インド旅行記

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「友を訪ねて三千里」
 2回目のインド行きの目的は、前回、知り合った人に再会すること。
 アーメダバード駅の待合い室で知り合った、10歳年下の少女、ラーダーちゃんと文通を続けていたが、「いったい、いつ私の家に来るの?この間の春休みもずーっと、とーこを待って、どこにもいけなかったわ。友達も、私が日本に友達がいるっていうと、ウソツキだっていうのよ」という手紙をもらい、これは一度行かなくては……と思っていた。
 ウダイプルというところで、ホテルの客引きをしていたラジューとも文通を続けていた。ラジューが、「今度来るときには、ラジカセ持ってきて」と書いてきたので、安い中国製のラジカセを買った。(*登場人物の名前は仮名です)
はじめてのカルカッタ 「お釈迦様の村」 ブッダガヤ ガンガーでのんびり
インドでシャケ弁 ラーダーちゃんと再会 ラジューに会いにウダイプルへ
旅行者と交流

成田発→カルカッタ(当時:現コルカーター)

カルカッタ→ガヤー(ボードガヤー)→ヴァラーナシー(ベナレス)→カジュラホー→ドゥルグ→ウダイプル→ジャイプル→デリー

デリー→成田



 1 カルカッタ(当時:現コルカーター)
 2 ガヤー(ボードガヤー)
 3 ヴァーラナシー(ベナレス)
 4 カジュラホー
 5 ドゥルグ
 6 ウダイプル
 7 ジャイプル
 8 デリー
 
はじめてのカルカッタ


 日本人が行くインドの観光ルートで、1番ポピュラーなのは、「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれる、デリー=アーグラー=ジャイプルを回るもの。アーグラーにはタージマハルがあり、ジャイプルは、サーモンピンクの建物がたち並ぶ、「ピンクシティ」とよばれる町で、観光用の象のタクシーにも乗れる。そして2番目は、カルカッタから、ブッダガヤー、パトナーなどの仏教遺跡を回って、ガンジス川で有名なベナレスへ行くコースではないだろうか。
 タージマハルは3年前に見たので、今回は、仏教遺跡を見ようか。そういうわけで、今回は、デリーではなくて、カルカッタからインドに入ることにした。
 
 いくつになっても、はじめて、というのは必ずある。はじめてすることは、勝手がわからなくて、不安で、ちょっとドキドキする。デリーで泊まるところはだいたいわかったけど、カルカッタでは、どういうところに泊まればいいんだろう。それに、ラジューのいるウダイプルは1度行ったことがあるけど、ラーダーちゃんのいるDurgという町は、どうやって行けばいいんだろう?
 
 ぼんやり不安に感じながらも、相変わらず、ホテルの手配もせずに、カルカッタ行きの飛行機の中にいた。1人旅なので、あいかわらず退屈である。旅行ガイドブックを取り出し、インド数字の書き方を練習していた。
  
  「おお、『5』はこう書いた方がいいね」
 隣に座っていたインド紳士が、私のメモ帳に、インド数字で『5』を書いた。
  「このガイドブックと少々違うようですが、間違っていますか?」
  「それでいいんだけど、手書きで判断するために、こう書いた方がわかりやすいんだ。 私は数学者なんでね。数字については、何でも聞いてください」
  
 前回のインド旅行では、数字の判別に苦労した。汽車のチケットに、日付や電車のナンバー、座席番号を書きこんだものをくれるのだが、アラビア数字で書いてあるにもかかわらず、読めない。あとで知ったのだが、インド人の手書きの数字には、インド特有のくせがある。どうも、インド数字の影響らしい。数字くらいは、買い物で使うので覚えておきたいと思って、ヒマつぶしに始めた練習だったが、同じくヒマつぶしを探していたインド人紳士に見つかってしまったらしい。おかげで、その場限りだったが、カルカッタに着くまでに、1から10までは、ヒンディー語で言えるようになった。

  「日本の方ですか?」
 前の座席の日本人が振り返って話しかけてきた。
  「僕、はじめてインドに行くんですよ〜。カルカッタにあるお寺に、大工道具を届けるために来たので、荷物も多くって」
 私はインド2回目です、と言うと、「助かった〜」と言われて、たじろぐ。2回目だからといって、頼りにはなりませんよ…。彼はカルカッタのホテルを予約しているというので、私も1泊目はそこに泊まることにした。ホテルに行くまでのタクシー代の交渉は、『インド2回目』の私がするということになった。カルカッタの空港に着くと、もう1人、『インドはじめて』という若者がいた。彼も同じホテルに行くことにする。タクシー代の割り勘は、人数が多い方がいい。

 ホテルに着くと、そこは、イギリス植民地時代に建てられたという、古めかしいところだった。でも、前回、私が泊まった、どのホテルよりも立派だ。予約していた部屋はシングルだというので、女1人の私がその部屋をもらい、彼ら男2人は、空いていたツインルームに泊まってもらう。ツインルームを割り勘にすれば、シングルに泊まるよりぐっとお得なはず。その古めかしい立派なホテル、『グレート・イースタン・ホテル』の部屋には、ウエルカム・フルーツと紙パック入りのジュースが置いてあり、バス・ルームには、お湯の出る湯船まであった。こんな立派なホテルに泊まるのは、最初で最後までかも…と、つい写真を撮る。

 翌日は彼らと別れ、安いホテルにチェックインし直す。はがきを買って、Durgのラーダーちゃんに、「カルカッタ着。そちらに着くのは○○日後あたりだと思います。ラーダーちゃんのお家の近くのホテルを探しておいてね。また連絡します」と、書いて投函。インドからインド国内むけに投函するのははじめてだ。前回、日本あてに出した手紙は、切手が途中ではがされたのか、届かなかったものもあったが、国内むけのはがきは、切手を貼る必要もないので、このまま投函しても大丈夫だろう。
 
 カルカッタには2〜3泊して、血統書付きのホワイトタイガーのいる動物園、カルカッタ最大のモスク、ナコダモスク、カーリー寺院、のんびりした植物園などを、地下鉄とバス、路面電車を使って観光した。選挙前だったので、カルカッタの目抜き通り、チョーロンギー通りでは、ラジーヴ・ガンディー首相が街頭演説をしていて、人だかりがすごかった。 カルカッタの地下鉄は当時、インド唯一で、ピカピカ。路面電車やバスに比べると値段も高いが、その分、人が少なくて、ゆっくりできた。国立博物館の充実した展示物に圧倒されたりしながらも、換金やリコンファームなどの事務作業をこなす。

 エアログラムに封をする糊と、洗濯用の洗剤が欲しかったが、英語で(インドで)何というのか、よくわからない。
  「ほら、手紙書いて、出すときに…」
  「封筒か?」
  「じゃなくて…」
  「びんせんだな」
  「じゃなくて、封筒をこう閉じて、くっつけるじゃない。そのくっつけるヤツ」
  「ペーストだ!」
 ああ、ペースト、ペーストでいいの。ジャムだってマーマレードだってペーストっていうけど、糊もペーストでいいのかー!
  「それからね、体じゃなくて、服を洗うもの」
  「サーフだな!」
 サーフというのは、有名な粉石けんの商品名だったらしいが、とにかく「サーフ」というのが、一般的だったようで、その先も、ずーっと「サーフ」で用が足りた。

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「お釈迦様の村」 ブッダガヤ

 
 カルカッタのハウラー駅から、お釈迦様が悟りを開いた場所、ブッダガヤーに向かう。ブッダガヤー(インドでは『ボードガヤー』という)には、鉄道駅はないので、最寄りのガヤー駅から、バスで行くらしい。
 
 ガヤーに到着したのは深夜なので、とりあえず、ガヤー駅のリタイヤリング・ルームに泊まる。リタイヤリング・ルームというのは、駅にある宿泊施設で、乗車券があり、目的の電車が到着するまでの間は、部屋が開いている限り、格安料金で泊まれる。私は次の電車を待っているわけではなかったが、レイルウェイ・パスを持っていたので、泊めてくれた。お湯のシャワーもちゃんと出たが、電気で湧かしているのか、蛇口をひねったらビリビリと感電した。夜が明けるまでリタイヤリング・ルームにいて、朝、駅の近くのホテルにチェックインした。ボードガヤーは田舎なので、泊まるところも少ないと思っていたのだ。重いラジカセの入った荷物をホテルに置いて、ボードガヤー行きのバスを探す。

 インドの格安ホテルには、外からかかる鍵がついていない。自分で錠前を持っていって、外からかけるのだ。だから、ホテルの従業員が、そうじに入ることもできないかわりに、中の荷物がなくなる可能性もわりと低い。

 バスを待っていると、リキシャーに乗ったインド人の2人連れが声を掛けてきた。
 「ボードガヤーに行くのかい?私たちもボードガヤーの家に帰るところだから、一緒に乗っていくか?」
 これ幸いと、さっそく便乗させてもらう。今なら、用心して乗らないと思うけど、たぶん声をかけられることもないだろうな…。

 ボードガヤーには1時間もしないで到着。彼らが、家で朝ご飯を食べていけというので、これまた、のこのこついていった。
  「どうだ、目玉焼きうまいか?」
 ヴェジタリアンが多いインド人の中で、彼はムスリム(イスラム教徒)なので、彼の家では卵も食べられるのだという。食事がすむと、商売の話。彼は、日本人の仏跡ツアー客に、数珠や、菩提樹の葉のしおりなどを売る商売をしているらしく、どうやら、声をかけてきたのも、それがめあてだったらしい。

  「たくさん日本人に売った。ほら、ドルじゃなくて、1万円札でもらうんだ。インドでは外国に行くときは、持ち出せるドルが決まっているからな。金を貯めて、2回もメッカに巡礼したよ」

 仏教の数珠を売っている人がムスリムだというのも、おかしい気がしたが、カルカッタのナコーダ・モスクで案内してくれた、自称「モスクのマネージャー」も、ヒンドゥーだったし、そんなものかもしれない。

  「どういう数珠がいいの?」買う気もないのに、つい聞いてしまった。
  「この菩提樹の実でできた数珠はな、目の数が多いほどいいんだ。ほら、こっちは2つ目の模様だけど、これは3つあるだろう。菩提樹は知っているか?仏陀は、菩提樹の下で悟りを開いたんだ」

 仏教系の大学を卒業した私が、ムスリムからお釈迦様の話を聞くというのも妙な話だ。

  「どう?この菩提樹の数珠。日本人は、ひとりで10本くらい買うよ。」
 はぁ〜、それで1万円札か。20人くらいのツアーだったら、大もうけだよね。でも、数珠や菩提樹の葉っぱなんか全然欲しくない。夕方までにガヤーのホテルに帰るから、ボードガヤーを観光する、というと、案内してくれるという。

 案内するといっても、彼はムスリムなので、仏教の寺には入らない。それでも、ここがマハーボディー(大菩薩)、そこがチベット寺、日本寺と、いちいちつき合ってくれる。 
 
 ボードガヤーで修行していたお釈迦様は、苦行では悟りを開くことは出来ないと気づき、修行を捨て、ニーランジャーナー(ナイランジャナ)川のほとりで沐浴をした。苦行で体力を消耗しているお釈迦様に、米を牛乳で煮たキールを食べさせたのが、コーヒー用のミルクの名前で有名な「スジャータ」という娘である。
  お釈迦様はそのあと、ある木の下で瞑想をし、そこで悟りをひらいたという。その木が、マハーボディー(大菩薩)塔という、大きな塔の近くにある、菩提樹とされている。

 ボードガヤーは、そういう、仏教徒にとってはありがたい場所なのだが、私には、寺の万国博覧会のように思えた。それまで、日本の寺しか見たことがなかったので、中国やタイ、チベットなどのアジア各国の寺は、カラフルで、仏像もなんとなくキッチュに思えた。ただ、オレンジやえんじ色の布をまとったタイやチベットのお坊さん達は、みるからに敬虔で、彼らの祈りの邪魔をしないようにと、気をつけた。
 
 ひととおり寺めぐりをして、お茶を飲んでいると、
  「あら、あなた。また会ったわね」と、声を掛けられる。

 カルカッタの博物館で会った、韓国系のアメリカ人の中年女性だった。

  「こんにちわ。お1人ですか?」

 そう聞いたのは、博物館では、韓国人の若者と一緒だったから。彼らは、その日、サダル・ストリートの安宿の一部屋を、シェアすると言っていた。

  「ええ。彼はパトナーに行くっていっていたわ。彼、あなたが1人なので、気にしていたわよ…。」
 彼女はそう言って、私の隣に座っている、ムスリムの数珠売りをチラっと見た。

  「あなた、どこに泊まっているの?私と一緒に来ない?」
  「ガヤーのホテルにチェックインしたので、もう少ししたら帰ります。あなたは、ボードガヤーに泊まっているのですか?」
  「ええ。チベット寺のゲストハウスよ。ドミトリーだけど、まだベッド空いているわよ」 彼女は、数珠売りにつきまとわれて、私が困っているのではないかと思ったらしく、ガヤーに帰るバス停まで、送ってくれた。

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ガンガーでのんびり

 
 あくる日は、ヴァナーラシーに向けて出発。ヴァナーラシーは、日本では「ベナレス」と呼ばれている場所で、ガンジス河のある、ヒンドゥー教最大の聖地である。少なくとも、外国人にとって、インドの中で最も有名聖地だろう。ヴァナラシーの近くには、サルナートという、お釈迦様が初めて説法をしたという、仏教徒にとっても重要な聖地がある。
 電車で隣に乗り合わせたのは、かしこそうな女学生と母親。ヴァナラシーが近づき、電車が大きな川の上を行く鉄橋にさしかかると、女学生は、お金を川に投げ入れて、手を合わせた。それから私の方を見て、にっこりと笑って言った。
 「ガンガー」

 そう、ガンジス河のことをヒンディー語ではガンガーという。
 
 ヴァナーラシー・カントンメント駅につき、駅の案内所でホテルを紹介してもらう。条件は、「安宿、きれい、ガンガーに近いこと」。案内所で拾ってくれたリキシャーは、曲がりくねった道を器用に行き、ホテルに着いた。あいにくシングル・ルームの空きはないが、ダブル・ルームも割と安いし、安宿にしてはきれいなので、ここに決める。リキシャーワーラー(運転手)は、泊まれるかどうか決まるまで待っていたが、宿が決まると、ぼらずに、案内所で決めた料金だけ受け取って、帰っていった。

 このあたりは、河のほとりで死体を焼き、その灰や、時には死体がそのまま流れているということで、日本でもしょっちゅうテレビで紹介されていて、かなり有名だ。この数年後に遠藤周作の小説、『深い河』の舞台にもなった。

 行ってみると、確かにいつも死体を焼く煙が立ち上っている。死体を焼く時間帯は決まっているらしいが、薪で焼くので、1体を焼くのに時間がかかるらしい。川の中で、祈りながら水浴びしたり、花を流している人も多い。そうかと思えば、外国人だけでなく、インド人のツアー客も多く、ボートに乗って、川遊びをしているし、サリーなどの洗濯をしている人も多い。お祈りをしてから、洗濯をする人もいるし、宗教的でおごそかな感じというより、ダイナミックな日常風景といった感じだ。
 ガンガーの水で罪が清められるとか、ガンガーのほとりで死ねば、天国へ行けるとか、言われているらしく、インド各地から大勢のインド人が集まっている。ここで死のうとしているのか、観光客めあてなのか、乞食も多い。乞食なのか、修行者なのかもわからない。そういう人たちに喜捨をするために、小銭に両替する両替屋も多い。その頃、日本の銀行では、両替は無料だったので、10%も手数料をとる両替屋というのに驚いたが、小銭がなくて、あれだけの人数の乞食に喜捨をしていたら、あっという間にお金がなくなってしまう。

 日本人観光客もかなり多い。日本語が通じる気安さから、会えば旅行の情報交換。ヴァナーラシーには、長期滞在している人もいて、あそこの食堂がうまいとか、ここのヨーグルト屋はサイコーなど、いろいろ教えてくれる。ガンジャ(大麻)屋の場所さえ教えてくれる。

 インドを長いこと旅行しているけど、ガンジャの強いヤツやって、おかしくなって、気がついたら、自分の荷物とか全部捨ててしまっていたんですよ〜と、いう人や、インドで肝炎にかかって7kg痩せたという人もいる。シュリナガルのボートハウスに泊まっていて、シャワーも湖の水だと気づかずに浴びて、目に入った水から肝炎に感染したという。固形物を食べると、腸に穴があく、といわれ、先週あたりからようやくおかゆ状のものが食べられるようになったとか。

 2日目からは、日本人の女の子と部屋をシェアすることになった。彼女は、アフリカを旅行して、パキスタン経由でインドに来たらしい。
 「インドの男はあっさりしているよね。イスラムの男は女に飢えていて、しつっこいよ」

 インドの男も十分濃いと思っていたので、驚いた。彼女はコイルヒーターとインスタント・コーヒーを持っていたので、久しぶりにコーヒーが飲めた。
 当時北インドで、コーヒーはほとんど飲めなかった。紅茶も、ミルクと砂糖があらかじめ入ったチャイがほとんどで、ただの紅茶(ブラック・ティー)を飲むには、ちょっと高い喫茶店とか、ホテルに行くしかなかった。

 ヴァナーラシーは、ガンガーをはさんで、西の方角に町が開けている。ガンガーの東側は、不浄の地と考えられているとかで、ほとんど何もない。ボートに乗って、対岸までたどり着いても、砂浜が続くだけだ。雨期にはそこも水びたしなのかもしれない。
 対岸が東なので、朝日は最高だった。4泊したが、毎日早起きをして、ゆっくり日が昇るのを眺めていた。夕日もこっち側に沈めばいいのに…と、思うほど。

 
 チャイを飲みながらガンガーを見て、ボートに乗るだけでも楽しかったが、せっかく近くにあるので、お釈迦様が初めて説法をした記念の地、サルナートに行くことにする。サールナートまでは頻繁にバスが出ている。私が乗ったバスは、たまたま私と、シンガポールのカップルの3人だけだった。

  「サルナートって何があるの?」
 シンガポールのカップルは、何も知らないで来たというので、自分が知っていることをひととおり教える。ブッダが初説法した場所で、それを記念して、ダメーク・ストゥーパという、大きな卒塔婆がある。インドの国章になっている、4頭の獅子のアショカ王柱も。

  「アショカ王って誰?」
 アショカ王は、仏教を全インドに広めた王様で、仏教に改宗するまでは、戦争でずいぶん大勢殺したらしいよ…。なんでサルナートに行きたいの?

  「ヴァラナーシーって、人がいっぱいでうるさくない?バクシーシもいっぱいで、つかれちゃった。サルナートは平和な所なんだってね」

 サルナートは、平和というより、仏教遺跡以外は何もない村だった。食事ができるところも、ツーリスト・バンガロー内のレストランだけ。遺跡を見ていると、中国人の中年男性が1人やってきた。シンガポールのカップルと、楽しそうに話をしている。

  「なんで中国語ができるの?」
  「私たちのことばだもん!」
 シンガポールは中国系、マレー系、インド系の多民族国家で、中国系の人は家では中国語を話しているというのさえ、知らなかった。

 翌日は、朝、またボートに乗ったあと、カジュラホーに向けて出発。きょう、ヴァラーナシーをたつ、というと、何となく顔なじみになっていたバクシーシ(物乞い)が、チャイをごちそうしてくれた。

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インドでシャケ弁


 カジュラホーに行くには、サトナーという駅で降りて、4〜5時間バスに乗らないといけないらしい。運良く、カジュラホー行きのバスはもうじき出るというので、あわててバスの乗車券を買う。

 バスの中には大きな荷物は持ち込めなくて、バスの屋根に結びつけるのだという。汽車の中で知り合ったスェーデン人の男の人が、ついでにやってやろうか、と言ってくれるが、人に任せて、途中ではずれて荷物が落ちても文句はいえないので、自分で結びつける。鉄道の寝台車に乗ったのもインドがはじめてだったが、バスの屋根に荷物を結ぶなんていうのも、はじめて。おそるおそるはしごを登り、チェーンロックと洗濯干し用の紐で、しっかりとバックパックを結びつける。

 サトナーからカジュラホーまで、けっこうな山道を4、5時間。車体が大きく上下に揺れたせいで、バスの天井に頭をぶつけて、血だらけになったアメリカ人もいた。

 カジュラホーは、「ミトゥナ」という、官能的な彫刻で有名な寺院群があるところで、外国人観光客も多く、同じバスの中にも日本人が何人かいた。その中の1人、Kさんと、カジュラホーで部屋をシェアしようか、と話をつける。彼女はニュージーランドで、日本人観光客相手の通訳をして暮らしているとかで、カジュラホー近辺のユーカリの木をめざとく見つけていた。ユーカリは何種類もあって、葉っぱの形もさまざまなんだそうだ。

 カジュラホーは小さな村で、恵比寿ガーデンプレイスくらいの面積に、寺院群がまとまってある。もっとも、これは「西の寺院群」で、これより小さい規模の寺院群が、あと2箇所、村の東と南にあるというが、見ようと思えば、1日で見られそうだ。

 12月のカジュラホーはかなり冷えた。安ホテルのベッドにはうすい掛け布が1枚あるだけだったので、日本から着てきたツイードのマントや、持っている服を全部着て、靴下も2枚重ねしたが、寒い。ホテルの部屋のカーテンも、とりはずし、掛けて寝た。翌日は、ホテルにお金を払って、毛布を4枚も借りて、ほかほかで眠ることができた。

 カジュラホーにも日本人観光客が多いので、日本語を話せるインド人もかなりいる。
 翌日、レンタサイクルで東の寺院群にいくと、日本人の団体ツアー客に、日本語で説明しているインド人ツーリスト・コンダクターがいたので、ツアー客に混ざって、解説を聞く。ほほー、こっちは仏教で、こっちはジャイナ教のお寺なんだ。しばらく聞いていたが、ツアー客の年齢層と違ったせいか、コンダクターにばれて、追い出される。しかたないので、寺院の近くの屋台でパコーラ(天ぷら風の揚げ物)を買って食べていると、話しかけるおじさんがいた。

  「あんたたち、そんなもん食べられるん?」
  「え、おいしいですよ。これは、野菜を揚げたもので、ちょっと辛いけど、いけますよ。」
  「そうなん。インドの屋台のものって食べたことなかった」
  「何を召し上がっていらっしゃるんですか?」
  「けさはシャケ弁」

  シャケ弁?鮭弁当?!そんなものインドで食べられるんだ!日本から真空パックかなんかで持ってきたんだろうか?

 おじさん達は、1週間だか10日間の仏教遺跡ツアーで来ていて、今朝はヴァラナシーから飛行機でカジュラホーまで来て、これからまた飛行機でアーグラーまで飛ぶとか。毎日めまぐるしく移動しているので、どことどこに行ったか、もう覚えていないという。

  「お寺、見なくていいんですか?もう見学されたんですか?」
  「もうええわ。あちこち見たけど、なんかわからん。数珠もぎょうさん買ったし。」
 ブッダガヤーでも数珠が売っていたが、カジュラホーでも売っていた。日本人の行くところ、数珠屋あり。

 どうせレンタサイクルの料金は1日単位なので、Kさんと、カジュラホーの村を自転車であちこち回る。東の寺院群のそばには、青空学校があった。屋外での授業が珍しいので、学校の外から見ていると、先生が手招きをしてくれる。無料の学校なのか、手に職をつけるために、工芸品を作る授業もあるらしい。南の寺院群や、北側にある、ちょっとおしゃれなツーリスト・バンガローにも行ってみた。
 寺院群も考古学博物館も見たので、2泊したあと、サトナーに戻る。時刻表によると、サトナーから、Durgに行けるらしい。

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ラーダーちゃんと再会


  「ダーグ行きの切符をください」
  「ダーグ?どこじゃそれは。ちょっと切符の申し込み用紙をみせてごらん…。ああ、ドゥルグか」
 
 Durgは、ドゥルグだったのか。行く場所の読み方も知らないとは恐ろしい。とりあえず、予約が取れて、ラーダーちゃんのいるドゥルグに到着する時間もわかったので、電話をかけて知らせることにする。

 しかしまてよ。3年間文通をしてきたが、電話をかけるのは初めてだ。この英語力でちゃんと通じるんだろうか。旅行中はなんとか用が足りているみたいだけど…。だいたいラーダーちゃんが家にいなかった場合、他の人も英語でわかるのかな?

  「あのー、ドゥルグというところまで、電話をかけたいのですが、電話がかけられるところはありますか?」
 駅の問い合わせ係に尋ねると、なぜか駅構内ではなく、外にある電話局を教えてくれた。問い合わせ係のお兄さんは、胸に「○○農協」と刺繍のある作業服みたいのを着ている。

  「あ、それ、日本のジャンパーですね」
 そういうと、にっこりして、愛想がよくなった。
  「どう?いい?日本人のフレンドがプレゼントしてくれたんだよね」
 
 カジュラホーに来た観光客の1人からもらったのだろうか。それにしても、なんでインドにわざわざ農協の制服を持ってきたんだろう…?制服って貸与じゃないのか?そんな疑問はともかく、お兄さんのご機嫌がいいのがチャーンス!
 
  「どうも電話の場所がわかりにくいので、すみませんけど、一緒に来てくださいませんか?それから…ここの家に電話をかけたいのですが、私、ヒンディー語が話せないので、電話をかけてくださるとありがたいのですが…」
  「いいよ」
  農協の制服の威力は大きい。
  
  「私は日本から来たとーこで、この家の人に、これから乗る電車の名前と、ドゥルグに到着する時間を伝えていただきたいのです」
 お兄さんにそう伝えると、電話をかけて、早口で何かいって、あっという間に電話を切った。
  「ここまでかけると、電話料金も高いからね。でもちゃんと伝えたよ。おじさんが、駅に迎えに来るって言ってた」

 ドゥルグ行きの電車がサトナー駅に到着したのは、出発予定の1時間半後。ヤレヤレ。電車の中でゆっくり眠るぞ〜。

 ところが、すぐにはゆっくり眠れなかった。寒かったのだ。
 またまた着替えを着込んだが、それでも寒い。電車の向かいに座っていた初老のおじさんが、見かねたのか、毛布を1枚貸してくれた。おじさんは、ベッドロールと呼ばれる、旅行用の布団セットを持ち歩いていて、私に1枚貸したあとも、まだ何枚か毛布やシーツを持っていた。
 おじさんは、56歳で、これから32歳の人と2度目の結婚のお見合いをする予定だそうだ。ところが、私が1人でドゥルグに行くというと、娘さんがそこに住んでいるから、ドゥルグまで一緒に来てくれるという。いえいえそんな、とんでもない…と断ったが、別にかまわないというので、ありがたくそのまま毛布を借りることにする。
 
 でもおじさんが一緒で助かった。そのあと、列車は、ふたつに別れて、我々が乗っていた車両は、別の目的地に行く方だった。列車のアナウンスが不鮮明で、英語のアナウンスがあったかどうか覚えていないが、おじさんが教えてくれ、車両を移動したからよかったものの、そうでなければ、ドゥルグにはたどり着けなかった。

 ドゥルグに到着したのは、電話で知らせた到着した時間より2時間以上もたってからだった。ガックリ。2時間も待っているはずがない。また電話し直さなくちゃ…、と気落ちしながらも、ドゥルグ駅を出ると、
  
  「Are you TOKO ?」
 と話しかける男性がいた。
 
  「ラーダーはまだ学校に行っているので、私が迎えに来た。」
 この人、ラーダーちゃんのおじさん?でも、前にもらった写真に写っているおじさんとは、別の人だ。でも、私の名前を知っているし、一緒についていくしかないよね。
 ラーダーちゃんのおじさんという人は、車で迎えにきてくれていたので、毛布を貸してくれたおじさんの娘さんの家に寄って、お茶をごちそうになったりして、ラーダーちゃんの家についた。

 家に着くと、ラーダーちゃんが学校から戻っていた。
 きゃー3年ぶり!
 3年ぶりといっても、会うのはやっと2回目。手紙で写真の交換をしていなければ、会ってもお互いわからなかっただろう。ラーダーちゃんは、白いブラウスに茶色のタイ、スカートとハイソックスという、かわいい制服を着ていた。日本の制服は、紺と白の組み合わせが多いが、インドは茶色が多いようだ。
 
 ラーダーちゃんのお家はジョイント・ファミリーと呼ばれる大家族で、おじいちゃん、おばあちゃんをはじめ、その息子達であるおじさん達が数人と、そのおじさん達の家族が同じ家に住んでいる。ラーダーちゃんのご両親はダリーという、別の場所で暮らしているらしい。ラーダーちゃん自身の家族は、お姉さんのニシャーとすぐ下の妹のラーキーがドゥルグに一緒に住んでいるらしい。ダリーには大きな学校がないから、高校生くらいになると、ドゥルグの学校に通うために、こちらで暮らすようになるとか。

 アーメダバード駅の待合い室で会ったとき、ラーダーちゃんは、まfだ中学生だった。
 とても聡明そうで、きりっとした顔立ちが印象的だったラーダーちゃんに、インドの印象を聞かれた私は、「ゴミ箱ってないの?」とバカなことを聞いたのを覚えている。

 アーメーダバード駅で、ラーダーちゃんの隣で、黄色いソニー製のトランジスタラジオをいじりながら、恥ずかしそうにしていた女の子は、お姉さんのニシャーだった。ラーダーちゃんほど英語が話せないのか、「何、何?」というように、ラーダーちゃんの後ろから聞いていたので、ラーダーちゃんの妹かと思っていたが、あとひと月ちょっとで、結婚するのだそうだ。こうして会ってみると、孫の中で一番年長のせいか、しっかりしている上に、なかなか威厳がある。
 ラーダーちゃんは勉強ができるだけでなく、手先も器用らしく、ダイニングには、ラーダーちゃんの描いたオウムの絵が飾られていた。手紙の文字も几帳面で、まじめな優等生タイプだと思っていたが、ちゃんとしたいい家庭で、きちんとしつけられた、かわいい高校生だったのだ。

 それにしても、文通はしていたというものの、3年ぶりだし、会うのは2回目だし、ラーダーちゃんとは10歳も年が違うし、ことばはよく通じないし…で、お互い何をどうしたらいいのかわからない。ゲームでもする?といわれ、バドミントンなんかをしてみるが、もともと私は運動ぎらい。羽を落としてばかりで、ぜんぜん続かない。それでも、おばさんのサリーを着せてくれたり、近くの動物園に連れて行ってくれたりと、歓待してくれた。

 ラーダーちゃんの住むドゥルグは、ソ連(当時)の協力によって建設された、大きな鉄鋼工場がある、『ビライ』と、いう町と隣り合っていて、ほとんどドゥルグとビライの2つで、1つの町ようだ。鉄鋼工場を私に見学させようと、町のタイプ屋に行って、正式な要請文書まで作成したが、国家プロジェクトなのか、工場内の見学は許可されなかった。そのかわり、故ネルー首相の写真が写っているパンフレットをもらい、工場内のゲストハウスを見学させてもらった。ブーゲンビリアの鮮やかな色に飾られた、きちんとした感じのゲストハウスだった。

  ほとんどことばが通じないにもかかわらず、子供達とはすぐに友達になれた。中でもラーダーちゃんの年下のいとこのプレームは、すぐ私の膝の上に乗りたがる。プレームはまだ5歳くらいだが、学校(幼稚園?)に行き始めたそうで、英語も練習中。ホテルを見れば、「This is a hotel !」、車を見れば「That is a car !」。私にも、「なんでそんなに目が小さいの?」という、答えにくい質問をする。

 カジュラホーで、他の日本人観光客が、『チャンドニー』という映画を見た、という話をしていたので、『チャンドニー』って知っている?と聞いてみると、近所の知り合いの家からビデオデッキを借りてきて、上映会を開いてくれた。
 最初と、途中のインターミッションで、ラーダーちゃんが、英語であらすじを教えてくれる。主人公の女優(シュリデヴィ)は、とってもきれいでキュートだが、彼女の夫役の俳優は、ぽっちゃりしていて、かなりおじさんぽいので、ラブ・ストーリーに感情移入できない。しかも、上映を始めたのが、夜の11時で、インド映画は3時間以上あるので、1時半頃、眠ってしまった。

 駅まで迎えにきてくれたアルジュンおじさんは、ラーダーちゃんのお父さんのすぐ下の弟で、積極的に英語で話しかけてくれる。どうも、たいていの家族は英語をかなり話すようなのに、ラーダーちゃんに通訳させるだけで、あまり直接話をしてくれない。ラーダーちゃんのパパの、おじいちゃんの長男は、ダリーに住んでるので、ドゥルグでは、アルジュンおじさんが、おじいちゃんの右腕らしい。今回は、日本人歓待プログラムの担当らしく、どこに行くときでも、アルジュンおじさんのスクーターか、車で連れて行ってもらった。

 「サトナーからだという電話があったけど、早口で、○○日の何時に、○○特急で着く、と言うだけで、すぐ切れたので、本当にとーこが来るのかどうか、わからなかったよ。」

 ドゥルグの駅で、見知らぬインド人に声を掛けられてドキドキしていたが、アルジュンおじさんも、ドキドキだったのだ。

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ラジューに会いにウダイプルへ


 4日間ドゥルグでお世話になって、ウダイプルに向けて出発。ウダイプルに行く前に、ジャルガオンという駅から乗り換えて、エローラという、石窟寺院で有名な場所に行こうと思っていたが、背中のラジカセが重くて、すっかり面倒になってしまった。早くウダイプルのラジューにラジカセを渡しちゃいたい。

 ラジューの家には電話がないので、ジャルガオン駅から、到着日時を知らせる電報を打つ。外国で電報を打つのも初めてだ。
 ウダイプルの駅に着くと、ホームでラジューが待っていた。
 「電報届いたけど、宛先とかいろいろ間違っていて、本当にこの汽車に乗っているかどうか、わからなかったよ」
 といって、電報を見せてもらうと、ほんとだ。TOKOという私の名前さえ間違っている。こんなことなら、自分で打たせてもらった方がよかったなー。

 前回ウダイプルに来たとき、ラジューは知人のホテルの手伝いで客引きをしていた。そのホテルに泊まり、ウダイプルをあちこちラジューに連れて行ってもらった。ラジューの行っている、民芸品を作る学校だとか、ラジャースタンのダンス・ショー、ラジューの家など。ウダイプルの博物館はラジューの知り合いの、市公認の観光ガイドさんに無料で案内してもらったし、ウダイプル市内の足も、ラジューの自転車に乗せてもらったり、知り合いのやっぱりラジューという名前のリキシャーに乗せてもらったり。アクション映画を見に、映画館にも連れて行ってもらった。

 ウダイプルは、砂漠の州、ラジャースタンにあるが、昔のマハラジャが、人工湖を作ったので、しっとりとした、静かで落ち着いた感じの町だ。人工湖の島に建てられた宮殿は、現在はホテルになっていて、宮殿ホテルとして、日本人にも人気が高い。
 
 ラジューはこの春、結婚したばかり。中国製の安いラジカセは、結婚祝でもあった。とにかく、バックパックの大部分のスペースをラジカセが占領している。
 ラジューの家は、お嫁さんのミーラーが増えて、総勢7人になっていた。ラジューの甥、姪達も3年経って、大きくなっていたが、ラーダーちゃんの家にくらべると、騒がしい。インドの家といっても、いろいろなんだなー。
 ラジューをはじめ、男はみんな髪の毛も短いし、ラジューのおばさんもサリーを着ているので、気がつかなかったが、全員スィク教徒だという。
 
 スィク教徒というのは、髪を切ってはいけないので、長いまま、束ねてターバンにいれているので、普通は一目でわかる。お嫁さんのミーラは、典型的なスィク女性のかっこう…パンジャビー・スーツ(サルワール・カミーズ)で、ドゥパッターとよばれる、長いスカーフをずっと頭にかけていた(年長者の前では、頭にかけておくものらしい)。

 ラジューのお父さんは、ラジュー達と一緒ではなく、別の家に住んでいた。どうもその家の未亡人と恋仲らしい。シャルマという彼女の名字からすると、彼女はヒンドゥーのバラモン階級だ。日本人の私が想像するだけでも、けっこうなスキャンダルなような気がするが、シャルマ家の息子達も同じ家に住んでいるので、公認の仲なのであろう。お互い、うまくない英語でそんな話をしながら、シャルマ家に住むために、ターバンをしないで目立たないようにしているのかな…なんて、想像する。

  「あら、ゴパール!」
 ラジューの家に遊びに来た、ラジューの友達に私が声をかけると、みんなギョッとした顔になった。

  「なんで彼の名前知っているの?」
  「3年前も会ったもん。シティパレスに連れて行ってくれるって言ってたのに、30分待っても来ないから、ガイドさんと2人だけで入った」
 我ながら、よく覚えているものだ。

  「ごめん。ごめん。今回はちゃんと案内しますよ」

 ゴパールは、そういって、バイクであちこち連れていってくれた。ゴパールはラジャスターン州の州都、ジャイプルのお土産屋さんで働いているという。

  「へー、次はジャイプルに行こうと思っていたんだよ」
  「ぜひ店に遊びに来てよ。安くするよ」

 そういうわけで、次の行き先は、ラジャスターン州の州都、ジャイプル。ウダイプルは、シティパレスを始め、白壁の建物が多いが、ジャイプルは、町中をピンク色(落ち着いたサーモンピンク)に塗っているので、「ピンク・シティ」と呼ばれている。

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旅行者と交流

 
 ジャイプルに降りて、観光バスをチェックすると、あと30分ほどで出発するという。これを逃すと、午前中はもう観光バスがないので、ホテルにチェックインもせずに、参加することにする。ラジカセがなくなったので、荷物も軽くなり、持ち歩いても、そう苦にならない。

 知らない場所に来たら、まず観光バスに乗って、地理を把握するのが便利だ。観光バスは、主要な観光地をひとまわりするので、気にいったところがあれば、また1人で来てみればいい。この日回ったのは、風の宮殿(ハワーマハル)、宮殿博物館、象のタクシーに乗れるアンベール城、天文台のジャンタル・マンタル、木版染めで有名なサンガネールなど。
 どれもすばらしかったが、ジャイ・スイン2世が作らせたという、巨大な天文造形物のジャンタル・マンタルはすごかった。デリーで規模の小さいものを見たことがあったが、ジャイプルの方が、建造物の種類も多く、はるかに美しかった。

 シティパレスの一角にある宮殿博物館には、さまざまな展示物があったが、アラビア文字の書物を見て、「これは何語でしょう?アラビア語?トルコ語?ペルシャ語?それともウルドゥー語?」と聞いた私に、「私はアラビア文字は読めないが、おそらくウルドゥーでしょう。なぜならその中でウルドゥーが一番ポピュラーだから」と、インド人が答えたのには驚いた。インドが世界の中心だと思っているな。もっとも、人口比でいうと、現代では、ウルドゥー語を使う人数が一番多いのかもしれない。

 アンベール城では、人気の観光アイテム、象のタクシーに乗った。ラクダに比べたら、輿に乗る、象のタクシーの方が安定していて、気楽だ。
 サンガネールの木版染めは、木版のブロックを、連続模様になるように、きちんと置いていく技術がすばらしいのだが、同じ観光バスに乗った、フランス人には価値がわからなかったようだ。日本人のわたしより、はるかにヘタな英語で、
 「へっへっへ、プリントだよ。ちゃんとした染めじゃないね。織ってもいないし。色もすぐ落ちそー」と笑っていた。

 午後になって観光バスはジャイプル駅まで戻ったので、駅に近いツーリスト・バンガローにチェック・インする。なんとジャイプルには、州立のツーリスト・バンガローが3軒もある(註:当時。現在は民間のホテルが買い取ったところもあるようだ)。私が泊まったところは、料金の割に、豪華なつくりで、天井も高く、部屋も広かった。1人で泊まるには広すぎるくらいだが、これより狭い部屋は、いまはないという。そういえば、ジョードプルのツーリスト・バンガローもなかなか豪華だった。
 そんな豪華な部屋に入ったとたん、洗濯。汽車に乗っていると、駅でときどきシャワーは浴びられるが、洗濯ができない。もともと着替えは2〜3枚しかないので、部屋に泊まれると、すぐ洗濯である。インドとはいえ、冬はせんたくものも乾きにくく、半分乾いていないパンツで移動したことも度々。

 洗濯ついでにシャワーを浴びて、さっぱりしたら、帰国便のリコンファームと換金に出かける。リコンファームは、カルカッタでもしておいたが、停電の多いインドでは、何となく不安だ。航空会社がある都市に来るチャンスがあったら、何度かしておいた方がいい。

 さっき観光バスに乗りながら、地図をチェックしていたので、航空会社も銀行もスムーズに見つかる。インドの銀行や郵便局は、日本と違って、雑居ビルの2階にあることも多いので、気をつけないと見過ごしてしまう。
 西日がかげってきたので、日が暮れないうちに宿へ戻る。さて、夕飯はどこにしよう。ちょっと先の別のツーリスト・バンガローに行ってみようか。
 そのツーリスト・バンガローに行くと、まだレストランは開いていなかった。同じく、レストランに来ていた3人連れの香港の女性達と、もう1軒のバンガローに行くことにする。
 
  「どうもインドのご飯は辛くって。インドに来てからも、ほとんど中国料理ばっかり食べているのよ」という彼女たちに合わせて、私もチャイニーズ。というより、東洋人の女性が食べるには、1人前の盛りが良すぎて、別メニューを注文しても無駄になるのが、目に見えていた。彼女たちは、しばらく前に、日本にも観光に来ていたという。
  
  「トーキョー、キョートとカゴシマに行ったわ。サクラマジ?とかいう火山も見たの」
  「ああ、サクラジマですね」
  「サクラマジだと思うわ。カゴシマはシマで、もうひとつは、マジで終わるって覚えたから」
 
 翌日はリキシャーで、ひとりで観光。シティの入り口である、チャンドポール門のあたりでおろしてもらい、歩いて、店を覗いたりしながら、ハワーマハルやシティパレスを再訪する。サモサという、三角形のインドコロッケがあるが、揚げ物屋で作っているところをしばらく見て、三角形に包む方法を覚えた。
  この日は、すこし時間を遅らせて、きのう開いていなかったレストランに行ってみた。

  「ご一緒してもいいかしら?」
 そういって、オーストラリア人の女性と、ノルウェー人の男性が同じテーブルについた。彼らもやはり、インドの食事はスパイシーすぎるという。おやおや。でもこのレストランはインド料理が主ですよ。
 オーストラリア人の女性は、フレンチのシェフだという。オーストラリア料理は特別なものはなく、いたってシンプルだとか。ノルウェー人の男性は、とても英語が上手で、むしろオーストラリア人の彼女より、聞き取りやすい。なんでも、イギリスのテレビも受信できるので、英語を聞く機会も普通にあるのだそうだ。
 
  「そういえば、日本では公害がひどいんでしょう?」
  「え、そうかな。東京はそうかもしれないけど、田舎はそうでもないですよ」
  「でも、僕、新聞で見たよ。日本人が、大勢ガスマスクをしているのを」
  「ガスマスク〜?売っていないですよ。そんなの」
 
 あとで知ったのだが、花粉症のマスクのことだったらしい。「サクラマジ」に「ガスマスク」。私が強く訂正しなかったので、彼らの日本についての知識は、間違ったままになってしまった。

 2人は、インドのカースト差別やサティー(夫が死んだあとに、妻が火の中に身を投げて自殺する、昔の習慣)を非難したが、外国人同士が話題にするようなことでもないと思った私は、スパイシーな料理を、ひとり黙々と頂戴していた。

 翌日、チェックアウトした。

  「そのボールペン、僕のと交換してくれない?」
 ツーリスト・バンガローのレセプションのお兄さんがそう言った。
  「やだ。インドのボールペン、インクが漏れるもん。欲しくない」
 
 知っていたか、と、露骨にがっかりした顔をしている。
  「ボールペンはいらないけど、他の何かと交換する?」
  「僕に何か交換できるものなんてあるかな〜」と歌い出したので、
  「じゃ、駅までリキシャーで行くから、リキシャー拾って、駅までの料金をかわりに交渉してよ」と頼んでみる。
 
 ボールペンは100円。リキシャーの運賃は、日本円にすると、たかだか40〜50円だと思うので、私にとっては得な話ではないが、料金交渉はめんどうくさい。

 駅に着いたが、お目当てのデリー行きの汽車の予約は取れず、次の出発は、夜中の2時半。なんとなく観光する気もなく、リタイヤリング・ルームで、ゆっくりすることにする。1泊するわけでもないから、ドミトリー(ベッドだけ借りる相部屋)でいいな。チェックインして、駅の食堂で食事を済ませて、ドミトリーに戻ってくると、部屋の前で、日本人の女の子2人がしょげていた。
  
  「こんばんわ。どうしたの?」
  「きょう、リタイヤリング・ルームに泊まりたいんだけど、部屋が空いていないんです。もう夜になっちゃって、これからホテル探しに外に行きたくないし。」
 
 そうだよね。インドの夜はほんとに暗い。7時や8時くらいでも、町に灯りが少ないので、真っ暗だ。
 
  「ドミトリーなら空いていると思うよ」
  「さっき、いっぱいになっちゃったらしいんです。それに、できたら、ツインの部屋に泊まりたいの。ちょっとインド負けしてて、インド人と同じ部屋に泊まりたくないっていうか、ゆっくりしたいっていうか」
 
 それもよくわかります。体力が落ちているときっていうのは、悪いけどインド人と話がしたくない。いろいろ質問されて、いちいち英語を考えながら答えるのも疲れるよね。
  
  「もう1回、聞いてきてみるね」
 よせばいいのに、2時半までヒマなもんだから、リタイヤリング・ルームの予約係のことろまで行ってみた。

  「グッド・イブニング、サー。我が国の若い女性が、困っているようなので、私もお願いにあがりました」
 
 おや、というような顔をして、椅子をすすめられた。
 
  「彼女たちは、良家の子女で、こんな暗くなってから、外に出たくないと言っています。できれば、今晩1晩、ジャイプル駅のリタイヤリング・ルームに泊めていただきたいということなのですが、あいにく部屋がないそうで、たいへん困っています」
  「そうなんですよ、マダム。きょうは、ドミトリーのベッドも、もうなくなってしまってね」
  「ところで、リタイヤリング・ルームの部屋は、乗る汽車が来るまでの間、24時間以内の使用ということになっていますよね」
  「ええ。そうです」
  「私の汽車は夜中の2時半に出発するのですが、他にも、これから出発する方がいるのではないでしょうか?その方たちが出発してから、彼女たちに部屋をお貸ししていただければ、きっと喜ぶと思いますけど…」
  「なるほど」

 というわけで、彼女たちは、しばらく、廊下のソファーで待った後、希望通りツインの部屋に泊まることができたようだ。私も出発までの退屈な時間を、リタイアリング・ルーム係の人や、ステーション・マスタル(駅長さん)と、お茶をごちそうになりながら、談笑しつつ過ごすことができた。インド鉄道のオフィサル(officer)と呼ばれる人たちは、待ち時間が多いのか、よく話し相手になってくれる。乗車券発行が完全にコンピュータ化された現在では不可能かもしれないが、昔はこんな風に話をしながら、何度か乗車券を融通してもらったものだ。


 デリーでは、YWCAに泊まった。前回は、ニューデリー駅前の、安宿街がほとんどだったが、費用対効果を考えると、ツーリスト・バンガローやYWCA、YMCAは、値段以上の価値があると思う。こういう場所は、ほとんど館内にレストランもついているので、暗くなってからも、外に出ることなく、安心して食事がとれる。食堂やロビーにスペースがあるので、旅の情報交換にも便利だ。
 私は日本人観光客を見つけ、ドゥルグで買った毛布を売りつけた。

  「これから、北インドを旅行されるのでしたら、絶対必要ですよ。しかもデリーでこれだけの毛布を買うとなると、けっこうお高いと思いますが、私はインド人の友人につきあってもらって買ったので、お安くしておきますよ。インド製ですが上質な毛布です。まだ何回も使っていないんですけど。使いかけですけど、糊や洗剤もありますよ」

(終)
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