インド旅行記

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二度あることは三度ある
 2度目のインド旅行から帰ってから、ヒンディー語を習い始めた。
 英語も学校で習ったきり勉強していないので、さっぱりだが、やっぱりインド人と日本人が、英語でしかコミュニュケーションを取れないのはヘンだ。ラーダーちゃんは英語がぺらぺらだけど、家に泊めてくれたラーダーちゃんのおじいちゃんやおばあちゃん、英語を話さない他の家族とも話がしてみたい。とはいえ、日本でラーダーちゃんの母語、「グジャラーティー語」を教えているところなんかなさそうなので、とりあえずヒンディー語を習うことにした。ヒンディー語は、15あるインドの公用語(当時:現在の公用語は18)の中でも、最も話す人が多く、グジャラーティーのラーダーちゃん達も、ヒンディー語が公用語の地域、マディヤ・プラデーシュ州(当時:現在はチャッティスガル州になった)に住んでいるので、全員ヒンディー語がグジャラーティー語と同じように使える。

 今回の目的は、多少なりともヒンディー語で意志の疎通をはかること。それから、ヒンディーの元同級生で、ブッダガヤーで診療所でボランティアをしているI上さんにも会ってきたい。(*登場人物の名前はすべて仮名です)
インド国内線飛行機 寺参り2時間 婚約式に参加
危機一髪! スズキマルチ7人乗り インド鉄道
観光局のおやじ I上さんとの1日 マトゥラー観光
帰路

成田発→デリー

デリー→ライプル→ドゥルグ→アラハバード→ブッダガヤー→マトゥラー→デリー

デリー→成田



 1 デリー
 2 ライプル
 3 ドゥルグ
 4 アラハバード
 5 ブッダガヤー
 6 マトゥラー
 
インド国内線飛行機


 勤め人なので、取れる休暇はせいぜい2週間。それも、夏休みやら、国民の休日、土日をいろいろ混ぜての話だ。日本からの直行便が乗り入れている、デリー、ボンベイ、カルカッタから、ドゥルグまでは、汽車で行けば、どれもたっぷり1日以上かかる。そこで初めてインドの国内線を利用することにした。インドの国内線は、鉄道に比べてぶっ高い(物価が違うのに、ほとんど日本の航空運賃と同じ)うえに、よく墜ちる。インディラ・ガーンディー首相の次男坊も、有名な財閥の跡取りも、国内線に乗っていて命を落とした。
 
  「最近は知りませんが、インドの国内線って、コンピュータ制御じゃないらしいですよ。そのせいで、パイロットの腕は一流らしいですけど」
 
 なーんていう恐ろしい噂も聞こえてくる。でも、飛行機でドゥルグ近くのライプルまで行ければ、単純に計算して、往復2日分の日程が節約できる。そういうわけで、思い切って国内線に乗ることにした。


 デリー空港から、市内行きのシャトルバスに乗り、YWCAに宿泊。明日はライプル行きの飛行機がないので、ここに2泊して、換金やリコンファームなどの事務作業を済ませる。

 それにしても暑い。蒸し暑い。少し歩くと、汗でズボンがべったりと肌にくっつく。私は普段あまり汗をかかないので、この現象は新鮮でもあったが、疲れた。エアー・インディアや銀行、政府観光局などはエアコンが効いていたので、ノロノロしたインドの事務作業も、イライラせず、たっぷり冷房を楽しながら待つことができた。日本で買った1000円のサンダルは、2日目にして壊れてしまう。しかたないので、ジャンマー・マスジッドという、デリー最大のモスクの近くで、10ルピーのゴム草履を買う。白黒の水玉模様。鼻緒の部分の作りが悪く、歩くと指をこすり、あっという間に親指と人差し指がすりむけた。
 
 デリー、ラーダーちゃんの家に電話連絡。おばさんが出たので、ヒンディー語で、「3時の飛行機でライプルに行きます」と伝えたつもりだけど、通じたかな?YWCAに引き返し、荷物を持って、市バスで国内線の空港に向かう。


 デリーの国内線の空港というのは、小さいけどわりときれいだった。カルカッタの国際空港よりは大きい感じ。キオスクやスナックスタンドなどもいろいろある。

 まだまだ出発まで時間があるなぁ〜と思っていると、突然、同じ便に乗るらしい人たちが移動しはじめる。あわてて行ってみると、なんだか、みんな空港の外に一度出て、またすぐに帰ってきている。聞いてみると、手荷物チェック兼、預け荷物チェックなのだそうだ。

 手荷物チェックでは、カメラの中に電池が入っているかと聞かれるので、もちろん、と答えると、抜いて、預ける荷物に入れるように言われる。カルカッタ行きの飛行機に乗るとき、五徳ナイフを取り上げられたので、手荷物は用心していたが、電池もいけないなんて知らなかった。

  「電池もいけないんですか?」
  「ハイジャック予防です」
 時限爆弾に電池が使われることもあるとか。国際空港では、電池を抜けとは言われないのに、ずいぶん厳重なんだな。

 手荷物チェックはこれで終わったが、預け荷物チェックというのはなんだろう。普通、ボーディング・カードをもらうときに、荷物を預け、X線でチェックしているんじゃないの?
  
  「外に出て、飛行機に積む荷物の中に、あなたの荷物があるか、見てきてください」

 他の乗客が外に出ていたのは、そういうわけだったのか!
 外に出ると、「これから飛行機に詰め込む予定の荷物」が、地べたに置いてあった。

  「見ました。ありました」
 これで、目的地に着いたときに、荷物がなくても文句はいえないのだ。

 
 デリーからライプルまでは、ナグプルを経由して、2時間弱。4時頃、食事が出る。ベジタリアン・セットを注文するが、頼む人が多いのか、私の食事はノン・ベジになった。長粒米と、チキンカレー、サラダ、甘いお菓子と、長粒米もついているのになぜかロールパン。ターリーではご飯とチャパティーがついてくるので、チャパティーがわりなのか?量は国際線の夕食と同じくらいたっぷりあった。航空券は、インドの物価に対して非常に高いので、乗っている時間が短くても、食事が出るのだろうか?おいしので、デリーの国内線空港で軽食をとっていたにもかかわらず、ロールパン以外は、ほとんどみんな食べてしまった。

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寺参り2時間


 ライプル空港着。空港というより、公園か庭のようだ。飛行機を降りて50メートルも歩かないうちに、空港の建物があり、荷物もあっという間に出てきた。空港の外で待っている人の顔も見える。
 ラーダーちゃんとアルジュンおじさんだ!

  「アープ セ ミルカル クッシー フーイー(お会いできてうれしいです)」
 ヒンディー語を使ってみたかったのである。
 
  「Mee too.」
 アルジュンおじさんは英語で返して、言った。
  「3時の飛行機だっていうから、3時に1度来て、まだだっていうので、ライプルの親戚の家で、お茶飲んでいたよ」
  「あー、やっぱり私のヒンディー語、通じませんでしたか?」
  「通じたわよ。電話に出たのはミーナ叔母さんだけど、ちゃんとわかったって」
 
 なによりうれしい。
 
  「ライプルにはおじいちゃんの妹の家があるから、そこに行くわよ」

 車で、おじいちゃんの妹さんの家に行くと、ラーダーちゃんのおばあちゃんもいた。ラーダーちゃんのおばあちゃんは白いサリーを着ているので、ドキッとした。未亡人になると、白いサリーを一生身につける、と本で読んでいたからだ。まさかおじいちゃんが亡くなったわけじゃないよね…。おばあちゃんとおじいちゃんの妹は、ふたりでグジャラーティー語のお経を仲良く読んでいた。こうしていると、嫁と小姑という感じはしなくて、実の姉妹のようである。
 
  「私たち、お寺に行くけど、とーこも行く?」
 行きますとも。ラーダーちゃんが行くところは、どこでもくっついて行きたい。

 お寺といっても、コンクリートの壁がむき出しの、20畳くらいの部屋があるだけの建物だった。お寺というより、集会室か?
 お寺参りというのは、日本のように、ちょっと手を合わせておしまいかと思っていたが、実際は、そこに2時間以上もいた。なぜか女性ばかりで、そういえば、歩いて来られる距離だったせいか、アルジュンおじさんもいない。床に、据え置き型アコーディオンのような、ハルモニウムという楽器があり、そのハルモニウムと、小型シンバルみたいな鐘の演奏者だけが、男性である。そこで、演奏に合わせ、2時間、たっぷりお祈りの歌を歌った。もちろん私が知っている曲は1曲もないので、歌いようもないが、2時間聞いているだけというのも退屈なので、歌えそうなサビのところは、意味もわからないまま歌ってみたりした。

 おじいちゃんの妹の家に戻って、おばあちゃんが柄物のサリーに着替えると、次はニシャーの嫁ぎ先。3年前に来たときは、ニシャーはお嫁入り前だったが、あのあとすぐ結婚して、今では1女の母である。

 ニシャーの家は、こざっぱりしたアパートの2階にある。日本の家とは違い、インドの家では、靴をはいたまま家に入る。でも、家族や親しい間柄の人は、入り口で靴を脱ぐようなので、私も靴を脱いだ。靴をはいたままの人もいるのでは、床が汚れるから、裸足の人の足は汚れるのでは…?と思うが、床はたいてい大理石で、しょっちゅう拭き掃除をしているらしい。
 ニシャーの婚家で夕ご飯をごちそうになると、もう夜の10時過ぎ。ライプルからドゥルグまでどのくらいの時間がかかるのかわからないので、心配になってくる。
 アルジュン叔父さんの運転する車で、ラーダーちゃん、おばあちゃんとドゥルグについたのは、真夜中だった。
 
 おじいちゃんは、暑いのか、玄関先に網ベッドを出して寝ていた。もう遅いので、挨拶は明日の朝ゆっくりすることにして、我々も眠ることにする。
 
 3年前にはじめてラーダーちゃんの家に泊めてもらったときは、個室に寝かせてもらったが、今回は、同じ部屋にラーダーちゃんも一緒に寝た。こっちの方が、かえってありがたい…けど、ラーダーちゃんの寝相は、きれいな顔から想像できないくらい悪くて、寝ている間に、足がわたしのおなかの上に乗っかってくるほど。それもまたおかしくて、リラックスしながらゆっくり眠ることができた。

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婚約式に参加


  翌日起きると、ラーダーちゃんが、
  「きょう、友達の婚約式があるんだけど、一緒に行かない?」という。
  「え、私も行ってもいいの?お祝いも何も用意してこなかったけど」
  「平気平気」

 ラーダーちゃんがそういうので、ピンクのインド式スーツ、シャニワール・カミーズを貸してもらって、参加することにする。紫のシャニワール・カミーズを着て、ピンクの口紅をさすと、ラーダーちゃんはびっくりするくらい大人っぽくてきれいだ。考えてみれば、もう21歳の大学生なのだ。支度をすると、おばさんのひとりがやって来て、ラーダーちゃんの髪を結び、リボンをする。みんなおしゃれにはうるさい。

 婚約式があるところは、ドゥルグから車で1〜2時間くらいの『ドンガラガー』という町らしい。バスを1台用意して、ドゥルグから30人ほど、まとまって行く。婚約式ツアーだ。婚約する人は、ラーダーちゃんの友達のボビーの、お兄さんにあたる人らしい。ボビーは、新婚だそうで、よくしゃべり、おしゃれで、にぎやかな、『典型的なインド人女性』(ラーダーちゃん曰く)。ラーダーちゃんと同じくらいの年齢だと思うが、彼女はきれいなサリーを着ていて、会場についたら、また別のサリーに着替えた。

 どうも、インドの女性は、若い頃はシャニワール・カミーズという、上下のパンツスーツ、結婚するとサリーを着るようになるらしい。ラーダーちゃんのお姉さん、ニシャーも嫁ぎ先ではサリーを着ていたが、まだ若いせいか、シャニワール・カミーズもよく着るらしい。

 婚約式の会場というのは、ライプルのお寺を大きくしたようなところで、これまた、集会場という感じ。コンクリートで囲まれた広い部屋に、薄いふとんのようなものを敷き詰め、男女が別れて座る。主役の婚約者達と家族の一部だけは、一番前の席の椅子に座っている。エンゲージリングの交換などがあったかどうか覚えていないが、我々は、2人の側へ行って、彼らに一口ずつお菓子を食べさせ、額に、米粒と一緒に、赤い染料をなすりつけた。婚約者達は、大勢の参列者から食べさせられるお菓子で、相当口が甘くなっているはずだ。額には米粒が張り付き、染料で、ぐちゃぐちゃになっている。

 婚約式といっても、イベントらしいのは、それだけで、あとは食事をとって終了。食事は、野菜カレーが3種類くらいと、豆せんべいのパパド、揚げパンのプーリー、お菓子、ヨーグルトとスープ、天ぷらのようなパコーラなど。順番に食べて、食べるとすぐ席をたち、次の番の人が食べる。宴会ではない。食事をまとめて入れるターリーというお盆が足りなくなったので、ラーダーちゃんは、ラーダーちゃんの隣人、サンギータとひとつのターリーで食べた。中に入る食事は、食べ放題で、なくなれば、どんどん足してくれる。量も多いので、むしろ断るのに苦労する。
 
 ドンガラガーは、ドゥルグほど大きな町ではないらしく、会場の近くにも店もなにもない。「散歩でもする?」といわれ、ブラブラするくらいしか、ヒマの潰しようもない。それでも、ホテルがあったので、みんなでそこへ行ってお茶をのくことになった。

  「とーこは何にする?」と聞かれ、
  「チャイ」と答えると、なぜかみんな笑った。
 チャイなんて、わざわざホテルのレストランで飲むもんじゃない、といった感じだ。他の人は、カンパコーラやリムカといった、インドの清涼飲料水を飲んでいる。
 たしかに、頼んだチャイを飲んでみると、ラーダーちゃんの家で飲むほどおいしくない。そういえば、日本の喫茶店で飲む緑茶というのも、おいしくないなぁ。

 気がつくと、婚約者の妹、ボビーは、全部で4回も着替えていた。
  「ボビー、4回も着替えたわよ!」
  「結婚したばかりだからね」
 
 どうして結婚したばかりだと4回も着替えるんだろう。お兄さんの婚約式だから、バスで会場についてから1回着替えるのはわかるような気がするけど…。結婚するときに、いっぱいきれいなサリーを買ってもらうから、人に見せたいのだろうか?
 
  「お茶代はだれに渡せばいいの?」
  「ボビーの旦那さんが払うからいいのよ」
 妻の兄の婚約式に来た客のお茶代は、義理の弟が払うのか。

 また1時間半かけてドゥルグに戻る。ドンガラガーに居たのは、せいぜい2〜3時間だったし、婚約式といっても、特にイベントがあるわけではなかったが、それでもツアー・バスをしたてて、往復3時間かけて行くのが、インドのつき合いなのだろうか。
 
  「きょうは、友達のラージシュリの誕生日だから、行きましょう」
 ドゥルグに着いたのは、まだ日があるうちだったので、ふたりともドレスアップしたまま、ラーダーちゃんの友達の家に行くことにする。
  「私も何かプレゼントしたい」というと、「高いものはダメよ」といって、雑貨店のようなところで、おもちゃのようなピアスを買う。
 
 インドの女性は、24金や宝石の、驚くほど高価なアクセサリーを持っているが、おもちゃのようなもの普通に身につけている。合金製やプラスチック製の腕輪、ピアスなども、よくしている。「チューリー」というガラス製の腕輪は、壊れやすく、はめようとするだけで、いくつも割れてしまう。未亡人になると、このチューリーというガラス製の腕輪は、はずさなくてはならないと、ラーダーちゃんのおばさんから教えてもらった。
 
 ラージシュリはラーダーちゃんの高校時代のクラスメートで、もうすぐ生物の先生になることが決まっているらしい。ラージシュリはキリスト教徒なので、ノンベジタリアン。
  「ラーダーったら、卵も食べないのよ!」と笑っていたが、ベジタリアンとノンベジタリアンでも、普通に友達になれると知って、安心した。
 
 もうひとり、高校の同級生のモナが来ていた。モナとラーダーちゃんは、高校生のとき、クラスの主席を争う間柄だったらしい。
  「ラーダー、ずっと前に日本に友達がいるなんて嘘だ、っていったのは、モナじゃない?」
 帰り道にラーダーちゃんにそう訪ねると、図星だった。

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危機一髪!


 今回は、カタコトとはいえ、ヒンディー語が少し話せるようになったので、おじいちゃんが嬉しそうだ。とはいっても、おじいちゃんと会話ができるほど話せはしない。だいたいヒンディー語を習っているといっても、ヒンディー語の文法をやりながら、ヒンディー語の短編小説を読み始めたばかりで、会話練習はまったくしていない。日本で、ヒンディー語で話す機会など皆無だ。

 そんなレベルでも、「なますて〜(こんにちわ)」、「あーぷ かいせー へん?(ご機嫌いかがですか?)」、「だんにゃわーど(ありがとう)」、「ふぃる みれんげー(またお会いしましょう)」と声に出すと、たちまち笑顔が返ってくる。
 
 はっきりいって、マカーニー家のオウムの方が、私よりヒンディー語が上手なくらいだが、『ヒンディー語を話す外国人』を他の人に紹介するのは、おもしろいらしい。おじいちゃんの知り合いの家に連れて行ってもらったときは、いつもはムスッと、家長の威厳300%のおじいちゃんも、ずーっとニコニコしていて、私もはりきって、知っているかぎりのヒンディー語を披露した。
 グジャラート州はインドの中でも唯一の禁酒州である。グジャラート州出身の、『グジャラーティー』のバラモン階級は、肉食や飲酒は決してしない。そのグジャラーティーのバラモンである、マカーニー家の家長が、雑食でアウトカーストの外国人を家に泊めて、家の食器で食事をとらせるというのは、そうないことかもしれない。

 この頃、日本では北海道で大きな地震が起こり、インドの新聞にも載った。ヒンディー語の新聞を見せてもらうと、『ヨッカイドーで、大地震』とある。あわてて、東京の夫に電話をかけるが、東京は影響なし、とのことで、一安心。

 帰りの飛行機の予約をするためにライプルに連れて行ってもらう。同行者は、車を出してくれるアルジュンおじさん、ラーダーちゃん、ラーダーちゃんの妹のスシュミタ。
 先日、ライプルからドゥルグまで車で3時間もかかったので、わざわざ連れて行ってもらうのは、申し訳ないような気がするが、アルジュンおじさんが、ちょうどライプルで仕事の用もあるから、というので、厚意に甘える。実際、あそこまで1人で行くのも大変そうだ。

 ライプルで、何件か知り合いの店や家に立ち寄る。仕事の相手先は、スィク教徒の同業者、車のパーツ屋さんだった。
 スィク教徒の男性は、みな髪を伸ばし、ターバンをしている。名字は全員「スィン」。ただし、全員「スィン」さんでは、わかりにくいせいか、いただいた名刺には、スィンのあとに、もうひとつ名字がついていた。アルジュンおじさんは、こちらの名字で呼んでいる。
 スィンさんの趣味はコイン収集。私も日本のコインを提供した。5円玉や50円玉は穴があいているので、外国人には好評だ。
 スィンさんが、おもしろいものを見せてくれた。『Japanese Government 発行の1ルピー札』。ありえなーい!偽札だ!…とその時は思っていたが、インパール作戦など、日本軍がインド独立軍と接触していた時期もあるので、もしかすると、一種の軍票かもしれない。

 スィンさんの庭でとれた完熟マンゴーをごちそうになり、水力エネルギーを利用して、貯水ポンプの上に作ったゲストハウスなどに案内されたあと、レストランでランチをとることになった。
 ラーダーちゃんの家族とレストランでご飯を食べるのは初めてだ。アルジュンおじさんは、これを食べろ、あれも食べてみろ、家じゃみんなチーズカレーが好きじゃないから、作らないけど、パニールカレーも食べてみろ、と、たくさん注文してくれる。食べきれないから…と言うが、後で大変な目に遭うこともわからず、けっこう食べてしまう。


 ようやく国内線の航空会社、インディアン・エアーラインに連れて行ってもらったのは、夕方の5時半頃だった。なんとか開いていてよかったが、あと30分ほどで閉まるだろう。

 ところが、ライプルからデリーへ行く飛行機の航空券の値段を聞いて、アルジュンおじさんがびっくりしてしまった。
  「とーこ、帰ろう。そんな値段を払うことはない。高すぎる。おまけに、外国人はドルで買わなくちゃいけないっていうし、ルピーで払うより、いっそう高いじゃないか」
 
 そうなんですよ。私も高いと思います。でも、そう何日もインドにいられないし、これでデリーまでいけば、ずいぶん時間の節約になるんです…と、言いたいが、うまく説明できない。アウアウ言っている間に、インディアン・エアーラインから、引っ張り出され、車に連れ込まれてしまった。

 …だって、この予約をしに、わざわざライプルまで連れてきてもらったのに!これは私の旅行だし、高いけど、こっちの方が便利だよ!
 
 車の中で、そう抗議すると、
 
  「じゃ、また明日ライプルに来るか?」と聞かれ、がっくりする。また予約を取るために、往復6時間もかけてライプルに連れてきてもらうなんて、できない。1日中、出歩いていた肉体的な疲れに加え、思い通りにならなかったという精神的な疲れのせいか、おなかの調子も悪い。妙におなかが張って、ズボンがきつい。車に酔ったのか、むかむかする。
  
  「ちょっと、車に酔ったみたいなので、外に出てもいい?」
 そう言って車を降りると、急に激しい便意がおそってきた。

  「トイレー!

 そんなこといったって、この辺にはレストランもホテルもない。インドでは、外でトイレを見つけるのは至難の業だ。こんな激しい便意は初めてだ。トイレがないなら、茂みだってかまわない!という、私の必死の形相を見て、ラーダーちゃんも、一緒に来ていたラーダーちゃんの妹のスシュミタも、あわてて、付近にある家のドアをノックし始めた。そんな、まったく知らない人がノックしたって、ドアなんか開けてくれるはずがないよ…。あきらめて、おなかを押さえてしゃがんでいると、アパートの2階の家がドアを開けてくれた。
 ラーダーちゃんが家主に、早口で説明している。家主の完全なOKも待たずに、私はトイレに駆け込んだ。
 
 ふー、助かった…。
 
 現金なもので、出すものを出してしまうと、すっきりして、けっこう元気が戻ってくる。ああ、恥ずかしい。家主にお礼をいいながらも、しょげている私を、普段は寡黙なスシュミタがなぐさめてくれた。
  「ときどきは、そういうこともあるわよ」

 トイレを貸してくれた家は、たまたまラーダーちゃんの知り合いの家だったのだろうか、それとも、単に親切な人だったのだろうか。

 そんなこんなで、すっかり夜。まっすぐドゥルグまで帰っても、10時過ぎになってしまうが、『とーこ係』のアルジュン叔父さんの接待は続く。もう私はぐったりしているが、お寺やら、いろいろなところに連れて行ってくれる。夜なのに、ライトアップして、開いている観光地があった。『3つの世界』という名前の一種のお寺で、天上、人の世、地獄を表す、3階建ての建物だ。 地獄じゃなくて、他のものだったかも。とにかく、心身共にヘロヘロに疲れていたので、説明も半分しか聞いていない。
 そんな観光地に寄ったりして、ドゥルグに戻ったのは、またまた夜中の12時過ぎだった。

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スズキマルチ7人乗り


 ドゥルグに着いた頃から、下痢気味だったが、きのうのライプル行きで、すっかり弱ってしまった。何も食べたくないし、何か食べるとおなかを壊す。ほとんど食べられなくなった私を心配して、おばあちゃんは「普段食べ慣れている、肉を食べさせに、レストランに連れて行ったらどうか」などと話している。話せないが、話していることは、ときどきわかる。「とんでもない。きのう家のご飯じゃなくて、ライプルのレストランで食べたから、おなかを壊したんだと思う」てなことを言って、養生させてもらう。

 飛行機の予約が取れなかったので、鉄道で行くことにする。デリーに帰る前に、ボードガヤーでボランティアをしている友達にも会ってきたいし、ちょっと観光もしたい。マカーニー家の人たちに、ボードガヤーからデリー方面で、お勧めの観光地はある?と聞くと、アラハーバードと、マトゥラーを推薦してくれた。両方、ヒンドゥーの聖地だ。
 アラハバードは、ボードガヤーの手前にあるので、まず、アラハバードまでのチケットを買うことにする。出発日はあさって。

 ドゥルグから出発する汽車の予約を済ませると、ラーダーちゃんのお父さん、お母さんの住む、ダリーという町に移動。ダリーはドゥルグから100kmほど離れた小さな町で、もう1軒、マカーニー家の家がある。こちらの家には、おじいちゃん夫妻の長男で、ラーダーちゃんのお父さんである、ブラジさんと、おじいちゃんの5男、6男の、それぞれの 家族が住んでいる。ドゥルグにも何軒が店があったが、ダリーにも2〜3軒、車のパーツを売っている、店があるようだ。ダリーの店の方が古いらしい。
  
  「ダリーの店の店長は、ブラジさんなのですか?」とブラジさんに聞いたら、苦笑しながら、
  「おじいちゃんだよ。みーんなおじいちゃんの店」と答えていた。

 ダリーは、正式には、ダリー・ラージャラーという町らしい。鉄鉱石が出る山が付近にあり、我々も、ハイキングをしに行った。ダリーでは、ハイキングをしたり、八百屋さんに買い物に行ったり、のんびりとした1日を過ごしたが、行き帰りの車中は大変だった。
 
 ダリー・ラジャーラーには、おじいちゃんの4男、プラシャーントおじさんの運転するスズキマルチで行ったのだが、乗車したのは7人。プラシャーントおじさんの奥さんと、子供が2人、おばあちゃんとラーダーちゃんと私。後ろの座席に、おばあちゃん、ラーダーちゃん、私、前に、プラシャーント叔父さん、小さな子供を抱いた奥さん、もう1人の子供は、前と後ろの席の間のすきまにいる。ドゥルグからダリーラジャラーまでは、でこぼこの山道を3〜4時間走るが、途中でおばあちゃんが「横になりたい」と言ったからさぁ大変!後ろの座席におばあちゃん1人に提供し、ラーダーちゃんと私は、前に移動。ぎゅうぎゅう詰めの上に、我々の膝の上には、子供が乗ったり、移動したり…。
 
 インドでは、年長者のいうことは絶対なのである。
 一応私は、「外国の特別ゲスト」として、VIP扱いをされているが、ご飯を食べる順番は、おじいちゃん、おばあちゃんの後。ときどき、特別に、おじいちゃんやおばあちゃんのお相伴をさせていただくが、私が1番最初に食べるというのは、それ以外ではありえない。泊まる部屋も、ダリーでは、おばあちゃん以外の他の女の人と一緒。ひとつのベッドに、子供を入れて、4人くらい一緒に寝た。

 たった1泊だが、ダリーに行って、ラーダーちゃんのご両親や、他の家族に会えてよかった。ラーダーちゃんのお父さんのブラジさんは、スリムなハンサム、お母さんは、ふっくらとして、顔は、6人の娘の中で、スシュミタが一番似ている。こうして見ると、ラーダーちゃんはお父さん似かな。

 ドゥルグに帰り、金のピアスやTシャツなど、いろいろなお土産を買ってもらう。ハンカチや夫用の男物シャツなども。日本にもある、というのが、日本の物価を聞いておどろいていたのか、インドの方がずっと安いから、みんな持って行きなさいと、詰め込んでくれる。こんなに親身にしてくれてた人たちに、私はどうやったらお返しができるのだろう、今度はいつ会えるんだろう、と思うと泣けてきて、10歳も年下のラーダーちゃんに、「とーこ、リラックス、it's OK」と、なだめられる始末。


 ドゥルグからアラハバードへ向かう電車は、初めてAC(エアコン付き)つき、二等寝台車を利用することにした。これは、今まで乗っていたどの電車より高い。二等の椅子席に比べると、6〜7倍の料金だ。同じ距離を鈍行で行けば、二等の椅子席はもっと安くて、急行の半額ほど。7月とはいえ、ドゥルグはそんなに暑くなかったので、エアコンは必要ないのだか、エアコンなしの一等車両(AC二等より安い)は、この電車にはなかった。 指定の座席に行ってみると、マカーニー家も顔見知りの、中国系インド人の歯医者さんが同じ車両だった。

  「ああ、ドクターも一緒でよかった。この子はアラハバードまでなんですが、よろしくお願いいたします」
 そういって、アルジュンおじさんは、電車が出発するぎりぎりまで、ラーダーちゃんと一緒に、ついていてくれた。習ったばかりのグジャラーティー語で、「オウジョー!(さよなら)」と、挨拶し、いよいよお別れだ。

 ドゥルグは、ソ連の協力で作られた鉄鋼工場があるので、ロシア人がたくさん住んでいるらしいが、中国系の人に会うのは初めてだった。歯医者さんは、インド生まれで、家では中国語を話すが、漢字の読み書きは全くできないそうだ。
  
  「これ、マカーニー家でいただいたのですが、ひとついかがですか?」と、インド風の弁当を出したが、
  「インド料理はスパイシーすぎるので、あまり好きじゃなくて。そのバナナを1本ちょうだい」とのことだった。

 中国語の読み書きもできないし、ヒンディーもペラペラだけど、食べ物や生活スタイルは、中国風を維持しているのかもしれない。

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インド鉄道


 電車の中で1晩過ごし、アラハバードには午前中に着いた。これなら、今日中に観光して、ボードガヤーに行けるかも…と、町に出る前に、汽車の予約を済ませることにする。窓口を見ると、長蛇の列。二等窓口、一等窓口と書かれてあるので、二等の方に並ぶ。そういえば、たしかインドでは、女性は並ばなくてもよかったはず…。以前、窓口に並んでいたら、わざわざ、「女性は列に並ぶ必要がない」と、紙に英語で書いて知らせてくれた人がいた。
  「女性は列に並ばないで、チケット買ってもいいんですよね?」と、前に並んでいる男性に聞いてみたが、強い口調で、
  「ダメ」と言われてしまった。
 しかたがないので、30分くらい並んで、ようやく窓口にたどり着いた。

  「寝台車の人は、二等の窓口じゃなくて、一等の方に並んでください」と、いわれる。
  「でも、私は、二等の、寝台車に乗りたいんです」
  「寝台車の人は、二等も一等も、AC車も、一等窓口です」
 
 そんなこと、どこにも書いていないじゃない。アラハバード駅のローカル・ルールなのだろうか。だいたい二等窓口の乗車券販売係は、英語もよく話せないようだった。インドでは英語も公用語のひとつなので、駅のオフィサル(officer)で、英語がうまく話せないというのは珍しい。

 インドは、全土に6万キロ以上の線路網が広がっている、鉄道王国だ。しかし、そのシステムは複雑怪奇、インド人も駅で右往左往している。
 線路は幅によって、3種類に分かれており、当然、その上を走る汽車もそれぞれ違う。
 乗車券は、汽車の種類にもよるが、二等座席車から、AC(エアコンつき)一等寝台車まで、7等級に別れている。最も安い乗車券と、最も高い乗車券の値段は、15倍ほどの差がある。一番高いAC一等寝台車は、急行にしかないが、同じ距離を各駅停車で行くとすれば、乗車券代の差はなんと25倍である。
 私がインド旅行で利用したことがあるのは、一番安い、各駅停車の二等席(ベッドなし)、急行の二等寝台車、一等席、AC二等座席、AC二等寝台の5種類。AC二等寝台車には、寝台が2つのものと3つのものがあるらしいが、AC車両では上下2つの寝台車だった。エアコンなしの二等寝台車は、ベッドが3段である。

 現在では、インドの97%の駅で、乗車券の発券はコンピュータ化されているらしいが、私が最初旅行した時には、ほとんどが人力だった。わら半紙に印刷された申込書に、出発駅、行き先、電車の名前と号数、出発日、乗車希望の車両などを記入して、窓口で予約する。そのわら半紙の申込書があればまだいい方で、ない場合には、同様の内容を手書きで書いた紙を出す。もちろん、記入する筆記用具は自分で持参する。

 窓口では、A4版より大きめのノートを開き、乗車希望の席が空いているか確認し、新たな予約を書き込んでいく。そのノートも、なぜか罫線のないものが多く、運悪く新しいページの最初の予約客だったりすると、オフィサルがノートに罫線を記入するところから待たなくてはならない。外国人旅行者はパスポートナンバーも記入するので、1人の乗客に対し、数分かかる。インド国内の1日の乗降客数は、約1,400万人だというから、大変な作業である。

 デリーかカルカッタ、ボンベイなどの大都市では、外国人旅行者のために、別に予約窓口があるので、比較的スムースにチケットが取れるが、他のローカル駅では、だいたいこんな感じだ。
 
 予約が取れたら、自分が乗る汽車を探す。日本の駅のように、どのプラットホームから出発するか、あらかじめわかるとは限らない。出発予定のプラットホームが突然変更になることもあり、その度に荷物を担いで、動き回る。
 
 出発駅の場合は、停車している時間に余裕があるが、途中駅の場合は大変だ。自分の希望したクラスの車両に張り出されている、予約表リストに、自分の名前が書かれているか、いちいち見て回らなくてはならないからだ。外国人の名前はアルファベットで書かれているが、なにぶん手作業なので、よく間違っている。日本の電車のように、プラットフォームに、○○号車停車位置なんて書いていないし、車両にも、○○号車とは明記されていない。
 
 そのうえ、インドの車両は、完全に独立していて、1度乗ってしまうと、隣の車両には、中から行けないのだ。日本人の知り合いが、乗る車両を間違えて、乗り込んだとき、車掌に見つかって、車両から追い出されたという。彼の予約車両には、行くことができないので、彼は次の駅に着くまで、荷物を持って、汽車の連結器の上に立っていたそうだ。

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観光局のおやじ


 とにかく、一等窓口に並び直して、ボードガヤー近くの鉄道駅、ガヤー行きの乗車券を手に入れた。当日の予約で、寝台車の予約もできたので、ラッキーな方だろう。さっそく、ボードガヤーでボランティアをしているI上さんに電話する。
 
 …このインドの公衆電話というのもなかなかやっかいだ。イギリスと同じで、かけて相手が出てから、コインを入れるのだが、コインを入れてからかける、というタイプのものもある。おまけに、コインを入れたのに、繋がらない上に、コインも戻ってこない場合も多い。そのせいか、コインタイプの公衆電話は比較的少なく、電話交換手に頼んで繋いでもらうことも多かった。この時は、1台目の電話は、「貯金箱」。お金を入れても繋がらないし、お金も戻ってこない。2台目でようやく繋がった。

 I上さんは、ボードガヤーの日本寺に併設された診療所で、ボランティアの看護婦さんとして働いている。日本寺なので、スタッフの何人かは日本語も話せるらしい。ガヤーに着くのは、朝の4時頃なので、リタイアリング・ルームか待合室で寝て、朝になったら、ボードガヤーに行くから、9時か10時くらいになる、と伝える。

 さて、ガヤー行きの汽車は、アラハバードを夜出発するので、日が暮れるまでの間しか時間がない。能率良く見て回りたいが、観光バスなどはあるだろうか。州営のツーリストバンガローに、UP(ウッタルプラデーシュ)州の観光案内所があるらしいので、行ってみる。

 マカーニー家の人々が、私に観光地として、アラハバードとマトゥラーを推薦したのは、ヒンドゥー教の聖地だからだろう。アラハバードは、ガンガー(ガンジス川)とヤムナー川、そして目には見えないが、伝説のサラスヴァーティー川という、女神の名前がついた3つの川が合流している神聖な場所(=サンガム)とされている。 

 UP州政府経営のツーリストバンガローで、アラハバードの地図をもらう。

  「夜の列車の予約をしたので、それまで、半日観光したいのです。観光バスか、タクシー、または観光ガイドを紹介してくれませんか?」
 そう聞くと、受付に座っていたおじさん職員が、
  「私が案内しましょう」と言う。

  「えーと…。これから、夕方までの観光で、料金はどのくらいになりますか?車かオートリキシャーで移動したいのですが…」
 
  「全部私にまかせなさい」
 と、いわれ、いやな予感。インドでは、最初に料金交渉をしておかないと、面倒なことになる。この人は、州営ツーリストバンガローの職員だから、そう疑ってばかりいたら、悪いだろうか?でも、ジョードプルのツーリストバンガローの職員にも、切手代をだましとられたし、ジャイプルでも、ボールペンが欲しいとか言われたもんなぁ。

 多少、疑問も感じながら、ドゥルグでたっぷりインド人のやさしさに甘えていたばかりなので、インド人を信用し、おじさんと観光に行くことにした。オートリキシャーで町に出るとすぐ、おじさんは、手を振って、誰かを呼び止めた。
  「これは私の甥っ子だ。私はあまり英語ができないので、甥っ子を案内につけよう」

 観光局の職員なのに、英語が不得意?まぁ駅の窓口にもそういう人がいたけどね…。甥っ子といわれる人は、外国人は珍しいのか、一緒に行くのは、とても嬉しい、がんばります!といった感じで、なかなか印象はサワヤカ。

 アラハバード町中には、ネルー元首相の邸宅、アーナンドバワンや、博物館、考古学博物館などがあるが、リキシャーの中から、「あれが、アーナンドバワン、あれは博物館」というだけで、降りて観光はしない。サンガム(川の合流点)近くに着き、ようやくリキシャーを止めた。
 
 おお〜、本当だ。ガンガーとヤムナーのふたつの川が合流しているところは、はっきり色が違う。ガンガーはちょっと泥色っぽいかな。ヤムナーは水色。サンガムは、ところどころエメラルド・グリーンだ。どうして、川の交わっている場所が神聖なのかはよくわからないが、それぞれ女神の名前がついている川だから、2本(サラスヴァーティーも入れると3本)あれば、ありがたさも2倍なのかもしれない。
 
 サンガム付近の寺院に入り、額に吉祥のビンディー(赤い染料でつけた点)をつけてもらう。お布施はツーリストバンガローのおじさんが出したようだ。
 サンガム付近にはお城もあるが、また、「お城」と教えてくれるだけで、中には入らない。りっぱな城壁が長く続く、大きそうな城だ。中には入れないのだろうか。
 そのあと、また数カ所の寺参りをする。いちいち甥っ子がついてきてくれるが、あまり観光の役には立たない。

  「これがハヌマヌーン神で、これはヴィシュヌ神。隣はヴィシュヌの配偶者でサラスヴァティー」
  「え、サラスヴァティー(弁財天)は、ブラフマーの奥さんでしょ。ヴィシュヌの配偶者はラクシュミーじゃない?」
  「あ、そうそう。そうでした。詳しいですね〜」
 と、ヒンドゥー教の知識は私以下。名前からすると、ヒンドゥーなのだが、若い人はこんなものなのだろうか。案内は甥っ子にまかせて、おじさんは、寺に入ろうともしない。

 遅めの昼食も取ったし、観光ガイドは役に立たないし、そろそろ日も傾いてきたので、駅に戻りたい。
  
  「きょうは、どうもありがとうございました。そろそろ駅に行きますので、ガイド料金をお支払いします。おいくらでしょうか?」

  「時計が欲しい」

 はぁ?なんじゃそれは。ガイド料金なんて、車付きでも数十ルピー、どんなに高くても100ルピー以下(当時)だろう。時計って、いったいいくらするんだよ。

  「…時計ですか。日本製の時計の方が上等ですよ。日本に帰国したら送りましょう」
 高い時計を買わされるのはいやなので、逃げようとしたが、敵もなかなかしぶとい。

  「私の時計はこわれて、今欲しいんだよ。これから買いに行こう」

 冗談じゃないよ…と頭に来たが、日は暮れ出すと早い。とにかく、真っ暗になる前に駅に着きたいので、駅まで送ることを条件に、時計屋に行った。
 おじさんの選んだ時計は800ルピーだった。800ルピーのガイド料だなんて、ばかげている。しかし、ここでネチネチと言い争いをしていると、ますます日が暮れていく。荷物を担いだまま、地理もよくわからない暗い町で、自力でリキシャーを拾って駅まで行くのと、800ルピーとを秤にかけた。
 …800ルピーのガイド料をぼられるのは悔しい。これはガイド料ではない。2,400円のタクシー代なのだ。日本円に換算して、ようやく覚悟を決めた。

 時計屋を出てから、暗い町で拾えたのは、オートリキシャーではなく、サイクルリキシャーだった。リキシャーを拾ってもらえば、駅までおじさんについてきてもらう必要もないのが、「時計を買ってもらったお礼に」、最後まで送ってくれるつもりらしい。痩せたリキシャーワーラーのこぐ自転車に、大人3人の客はきつい。だんだんリキシャーのスピードが落ちてきたので、甥っ子をおろす。ツーリストバンガローのおじさんは、駅に着くまでの間、隣でずーっとささやいていた。

  「次にくるときは、日本製のカメラを買ってきてくれ。わたしはいつでもツーリストバンガローにいるからな」

 よくガイドブックに書いてあるような手口にひっかかり、我ながら、自分のバカさ加減にあきれた。気分がくさくさする。800ルピーといえば、前にカルカッタで泊まったホテルの料金と同じ。あのホテルは、熱いお湯もじゃんじゃん出るバスタブがあったし、ウエルカムドリンクと、果物もあって、いくら食べても後から請求されなかった。なんたる失態!1度は日本円に換算してあきらめようとしたが、ルピーで考えると、実に惜しい。

 腹は立つと空くものである。おじさんたちと遅めの昼食を食べたが、また夕飯を食べた。駅の食堂の定食というのはなかなかいけるのだ。おなかが満たされ、プラットホームで飲料水を水筒に詰めると、落ち着いてきた。

 駅というのは、何かと便利なところだ。水道をひけない貧しい家庭も多いインドでは、安心して飲める飲料水が、24時間出るというだけでも、大変なことだ。ちなみにインドでは、蛇口から出る水が飲めるとは限らない。飲める水の出る場所には、わざわざ「ドリンキング・ウォーター」と書いてある。インドでは飲料用の水を売る商売もある。たいていは、自分で汲んできた飲料用の水に、小さなレモンを添えて売っている。アラハバードの駅には、ドリンキング・ウォーターの水道に場所を取り、レモンを付けて売っている水売りがいた。もちろん、駅の水道水は、構内にいる人は、誰でも無料で汲めるので、それで商売するのはへんだ。でも、水売りが牛耳っている場所では水が汲みにくいので、わざわざ別のドリンキング・ウォーターの水道から水を汲んだ。

 水だけではない。駅には、菜食・非菜食の食堂もあるし、大きい駅なら宿泊施設もある。待合室にはトイレやシャワー・ルームもあって、電車を待つ間に、さっぱりすることもできる。化繊のサリーだと、駅で洗って、汽車を待つ間に乾かすこともできるという。インドの鉄道は24時間動いているので、駅のプラットフォームもだいたい電気がついている。大都市でも夜が暗いインドでは、24時間、電気がついているだけで、かなり心強い。乗車券ないと、駅には入れないことになっているが、どこからか、入り込んで、駅で生活をしている人も多い。プラットフォームでおしっこをしたり、煮炊きをしている人というのも、よく見かける。

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I上さんとの1日


 夜中の4時にガヤーに着くので、車掌さんに起こしてもらうように頼んで、寝台の上段で寝る。3段式の寝台車では、一番上が一番楽だ。寝台券を持っていても、朝の6時から夜の9時までは、座席として使うことになっているので、下段と中段の人は、なかなか横になれない。中段のベッドは収納式で、他の乗客や荷物をどけて、ベッドを出さないとならないので、ベッドを出したりしまったりする時は、同じ車両の客同士で、協力し合わなければならない。そのせいもあって、二等車両で隣り合わせた乗客とは、すぐに仲良くなる。

 ガヤー駅についてプラットフォームに降りると、大きな声で名前を呼ばれる。
  「とーーこーーさーーん!」

 驚いて、あたりを見渡すと、むこうのプラットフォームに、I上さんがいる。あちゃー、リタイアリングルームで夜が明けるのを待つ、と言ったのに、迎えに来てくれたのか…。

  「すみません。こんなに朝早くから」
  「いいのよ。知り合いに車を出してもらったから、行きましょう。荷物それだけなの?」
 I上さんは、お寺のスタッフの人の運転するバンに乗せてくれた。

 I上さんのインドからの手紙には、「インドに来るとき、とーこさんがくれた垢すりは、とても重宝しているが、ネズミにかじられてボロボロになった」と書いてあったので、I上さんへのお土産は、ナイロン製の垢すり2本。そんなしけたお土産を喜んでくれたうえに、北インドではめったに飲めないブラック・コーヒーを入れてくれる。I上さんもコーヒー好きなのだが、コーヒー豆がなかなか手に入らないので、ときどきカルカッタまで行って、仕入れるそうだ。自分で焙煎をして、コーヒーミルは寺の大工さんに作ってもらったとか。ミルの部分だけ日本だけ持っていって、取っ手や引き出しのついた、箱を作らせたらしい。コーヒーミルとせんたく板の写真を見せて、同じ作ってくれ、と頼んだだけで、作れる大工さんというのもすばらしい。ただし、写真を見せただけで、サイズについては言わなかったので、コーヒーミルも洗濯板も、かなり大きなものになってしまった。洗濯板は、日本製の3倍くらいの厚みで、かなり重いので、据え置き型として使っているそうだ。

 日本人の巡礼者が定期的に来るので、梅干しや味噌など、なかなかインドでは手にはいらないものがある。私もインド人コックさんが作ってくれたみそ汁や、日本米のあたたかいご版をごちそうになった。
 
 日本人の巡礼者というと、前回カルカッタに来るとき、同じ飛行機に乗っていた、坊さんの集団が、飛行機の中から宴会を始めていたのを見ていたし、カルカッタの娼館に通う坊主もいる、と聞いていたので、あまりいい印象はなかった。でも、I上さんのいる日本寺にいるお坊さんはまじめらしく、女性のI上さんとは、決して顔を合わせないように、時間帯を分けて暮らしているらしい。

 前回、ボードガヤーに来たとき、各国の寺はみんな見たので、今回は、I上さんについて、ボードガヤーの村の視察に行くことになった。I上さんは、近郊の村を見て回り、井戸など、付近の衛生環境を調査しているという。きょうは、歩いて1時間ほどの村へ行ってみようという。ボードガヤーは、各国の寺があるところが一番にぎやかなあたりだが、そこさえ、小さな村だ。少し歩けば、店も食堂もまったくない。壁に牛糞を丸い形にして貼り付けて、干している家があった。

  「この辺では、牛糞を燃料にしているの?」
  「ガスも来ているんだけど、チャパティーは牛糞で焼いた方がうまい、といって、こっちも使っているみたいよ」

 I上さんは、日本からボードガヤーに来てすぐ、熱射病で倒れたことがあるといって、頭からすっぽりタオルを被っている。私ももちろん帽子を被っているが、ボードガヤーは暑い。雨期のはずだが、ドゥルグのように雨が降っているわけでも、デリーのように蒸し暑いわけでもなく、日本の真夏のように、カラッと、日差しが強い。

  「とーこさん、水飲まないわね〜」
 そう、言われて気づき、村からの帰り道に、チベットレストランで水分を補給することにした。どうも私は、汗もかかないし、水もあまり飲まないらしい。ドゥルグでも、しょっちゅう、水を飲め、と言われていた。

 お釈迦さまが、苦行を止めて、沐浴をしたニーランジャナ川に着いた。前回来たときは、12月で乾期だったので、川は乾いていたような気がする。今は水がたっぷり流れ、おじいさんが1人、洗濯をしていた。記念に川をバックにI上さんを撮っていると、おじいさんもいつの間にか、フレームに入っている。おじいさん1人の写真も撮ってくれ、という身振りをするので、撮ると、手を出して、モデル料を請求する。
 
 「おじいさんが、撮ってっていったんじゃない!」I上さんと、ふたりで笑って、そういうと、おじいさんも照れ笑いをして、洗濯に戻った。インド人にありがちな、『ダメモトで言ってみた』パターンだったようだ。

 もっとも、ダメモトで頼んでみたインド人の言うことを真に受けて、日本から重いラジカセを運んできたり、家に遊びに行ったり、時計を買ったりしている日本人がここにいるのだから、試してみる価値はある。

 またガヤー駅まで送ってもらい、次の目的地はマトゥラー。
 ガヤーから直接マトゥラーに行くより、デリーまで急行で行って、折り返す方が早そうだ。でも、今日の今日なので、電車がない。このラージダニー急行だと、デリーまで、ひとっ飛びなんだけどな〜。
 ラージダニー急行や、シャタブディ急行は、インド鉄道が誇る豪華な超特急で、食事もついている、と聞いていたので、ぜひ乗ってみたい。

 窓口で座席がない、といわれたが、「エクストラ・マネーを多少はらう用意がある」と伝え、ステーション・マスタル(駅長)室へ案内される。エキストラ・マネーというのは、ずばり賄賂である。駅長は、例の変形A4版のノートを広げ、「席は本当にいっぱいなのだよ…」と、言いながらも、あちこち調べてくれる。結局、途中までAC二等車の椅子席に乗り、列車内のコンダクターに接触し、寝台が空いたところで寝台車に移るということで話がついた。エキストラ・マネーは、電車の中で払え、という。ということは、このステーション・マスタルは賄賂を受け取らないんだ。
 
 AC二等の椅子席に乗り込んだ。ラージダーニー急行には、AC一等、AC二等しかないので、これが1番安い席だが、豪華な椅子席で、日本の新幹線のようだ。乗っている人も、パリッとしたビジネスマン風。これなら、最悪寝台が取れなくても、なんとか眠れそうだ。
 途中で、寝台車に空きが出たので、移る。椅子席と寝台車の差額と、エキストラ・マネー分の50ルピーを払うと、10ルピー札と間違えて、100ルピー札でお釣りをくれた。インド人はがめついようで、抜けているところもある。エキストラ・マネーの分もあるので、一瞬、黙っていようかと思ったが、返したら、大あわてだった。
 
 寝台車は、車両の一番はしで、寝台は2つだけ。私の下段の人は、カルカッタからデリーまで行く、ベンガル人のワーキング・ウーマンだった。ラージダニー急行の乗車券は高いが、カルカッタからデリーまでわずか16時間で行けるし、荷物がたくさん持ち込めるから、飛行機よりいい。私は重要な仕事をしているので、会社が高価な乗車券代を負担してくれる、と話していた。

 ラージダニー急行急行がデリーに着くと、その足でマトゥラー行きの列車に乗る。デリー=マトゥラー間は、急行で1時間半ほどの距離で、日に何本も出ているので、指定席をとるほどでもない。エアコンなしの一等車に乗ったが、わずか1時間半の間に、5回も検札に来たので、ゆっくり横になることもできない。

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マトゥラー観光


 マトゥラーはクリシュナ神の聖地。

 ヒンドゥー教では、ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌが、三大神とされているが、庶民に人気があるのは、シヴァとヴィシュヌで、シヴァ派とヴィシュヌ派は、ヒンドゥー教の二大勢力である。ヴィシュヌは、イノシシ、亀、魚など、10の異なった形に変わるが、クリシュナはその中でも、『ラーマヤナ』のラームと並び、最も人気が高い、少年の形をした化身である。素性を隠すために、牛飼いの家で育ったクリシュナには、わんぱくな少年時代の逸話がたくさん残されている。一方、インド最大の叙事詩『マハーバーラタ』では、最高神の化身の、賢者「クリシュナ」として登場する。とにかく、ヒンドゥー教徒の中では、まちがいなく人気No1の神様で、マカーニー家がもっとも信仰している神様だ。
 ヒンドゥー教の挨拶は、「ナマステ」「ナマスカール」というのが、一般的だが、クリシュナ神を信仰するマカーニー家では、「ジャイ・シュリ・クリシュナ(クリシュナ様バンサイ)」と、挨拶する。
 マトゥラーはそのクリシュナ生誕の地とされている。

 ヴァラナシーを流れる川がガンガーで、シヴァ派の聖地であるように、マトゥラーを流れる川はヤムナー川で、クリシュナ(ヴィシュヌ)派の聖地であるようだ。シヴァ派とヴィシュヌ派の合流点が、アラハバードのサンガム。つまり、サンガムはハラハリ(半身がヴィシュヌで半身がシヴァ)なのか…と、少ないヒンドゥー教の知識を、かき集めて考察してみる。

 マトゥラーの観光案内所は、とても親切だが、余分な地図すら置いていない。欲しかったらコピーしてくれるというので、頼むと、コピー代に2ルピー取られた。

 マトゥラー川のほとりに、ドワルカデシュ寺院というのがあり、毎夜、お祈りをやっているというので、そこから近いホテルにチェックインする。ホテルの回りを散歩してみると、マカーニー家の母語である、グジャラーティー語で書かれた看板もたくさんある。このあたりでは、ヒンディー語が話されているらしいが、グジャラーティーも、たくさん訪れるのであろうか。

 クリシュナの生誕地とされている、クリシュナ・ジャンマーブーミーへ行く。生誕地を記念して、バグワット・ヴァワンという、大きなお寺が建てられていた。ここへはカメラやビデオの持ち込みはできなくて、入場前に手荷物もチェックされる。インドでは右が左より神聖とされているので、ご神体を中心に、右肩が近づくように、時計回りで回る。お祈りをした後、プラサード(神様のさがりもの)のお菓子などをいただく。マカーニー家で、何度も寺に連れて行ってもらった私は、すっかりヒンドゥー作法にも詳しくなっていて、他の外国人観光客にレクチャーできるほどだった。
  「プラサードを受けるときには、右手の手のひらが上にくるように両手を重ね、押しいただくんですよ…」

 無事にマトゥラーまで来たので、マカーニー家に報告のはがきを書き始めるが、アラハバードの一件を書いていたら、長くなってしまい、はがきが2枚になってしまった。安心させようと書き始めたのに、だまされて時計を買わされたことなんて書いちゃって、ちょっと反省。

 ホテルに戻ると、他の日本人客がいた。夜になったので、彼と誘い合わせて、ドワルカデシュ寺院に参拝。ものすごい熱気だ。わりと大きなお寺だが、入り口にも人がたくさんあふれている。寺に入る前に履き物を預けるのだが、私のぞうりは、デリーで10ルピーで買ったもの。めんどうなので、入り口にぬぎっぱなしにしたまま参拝する。お祈りが終わり、出てくると、私のぞうりはあったが、もう1人の日本人客のぞうりは見あたらない。

  「しまった!盗まれたか!」
  「預けなくても、盗まれないゴムぞうりもあるのに、不思議ですねぇ」
  「僕のは、タイ製なんです。ほかの、粗悪なインド製のと違って、鼻緒の作りがいいんですよ〜」
 
 たしかにインド製のゴム草履は粗悪で、鼻緒ふきんの指はあっという間にすりむけた。最近ようやく、新しい皮が出てきて、インド製ぞうりに適応してきたところだった。
 しかたがないので、彼はぞうりが買える店にいきあたるまで、しばらく裸足で歩いていたが、インドの聖地ではそんな人も多く、違和感はない。
 ホテルで一緒に夕飯を食べることにする。このあたりは食堂も少ないので、夜はホテルの食堂くらいしか食べるところがない。ビールを一緒に飲まないかと誘われるが、断る。クリシュナの聖地で、一人旅をしている女が、男と酒を飲んでいる、なんていうところを見られたら、売春婦と思われてもしかたがない。ホテルにお湯をもらい、日本から持ってきたモン・カフェを飲む。
 
 翌日は、早起きをして、クリシュナの育った町、『ヴリンダーバン』へ。乗り合いバスで、マトゥラーから30分ほど。乗り合いバスに外国人はひとりもいない。ヴリンダーバンに着いてみると、お寺があちこちにあるが、住宅もかなりある。ボードガヤーのように、お寺がまとまってあるのかと思っていたが、住宅のわき道をぬっていくので、地図なしで、寺巡りをするのはなかなか、大変そうだ。バス停の付近に地図でもないかな…と、思って探していると、1人のインド人が声をかけてきた。

  「ガイドいる?」
  「あなたガイドなの?」
  「まぁね。50ルピーでどう?」
  「50ルピー?高いなぁ」
  「30ルピー」
  「20ルピー。英語話せる?」
  「もちろん」
 簡単な会話なので、英語力はあやしかったが、20ルピーで雇うことにした。

 ヴリンダーバンには、4,000ともいわれるヒンドゥー教寺院がひしめいているらしいが、ほとんどは、ほこらのような小さな建物で、住宅地の中に紛れ込んでしまっている。大きなお寺は9つほど、中でも重要なお寺は5つ、ということだが、案の定、ガイドはほとんど英語が話せないので、詳しい話はわからない。私の怪しいヒンディー語と、彼の怪しい英語で、かろうじて会話が成り立っている状態だ。

 『重要な寺』と彼がいう、いくつかの寺にいくと、各国の寄進者の名前が書き連ねてある。床のタイルのひとつひとつに、寄進者の名前が焼き付けてある寺もある。日本人の名前と、$200と、寄進額が書いているものもあり、ガイドも寺の坊主も「寄付、寄付」と言うが、英語もヒンディー語もわからないふりをする。『バクティ』と呼ばれる、熱心な女性信徒が、ひたすら祈っている寺もある。ほとんどトランス状態で、クリシュナのおっかけみたいだ。
 
 ガイドが連れて行く先々の寺で、「寄付、寄付」と言われるので、すっかりいやになってしまった。ひとまわりして、バス停に戻ってきたので、20ルピーを渡すと、 「50ルピーだ」という。
  「あなた、英語話せなかったじゃない」
 
 そうヒンディー語でいうと、テレ笑いをして、20ルピーを取った。またしても『ダメモト』で言ってみたのだろう。
 
 ホテルに引き返し、荷物を持ってチェックアウトすると、ちょうど、きのうの日本人旅行者もチェックアウトしたところだった。私は鉄道のマトゥラー駅からデリーに行くが、その前に博物館に寄っていくというと、彼も、バスでアーグラーに行く前に、博物館に行くところだという。

 マトゥラーの考古学博物館は、小さな町にあるにもかかわらず、すばらしい仏像のコレクションで有名だ。ホテルから1kmほどのところなので、歩き始めたが、彼の荷物は重いのか、すぐにギブアップした。
 
  「リキシャーで行きましょうよ。僕がリキシャー代を出しますから」
 
 考古学博物館は、しずかな落ち着いた所だった。テラコッタの仏像を壊さないようにか、荷物は入り口に預け、身軽になってゆっくり鑑賞できる。
 なるほど、さすがに展示物はすばらしい。歴史の教科書に写真が乗っていた、クシャーナ朝の、首がないカニシカ王の象もあった。首はないが、三角形に広がったカニシカ王の服は優雅で、美しかった。グプタ様式とよばれる、ふっくらした。のどかな表情の仏像も、なんだか心が安らぐ。ヒンドゥー寺院にある象は、凹凸もはっきりしている顔立ちに、いろいろな色で彩色したものなので、久しぶりに、こういう仏像を見ると、落ち着く。問題なのは、英語で書いてある説明が読めないこと。ふたりとも英語力はどっこいで、辞書がないと、よくわからない。辞書は、入り口で預けた荷物の中。

  「worshipって何ですか?」
  「何でしたっけ?お祈りじゃないですか?」
  「お祈りはprayですよ。僕は戦争と関係があると思うんだけど…」
  「戦争はwarですよ〜」
 
 と、はなはだ低レベル。ただし私は仏教大学卒業なので、多少の仏教説話は覚えているし、彼もなかなか詳しい。
 
  「仏陀は、青年期の鬱症だったので、出家しちゃったという説もありますよね」と言うと、
  「そうやって、歴史上の人物を意味なく診断しちゃうのってハヤリですよね」と、やんわりたしなめられる。

 たしかに、青年期の鬱症だとか、食中毒で衰弱死したとか、という話題が似つかわしくないほど、平和な表情のお釈迦さまだった。マトゥラーはクリシュナの聖地だが、この考古学博物館には、ヒンドゥー教の像より仏像が多く、いいな、と思う像のほとんどは仏像だった。

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帰路


 彼はアーグラーを目指してバススタンドへ、私はデリーに帰るために鉄道駅に向かった。ところが、汽車が急に欠便になったいうので、私もバスで移動することにした。

 マトゥラーからデリーまで、汽車だと1時間半、バスだと3時間半くらいかかる。途中で降りればよかったのだが、終点のオールド・デリーのカシミーリ門まで行ってしまったので、そこから、タクシーを拾って、ニュー・デリーのYWCAまで行く。マトゥラーからデリーまでのバス代が30ルピーちょっとだったのに、オールド・デリーからニュー・デリーまでのタクシー代が50ルピーだった。多少ぼられたとは思うが、当時、コンノート・プレースというところから、ニュー・デリー駅まで、約1kmで10ルピーくらいだったような記憶があるので、アンバサダーのタクシーで、4kmだとすると、定価に近かったと思う。それにしても、もったいない。

 デリーの中心部には、YMCAがひとつ、YWCAが2軒ある。このYWCAは、すぐ側に東京銀行(当時:現東京三菱銀行)もあり、1番便利な場所にある。はじめて泊まったが、もうひとつのYWCAより大きくて、食事もちょっとましみたいだ。ツーリストバンガローやYWCA、MCAには各国の旅行者が集まるので、旅の情報交換にもいい。私がチェックイン手続きを待っていると、日本人の若者がふたりやって来た。
 
  「ついさっき、タイからインドに着いたばっかりなのですが、参りました。インドは厳しいっすね。もう日本に帰りたいけど、フィックスの航空券を買っちゃったので、あと2週間帰れないんですよ〜!」
  「空港からここまでで、何かありました?厳しいのは都心だけですよ。マトゥラーとか、ちょっと地方に行くと、平和ですよ」
  「インドでどこか他に行く気力がないっす。ここに2週間泊まって、帰国便を待ちます!」

 それはそれで大変そう…。YWCAの職員も、賄賂やチップも要求するし、安ホテルとちがって、自分の鍵がかけられるわけじゃないから、そうじなんかで、部屋には職員も出入りする。2週間、がんばってね、と心の中でつぶやいた。

 デリー市内から国際空港に行くバスを待つ間に、風船売りの男の子が近づいてきた。

  「マダム、バルーン、ワンルピー」
  「ダメよ〜。これから日本に帰るんだもん。風船なんか飛行機に持ち込めないわよ」
  「大丈夫、持って行けるって」
  「ダメダメ。飛行機の中でバンっていって破裂しちゃったら、ハイジャックだと思われちゃう」

 めちゃくちゃなヒンディー語を混ぜながら話をしていると、風船売りの男の子は、いつの間にか隣に来て、座り込んだ。

  「マダム、日本から来たの?」
  「そう。もう帰るんだけどね」
  「きょう、帰っちゃうの?」
  「そうなの。空港に行くバスを待っているところ」
  「バス、あれだよ」
 
 そういって、男の子が指さしたのは、小さなバン。いつものシャトルバスとは違う。
  「えー、あれ?あのちっちゃいの?違うでしょう」

 でも、そのバスだった。風船売りの男の子が教えてくれなかったら、乗りそびれていたかもしれない。ちょっとだけでもヒンディー語が話せるようになってよかったかな〜と思った一瞬だった。

(終)
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