンおじさんの奥さんが、通りかかった。
 
  「バッグにしまいなさい。ちゃんと鍵かけておくのよ」
 

 もう何時間も前から、マカーニー家の人たちと、お別れをしているのに、何人も駅まで送ってくれるという。マカーニー家の家長のおじいちゃんまで、駅に行くというので、恐れ入ってしまった。
  
  「とんでもない。ここでけっこうです。きのうも夜遅くまで出かけていて、みんな疲れているでしょ」
  「娘というのは、神様から預かった大事なものだ。わしが送らないでどうする」


 そう、娘というのは、父親にとっては、自分の子供でありながら、子供ではない。嫁にいくまで、神様から預かった神聖なものなのだという。
 インドでは、年長者に敬意を表すために、年長者の足に触れた指で、自分の頭に触る挨拶をする。我々も、おじいちゃん夫婦には、毎朝、必ずそうして挨拶していたのだが、途中から、おじいちゃんは、私からはその挨拶を受けなくなっていた。
  「お前はわしの娘だ。娘は父親に、その挨拶はせんでもいい」というのだ。

 そんなディープな愛に包まれて、我々はとうとうドゥルグを去り、『タージマハル』で有名なアーグラーへ出発した。オウジョウ(グジャラーティー語で「さようなら」)! また会える日まで。

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添乗員、最後のおつとめ


 ドゥルグからアーグラーまで、約1日、20時間くらいの旅だが、マカーニー家の歓待に、もったいなくも、疲れ果てていた我々にとっては、あっという間だった。おばさんたちが、作ってもたせてくれたお弁当も、車内でおいしくいただいた。マカーニー家特製の青唐辛子の漬け物は、辛いけど、おいしくて、1パックもらったのに、日本に帰るまでにほとんど食べ尽くしてしまった。さめてもおいしい、『テープラー』という、チャパティーに似た、グジャラートのパンもおいしかった。

 アーグラーに着いたのは、夕方。ここに来るのは10年ぶりだ。前に来たときは、タージマハル近くの安宿に泊まったが、今回は、お客様連れ。冷蔵庫のありそうなホテルを探すことにする。
 泊まったホテルは、冷蔵庫どころは、熱いお湯もじゃんじゃん出る、バスタブ付きだった。トイレット・ペーパーだけでなく、ティッシュ・ボックスもある!インドでティッシュ・ペーパーを見たのは初めてだった。たまにはこういうホテルもいいなぁ…。
 でも食事はありきたり。食事は安宿のターリーの方が断然おいしい。マカーニー家の家庭料理の後だと、レストランの食事が、いっそう味気なく感じられる。カタコトのヒンディー語を話すせいか、ホテルのフロントで、「政府関係の方ですか?」なんて聞かれる。

 1泊した次の日は、アーグラー観光。
 前に来たときは、タージマハルしか見ていないので、アーグラー城や、ファテープリー・シークリーといった観光地を回るバス・ツアーに申し込んだ。なんと、このバス・ツアーの半数は日本人だった。さすがはタージマハルのアーグラーだ。はじめにガイドから、バス観光の予定がアナウンスされる。
 
  「ファテープリ・シークリー、昼食、タージマハル、アーグラー城、そしてスーベニア・ショップ」
 スーベニア・ショップ、土産屋!やだねぇ。途中でふけよう…。そんなことを考えながら、ガイドにヒンディー語で話しかける。
  「さっきのお釣り、まだもらっていません」
  「たった10ルピーじゃないか!小銭ができたら返しますよ」
 
 ファテープリー・シークリーは、アーグラーから40kmほど離れたところにある城跡。ムガル帝国の三代目の皇帝、アクバルが、男子を授かったことを感謝して、ここに都を移したが、水の便が悪く、たった14年で、再び遷都したという。骨組みだけの五層の建物、『パーンチ・マハル』や、アクバル皇帝に、「男児が授かる」と予言した聖者の廟などが美しい。城の庭には、女官達を駒に見立てて、チェス遊びをした、巨大チェス盤、パチーシー・コートもある。…こういうことは、ガイドから聞いたのではなく、全て本で読んだ知識。ガイドがちっとも解説してくれないので、聞くと、
  「このあたりのことは、みんなガイドブックに書いてあるよ。英語で説明するより、そっちの方がいいでしょ?それから、日本人観光客は、あなたが責任もって、連れてきてね」だって!
 
 日本人は英語がわからないから、説明するだけ無駄、と決めてかかっている。でも、こんな風に、ガイドと慣れ慣れしくしている私たちに、話しかけてくる日本人観光客などいない。ひとり話しかけてきた人がいたと思ったら、中国の人だった。その人も、私と同じで、「途中でふける」と言っていた。
 
 バスで移動中、食べ終わったみかんの皮を、窓から捨てると、「ちっ」と、舌打ちする日本人がいた。
 そんな顔するけどねー、あなたがするように、いちいちゴミをビニール袋にまとめて、その辺に捨てる方がよっぽど悪いのよ。そのビニール袋を喉に詰まらせて、死ぬ牛が、何頭いると思っているのよ。ここはインドなのよ。無農薬のみかんやバナナの皮は、外に投げちゃえば、牛が食べるか、土に戻るんだから…そう言いたいのをがまんして、2つ目のみかんに着手する。
 
 タージマハルに着くと、ガイドが、「飲食物の持ち込みはできないので、全部バスに置いてきて」という。私が、バスにペットボトルを置きに戻ると、今まで話しかけなかった日本人が、「なになに?なんだって?」と近づいてくる。
  「食べ物、飲み物は、タージマハルに持って行っちゃいけないから、バスの中に置いてくるように、だそうです」
 なんだって、私がガイドの代わりをしなくちゃいけないんだ。らぶらぶ・ナマステ・ツアーの客は1人だけだぞ。

 タージマハルは酸性雨の影響だとかで、少し黄色くなってきていた。10年前は、王と后の、本物の墓が置いてある、地下まで行けたが、封鎖されていた。このあと何年かして、タージマハルの入場料には、外国人料金ができた。一時は、外国人料金は、日本円にして1,200円だか2,400円という、信じられないような金額だったたらしい。最近は、250ルピーにディスカントされたそうだが、我々が行ったときは、まだ、15ルピーだったと思う。
 
 タージマハルの次はアーグラー城へ。ガイドは、ここもさっと通り過ぎようとするが、なかなか見所が多い。小部屋につながる細い階段はおもしろかったし、アーケードの店もゆっくり見てみたい。アーグラー城のあとは、土産物屋に行くスケジュールだったので、我々はここでバスツアーからはずれることにした。


 翌日、アーグラーを出発してデリーへ。これがインドで乗る最後の列車だ。またまた、出発のプラットホームが変更になり、スーツケースをかかえ、駅の構内を動き回った。いらないときには、しつこいくらいのポーターが寄ってくるのに、必要なときに限って、1人もいない。ちゃんと他の観光客には、赤いターバンを巻いた赤帽が、寄ってくるのに不思議だ。

 ニュー・デリー駅に着くと、リキシャー、タクシーがわっと寄ってきた。ニュー・デリー駅には、悪質なリキシャーワーラーにひっかからないように、プリペイド・タクシーがある。デリーの中心部、コンノート・プレースのホテルに予約を入れ、プリペイド・タクシーで行こうとするが、「そんな近くは、その辺のタクシーをつかまえて行ってくれ」と、チケットを発券してくれない。この段階で、デリーに対する夫の印象はすっかり悪くなってしまった。駅からコンノート・プレースまでは1kmくらい。荷物が多いとはいえ、最悪、歩けない距離でもないので、動き出す。おお、懐かしいね〜、このしつこい客引き。考えてみたら、今回は、客引きとのトラブルもほとんどなかった。やっぱり夫と一緒だと、女1人旅に比べて、断然楽である。

 ホテルに着くと、「予約なんか受けていない」と言われる。とにかく、部屋がひとつ空いていたので、そこに泊まることにする。デリーには3泊する予定だが、明日になれば、もう少し広い部屋も空くかもしれない。

 このホテルの中にあるレストランは、グジャラート風の菜食料理が有名で、たしかにおいしかった。これでチャパティーがタンドールでなく、タワというフライパンで焼いてあれば、いうことない。どうもタンドールで焼いたチャパティーはパサパサしていておいしくない。

 デリーでは、ヒンディーの元同級生に会ったり、買い物、観光とのんびり。デリーは、7つの王朝の興亡が繰り返された歴史のある都市で、見所もたくさんある。私も何度か、デリーに泊まったことがあったが、行ったことのない観光地が山ほどある。また安直に、観光バスツアーに参加しようと申し込みに行くと、観光タクシーを勧められる。たしかに2人で行くのなら、1日タクシーを借り切っても、バス・ツアー2人分に比べても、そう高くない。太っ腹のナマステ・ツアーのお客様が、「タクシーがよい」とおっしゃるので、そうさせていただく。

 タクシーの観光はお気楽である。止まりたいところに、いつでも止めてもらえるし、そこでゆっくり時間をかけて、好きなだけ見ていても、ガタガタいわれない。金曜日だったので、モスクなど入れない場所もあったが、能率良く、いろいろな場所を回れた。中でも、『クトゥブ・ミナール』という、外壁にコーラン(クルーアン)に書かれている言葉が彫られている美しい塔と、その敷地内にある、錆びない『アショカ王の鉄柱』、オールド・デリーにあるデリー城、『ラール・キラー』などが、お客様のお気に召したらしい。デリー2日目に食事にお連れしたレストランも、お口に合ったらしく、日本に帰ってからも、「バターチキンが食べたい」とおっしゃっていた。
 
 ところが、デリー最終日に、お客様のご機嫌をそこねる出来事が起こった。
 ガイドブックに、『デリーでも老舗の高級レストラン』と書いてあるレストランに行ったのだが、どうもそこの料理はお口に合わなかったようだ。そこは見るからに高そうなレストランなので、私はそれまで入ったことがなかった。インド料理を注文したのだが、ほとんどが、クリーム・ベースの、もったりしたカレー。プリーで、海老カレーを食べて、おなかを壊してから、すっかりクリームベース・タイプがお嫌いになっていたお客様には、まったく不評だった。

 決定的だったのは、ビールを注文したのに、「ない」と言われたとき。宿泊しているホテルのレストランは、グジャラート式の、厳格な菜食レストランなので、そこではアルコールが飲めない。それでわざわざ外のレストランに来ているのに、ビールが飲めないとは…と、すっかり不機嫌になってしまった。料理をかなり残したまま、「出る」という。ヤレヤレ…。インドで無理に飲まなくなっていいじゃない。だいたいマカーニー家に泊まっていたときは、ひとことも飲みたいなんか言わなかったくせに…。
 しかたがないので、ホテルに帰り、2階にあるバーに行く。

  「今日はデリーはドライ・デーなので、アルコールはお出しできません」

 は?
 『ドライ・デー』? …禁酒日、ですか。
 そういえば、ガイドブックの片隅に、そんなことも、ちらっと書いてあったような、ないような…。

 呆然としていると、バーのマネージャーがささやいた。
  「お部屋にお持ちすることはできますが…」

 2日目から、「デラックス」という、そのホテルでは一番高い部屋に泊まっていたのがよかったのか、ずいぶん気の利いた対応だ。
  「いや…でもドライ・デーじゃ…」と言いかけた私を押さえ、夫がビールとつまみを頼んでいる。いままで、「英語は話せないから」とか何とか言って、すべての交渉を私に押しつけていた夫が、である!

 しばらくして、バーのマネージャーが、新聞紙にくるんだ大瓶のビール2本とつまみを部屋まで運んできた。大枚のチップをマネージャーに渡している夫を眺めながら、(これにて添乗員のお役目御免)と思うのであった。

(終)

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