インド旅行記

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「会社やめてインドに行ってきました」(はじめてのインド)
 初めてのインド旅行は、1986年7月。経済開放前のインド。ひとりで行く初めての旅行だっていうのに、タイで乗り換える飛行機を選んでしまった。

 英語にもまったく自信がなく、旅行会社で、帰りの飛行機の予約確認を自力でしなくてはならないと聞いて、不安になった。
 「言葉がどうしても通じなかったら、どうしましょう」と、旅行会社の人に馬鹿な質問をして、
 「…どうしてもダメだったら、デリーに着いたその飛行機で、まっすぐ日本に帰ってきてください」と、あきれられた。
 インドについてほとんど何も知らないで、なんとなく行ったので、特に行きたい場所もなく、行き当たりばったりの旅だった。そのせいで、電車の予約は取れないし、空き室のあるホテルを探し、さまよい歩くし、何度も同じ場所を行ったり来たりと、要領が悪く、はなはだ体力を消耗した。
 アーメーダバードという駅には、3回も行ったが、町は一度も観光していない。その駅の待合い室で出会った人と、20年近くもつき合っているのだから、不思議なものだ。

 「インド・レールウエィ・パス」という、インド国鉄2等車・乗り放題のパスを買ったせいか、ほとんど毎日移動していた。一番長く泊まったところで、3泊。夜行電車の中や、駅の待合い室、駅付属の宿泊施設、キャメルサファリで野宿などもした。約3週間の旅行の間、食事のほとんどは、電車や待合い室で隣り合わせたインド人から、分けてもらっていた。

 この旅行記は、秘密結社の数人のメンバーによる、ミニコミ誌「SOBA-YOU」に、掲載した「会社やめてインドに行ってきました」に修正・加筆したもの。今、読み返すと、若い(当時)女性が他人の家に行ったり、睡眠薬が入っているかもしれないお茶を飲んだりと、まったく部防備で、ぞっとする。 (*登場人物の名前は仮名です)
必殺「ノー・プロブレム」 「歩き始める」7月3日 キャメル・サファリ
アーメーダバードからソームナート ボンベイはロンドンの夢を見た 「オール・マーブル」タージマハル
インドの買い物

成田発→バンコック→デリー

デリー→ジョードプル→ジャイサルメール→ジョードプル→アーメーダバード→ヴェラワル(ソームナート)→アーメーダバード→ボンベイ(当時:現ムンバイ)→アーメダバード→ウダイプル→デリー→アーグラー→デリー

デリー→バンコック→東京





 1 デリー
 2 ジャイサルメール
 3 ジョードプル
 4 アーメダバード
 5 ボンベイ(当時:現ムンバイ)
 6 ヴェラワル(ソームナート)
 7 ウダイプル
 8 アーグラー
必殺「ノープロブレム」


 インド人は何かというと「ノー・プロブレム」だ。no problem…問題ない、という意味だけど、「OK」とか「大丈夫」みたいな感じで使っているみたい。ただし、「大丈夫」なのは、言っている本人にとって、という場合がほとんど。

 たとえば10ルピー50パイサの買い物をしたりすると、「ノー・プロブレム」といって、10ルピーしか受け取らないけど、10ルピー75パイサ分買って、11ルピー出すと、「ノー・プロブレム」と、25パイサ分のお釣りは戻ってこないことが多い。(100パイサ=1ルピー)列車が遅れても「ノー・プロブレム」、扇風機が壊れても「ノー・プロブレム」。こっちに余裕がない時には、ちょっとイラつく。いつか使ってやろうと思っていたが、ある日とうとうチャンスがきた。

 いつものように2等列車は混んでいた。私は早々に寝台兼荷物置き場の上段へ昇っていたが、とうとう下の席がいっぱいになって、男の人が昇ってきた。私は横になって手足を伸ばしていたが、起きあがってあぐらをかいて、彼のためにスペースを作った。下の席に座っていた紳士が私を見上げながら言った。
 「マダム、あなたはレディーだし、もしあなたがイヤなら、彼を追い出してもいいんだよ。下に降りて、私の席に座ってもいい」
 「サンキュー・サー。ノー・プロブレム」
 へへっ!   

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「歩き始める」7月3日


 「ニューデリーなんて東京と同じ、ぜーんぜんつまらないよ」
 インドに行く前に、さんざん聞かされていたから、ニューデリーにはあまり期待していなかった。国際空港からバスで着いたところは、コンノート・プレース、という、ロンドンのピカデリー・サーカスにも似た商店街。
 空港の周辺や途中で、日本の感覚でいうと浮浪者みたいな人たちを見ていた私は、はっきりいって安心しちゃった。まぁニューデリーから、だんだんインドに慣れていけばいいやってね。

 朝も早かったので、空港からのバスで知り合ったS井さんという日本人女性と、『地球の歩き方・インド』(主にバックパッカー向けの、有名なガイドブック)を片手に、のろのろ歩き出した。

 し、しかし、うー何? このにおい…。ピカデリー・サーカスまがいの町並みに満ちている、このにおいは…うっうっうっ…ウシだぁ!あそこにモソーと白っぽく見えるのは牛ぢゃぁないの。ここにも、そこにもいる。あんまりガリガリで山羊みたいに見えるけど。
 コンノート・プレースを少しはずれると、アスファルトの路はもうほとんどなくって、土の道になっているんだけど、牛のンコが、ポタポタ落ちていて、その近くには牛や人が同じようにゴロゴロ寝ている。なにが東京と同じなんだーっ…と思っていたら馬が来た。

 リュックサックしょって、ガイドブック片手に牛や馬にみとれている私たちは、どう見ても初々しい観光客。客引きやバクシーシ(乞食)が山ほど寄ってきて、英語やヒンディー語、アリガト・コンニチワーなんていうカタコトの日本語で、リキシャーに乗らないかとか、ホテルは決まっているかとか、わーわーとり囲んでくる。空港でインドなまりの英語(「あんだるすたんど」、「あんさる」とかっていうんだもん)にゲンナリしていた私も、とにかく彼らと会話しなくてはならない。

 「あたしおなかが空きすぎて、何も考えられないわ!」

 これがインドで最初にどなった英語。
   
   *あんだるすたんど=understand
   *あんさる=answer

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キャメル・サファリ


 今回の旅行で一番行きたかったのは、砂漠。仏教の聖地より、ガンジス川より、黄金に輝く砂漠の夕日が見たかった。とにかく体力のあるうちに砂漠に行こう!

 私とS井さん、ラクダ2頭とキャメル・マン(ラクダの運転手)2人で、1泊2日のキャメル・サファリに出かけた。
 ラクダはほんとーにカワイイ!長いまつげに縁取られた瞳は、ちょっと憂いを帯びていて詩情あふれる。(でもラクダって歩きながら、ぽとぽとンコ落とすけど)
 長い脚を交互に出して歩くと、ラクダの背が揺れて、眠くなるくらい気持ちいい。でも走り出すと地獄。おしりと内股がすっかり痛くなっちゃった。
 
 それに、もうムチャクチャ暑い!日中は40度以上あるらしい。井戸を見つけた時はうれしくって、帽子に水を汲んで、頭から肩から、ザブザブかけた。近くの村の観光客めあての子供たちもびっくりして、「オー!マダム!」なんて言っていたけど、そのうちにみんなで、『大・水かけ大会』になった。
  服も髪も、日よけの6メートルの布も、水浸しにしたけど、ちょっとすると、もうカラカラに乾いちゃうくらい暑い。
 
 キャメル・マンのバールーに、「マダム、グーッド?」と聞かれると、つい「イエス、イエス」なんて答えちゃうけど、かなりへばっていた。2泊3日や4泊5日のコースもあったけど、1泊2日でやめといてよかったなぁ…。
 砂の上には、時々、動物の白骨は落ちている。こんなところに置き去りにされたらおしまいだわ。見渡す限りの荒野っていうのは、何だかゾクッとするほど美しい。バールーの独特の節回しの歌を聞きながら、体にまとった6メートルの布をヒラヒラされていると、妙にロマンチックな気分になる。
 
 ロマンチックになっても、オシッコタイムはやってくる。暑いから、水分は汗になって出て行くんだけど、何となく排泄しないと体に悪いんじゃないかなーと思ってしまう。さりとて、砂漠にはトイレはもちろん、役に立ちそうな木陰なんかない。まぁしょうかないよねー。私たちは荒れはれているとはいえ、お寺だか、お屋敷跡の建物の中でオシッコしちゃったんですねぇ。

 私があんなに見たがっていた金色の夕日は、雨期のせいで見えなかった。空は砂煙のせいか、水色にベージュを混ぜたような色で、その中に浮かぶ太陽の銀色が、だんだん鈍くなって夜がくる。私はキャメル・マンに「オレンジ・サンセット」が見たい!とだだをこねた。

 「でもマダム、今が一番いい季節なんだ。夜もそんなに寒くないし、死ぬほど暑くもない。だいたいコブラやサソリもいない」
 「えっ、コブラぁ?!」
 私たちのビックリ顔がおもしろかったのか、彼(バールーじゃない方のキャメル・ボーイ)は、何かある度に、「マダム、コブラ!」といって、笑わせてくれた。

 夜は石の少なそうな所に、毛布を一枚敷いて野宿。隣で寝ているキャメル・マンも木に繋がれているラクダも恐くなかったけど、その辺をウロウロしている野犬が恐かった。インドの野犬って、みんな病気持ちに見えるんだもん。
 それにしても、星空のきれいなこと!あんなにたくさんの星を見たのは久しぶりで、オレンジ・サンセットへの執着心もだんだん薄れていった。


 ジョードプルに戻り、ラジャスターン州営のツーリスト・バンガローで、ヴィジュー・シャルマーさんと、奥さんで日本人のトミコさんに会う。
 前に一度インド人宅への招待を断ったことを、惜しかったなぁ!と後悔していた私は、トミコさんの招待にホイホイ乗って、お家におじゃましてしまった。カーストや家族制度、お金のことなんかは、やっぱりインド人に面と向かって聞きにくい。ここぞとばかりにトミコさんに質問しまくった。

 ヴィジューさん一家はバラモンなので、食べるものは自分より階級の低い人に作ってもらうことができないらしい。そいういうわけで、レストランなどで食べられないから、旅行するときは、鍋釜を持ち歩いて、お父さん(パパジー)が料理してくれるんだって。食事は他人からサービスを受けられないけど、掃除なんかは、絶対に自分たちでしちゃいけなくて(特にトイレは)掃除婦を雇っている。
 ヴィジューさんは宝石商で、次から次へ、きれいな石をどんどん見せてくれる。もともと宝石には全然興味なかったんだけど、見ているうちに、石のパワーみたいなものを感じて欲しくなってきた。ヴィジューさんにウォークマン(ローリング・ストーンズのコンサートに行くとき、録音しようと思って買ったもの)を売っぱらい、スタールビーとムーン・ストーン、トルコ石を買っちゃった。まぁトルコ石はニセモノだったんだけど、そーゆーのもインドっぽくっていいんじゃない?
 ウォークマンの中には、ローリング・ストーンズの新譜が入っていて、ヴィジューさんが「It makes me crazy」って言ってくれたのが嬉しかった。

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アーメーダバードからソームナート


 S井さんと別れてアーメーダバードに着く。アラビア海の海岸に行くには、どういうルートを使ったらいいのか、観光案内所に相談に行く。そこで見せられた英字新聞には、「アーメーダバードで暴動!戒厳令発令」と書かれていた。かなりヘビーな言葉の壁を乗り越えて、ヴェラワルという海岸に行く方法を教えてもらった。案内書のオフィサーは、「戒厳令が出ているから、列車の時間までじっとしていなさい」と言っていたけど、私にそんなことができるはずがない!街へ出て、屋台の果物売りを冷やかしたり、宝くじを買ったりした。
 おもしろかったのは、タイプライティング屋さん。

  「イクスキューズ・ミー。これ、ヒンディー語のタイプライター?」
  「いや、グジャラーティー語(アーメダバードのある、グジャラート州のことば)だ。」
  「日本の友達に手紙を出したいから、グジャラーティー語で打ってくれない?」 
  「マダム、あんたグジャラーティー語、しゃべれないだろう?」
  「あなた、英語もグジャラーティー語もわかるでしょう?私、英語で話す。あなた、それをグジャラーティー語に訳して打つ。OK?」
  「ダメだよ。マダム。まぁ、ここに座んなよ」 
 タイプ屋さんはそういって、自分の打っていた紙を抜いて、他の人にタイプライターをまかせると、私にとくとくと、いかに翻訳が難しいかと説明し始めた。
  「うん。わかった。忙しいのに、邪魔してごめんね。グジャラーティー語のタイプで失敗した紙があったら、くれないかな?」
  「どういたしまして。私は失敗しないからね。あげられる紙はないんだよ」
 
 タイプ屋さんはウインクしてそう言ったけど、無理にでも1枚もらってくればよかったかな。


 ヴェラワルに着く。ヴェラワルは、アーメーダバードのグジャラート州・ツーリスト・インフォメーション(観光案内所)で、推薦された場所。ヴェラワルからちょっと行ったソームナートというところに、有名なヒンドゥーのお寺があるらしい。
 ヴェラワルの駅からソームナートの海岸までバスに乗る。ヴェラワルはイノシシがゾロゾロいるような田舎町で、日本人が珍しいらしい。駅からバス停までの1kmの間、ずっと子供達に石をぶつけられた。
 
 インドに着いて、そろそろ10日。リュックサックの荷物がだんだん面倒になってきた。ウォークマンや電池は売っちゃったけど、後はみんないるものばっかりだしなー…。何か捨てるものは…。あ、トイレット・ペーパー捨てちゃおうか。
 インド式トイレは紙を使わないから、田舎に行くとトイレット・ペーパーは売っていない。売っていても日用品じゃないから、高いし、紙質もよくない…っていうので、わざわざ東京から1巻き抱えてきていた。でもこんなのいらないや。インドに来たんだから、インド式でやればいい。捨てっちまおう!
 
 インドのトイレっていうのは、和式のトイレみたいに陶器でできていて、いわゆる金隠しがない。足を置く場所が決められているのもある。後ろの方に水道の蛇口と、水を汲むカップ(プラスチック製が多い)がある。お仕事をした後、後ろの蛇口に手を伸ばしてカップに水を汲み、それを右手に持つ。左手で洗い流すようにして、お始末する。私なんか下痢気味だったせいもあって、最初からぜーんぜん抵抗感なし。なかなか行き届いたお始末で気持ちよかったです。(あ、でも帰国してから私の左手の先例を受けた皆様、お元気ですか?実は私、日本に帰ってきてからも、2週間ほど、下痢をしていたのよね。疑わしいは病院に行ってみてね。)

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ボンベイはロンドンの夢を見た


 ボンベイはインドじゃない。ロンドンだ。リキシャーがいない。牛や馬がいない。蝿がいない。裸で歩いている人がいない。ビルが建ち並んでいる。
 ボンベイではYMCAに泊まる。せっかくだから、久しぶりに清潔な西洋式トイレで、今日は絶対にここでンコしてやるぞ!と誓う。相変わらず下痢気味だから、決心するほどのことじゃないけど、これをつかわなきゃもったいない、っと思っちゃう(ああ、それにしても嫁入り前の娘の書くことじゃないよね)。

 本当に、何から何まで英国的でおどろいてしまう。エレファンタ島への船旅以外はほとんどインドを感じなかった。音楽だって、ポール・ヤングとかロッド・スチュワートなんかで、レゲエなんかもかかっていたのに、インド音楽はほとんど聞かない(インドでレゲエを聞いたのは、ボンベイだけ)。
 町行く女性も、サリーやパンジャビー・ドレスを着てはいるが、あか抜けしている。人の感じが、インドの他の町とは全然違う。

 たとえばナンパのしかたが全然違う。
 インド人の男の魅力というのは、まず、あの哲学的、または詩的で仰々しいともいえる態度にあると思う。ヴェラワルでは、
  「僕はあなたをソニアと呼びたい。ソニア、君に詩を捧げよう。君の瞳は海のよう(アラビア海は茶色かった)。君の顔は満月のよう(悪かったな、どーせ丸いよ)…」
 なーんて感じだったし、ヴァロードラでは、私が亡くなったビルマ人の恋人に似ているとかいう、お涙頂戴物語を聞かされた。ハッキリいってダサイ。でもインド人の目って、グリグリ大きくて、神秘的で、そういうセリフに負けないんだよね。

 ところがボンベイの男、これが軽ーいんだー!レストランのボーイさんは、
  「ハーイ、ぼくデレク。何かあったら、いつでもデレクを呼んでね」
 といって、ジャニーズばりの1回転ターンをしてくれた。ボンベイ大学の近くでは、2日続けて同じ人にナンパされたけど、これが本当に渋谷あたりの「カーノジョォ、お茶しない?」と、そっくりなのだよ!
『シュガー&スパイス』というホテルの前にいたお兄さんとも、映画に出てくるみたいな会話をしてしまったし…あ、ナンパ自慢しているんじゃないのよ。外国人の女の子が1人でフラフラしていれば、必ず声くらいは掛けられます。(男の子はフラフラしていると、ハシシか女の子を紹介されるそうです。)

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「オール・マーブル」タージマハル


 タージマハルを見にアーグラーへ向かう。
 デリー発の汽車の予約がとれなかったので、ニューデリーから6キロほど離れたニザームウッディーン駅発のアーグラー行きに乗る。(ニューデリーからニザームウッディーン間のバスは、車掌が来なかったので、無賃乗車してしまった。)
 
 ニザームウッディーン駅で、ラリタ・サンタグナムさんと、そのご主人に出会う。アーグラーには、日本が出資したJARMAという、ハンセン病の医療機関がある。ラリタさんは、そこにある病院に入院している子供達に、勉強を教える教師で、ご主人は医師。日本の仏教団体に招待されて、5月〜6月と日本に来ていたせいもあって、私に何かと親切にしてくれた。オート・リキシャー(自動三輪車)代やコールド・ドリンクのお金も出してくれた上に、ラリタさん達は毎日見ているタージ・マハルのガイドまでしてくれた。

 タージ・マハル!

 インドの寺院やお城は、どれを見てもあんまり立派すぎて、だんだん私は感動しなくなってしまっていたが、タージ・マハルだけは、さすがにビビビときた!
 タージ・マハルは17世紀の王様が、亡くなった后のために建てた巨大な墓(まったくお城にしかみえないが)で、全部白い大理石でできている。太陽の光にキラキラ反射する美しさは、私には書き表すことができないので、他の本を読んで想像するか、できたらインドに行って見てきてください。

 ラリタさん「ここ、触ってみて。これ、オール、マーブル(全部大理石)」
 わたし  「ヘェーッ!」(と、すべすべの壁をなぜる)
 ラリタさん「この彫刻、オ〜ル、マーブル」(すべすべ)
 わたし  「おーる、まーぶる!」
 ラリタさん「この柱もオール、オール、オーール、マーブル」(すべすべ)
 わたし  「おお。おーる、おーる、おーる、まーぶる〜!」(すべすべ)
 
 ガイドといっても、ラリタさんもご主人も、英語が得意ではない私のレベルに合わせてくれたのか、3人で「オール・マーブル」(すべすべ)を繰り返すだけであった。

 その夜は、ラリタさんの家で夕食をごちそうになった。

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インドの買い物


 アーグラーからニューデリに戻る。いろいろな所をまわってくると、やっぱりニューデリーは都会だ。猿も山羊も猪もいない。まるで東京みたい。

 あとは日本に帰るだけ。航空券は1か月のフリーチケットだから、8月2日までは使えるんだけど、ぜんぜんかからないインドの電話のせいで、予約変更は時間切れ。結局予約確認をするのが精一杯だった。
 それにしても、たった3週間とはいえ、インドに来てから、ずいぶんとタフになったみたい。生水をガブガブ飲んで下痢はしているけど、なんだか元気!ニザームウッディーン駅ーニューデリー駅間も、リキシャーワーラー(人力車の運転手)と5ルピー、10ルピー(当時ルピー約13円)くらいでもめて、結局、他の人のリキシャーに相乗りさせてもらった。もう後の予定もないし、ゆっくり買い物するぞー!

 インドの買い物、これがまた大変なんだ。なにしろ定価というものがないから、気長に交渉しなきゃならない。ふっかけられているな〜とわかっていても、列車や日没の時間が気になって、つい高い買い物をしてしまうこともある。でも今日こそがんばるんだ!

 まずは偵察。コンノート・プレースの政府直営店へ行く。ここはおカミの店だから、そんなにふっかけないはずだ。あ、貝殻でできたバッグがある。これ、ジャイサルメールで350ルピーで売っていたんだよねー。うーん…。

 ニューデリーでは唯一のスーパー・マーケット(ここでは定価がついているので、値段の交渉をしなくてもいい)で、インスタント・ラーメン(「ジャパニーズ・ウエィ」を書いてある!)や、タージ・マハルの紅茶、果物などを買い込んで、その日は終わり。

 次の日は、地下にあるエアコン付きの商店街へ。原宿で4,500円で売っていたポシェットが50ルピーで売っている。そこへインド人紳士がやってきて、ビーズのセカンド・バッッグを指さした。

  「これいくら?」
 おお、英語だ!インド人の値段の交渉のしかたを知りたかったんだけど、いっつもヒンディー語や各州語だったから、わからなかったんだよねー。今日は英語だから、ゆっくり勉強させていただきましょう。
  
  「80ルピーです」
 え、政府直営店では、似たようなものがたしか100ルピーだったぞ。
 
  「最終的にはいくらなんだ」
  「これが最終的な値段ですよ、マスタル」
  「40ルピー」
  「無理です、マスタル。70ルピー」
  「無理じゃないさ、45ルピー」
  「65」
  「45だ。そのかわり4個買うよ」
  「ダメダメ。10個買ってくれなきゃ45にでみません。4個って、どなたに買ってあげるんです?そのマダムにですか?」 
 と、店員が、そばでつったって眺めている私を指さした。
 
  「だと、いいけどね。45だ。それ以上なら買えないな」
 インド人の紳士はそう言って、後ろを向いた。客が帰ろうとするとき、「マスタルゥ〜」と甘い声をかけて引き止めるのが普通だが、65ルピー以下では売る気がないのか、店員は何も言わなかった。なるほど、こういう風に押していくんだー。しばらく商店街を歩いていると、きのう政府直営店に置いてあった、貝殻のハンドバッグがある。ちょっと貝殻の質が悪いみたいだけど。
 
  「これ、いくら?」
  「150ルピーです、マダム」
 えーっ、ズッルーイ!きのうの政府直営店の人は250ルピーだっていったのにぃぃい。そりゃーこっちのバッグの貝殻が黒ずんでいるし、傷もあるけど、100ルピーも差があるなんて!どうせこの店のおやじだってふっかけてきるに決まっている。
 
  「最終的にはいくらなのよ」
  「これが最終的な値段ですよ、マダム」
  「70ルピー」
  「無理です」
  「無理じゃないでしょう。75」
  「無理です」
 
 不可能な値段なのか、私が帰ろうとしても引き止めもしなかった。あの分だと、交渉しても100ルピーくらいしか落ちないから、どうせ買うなら政府直営店のバッグの方がいい。私は再び、政府直営店を訪ねた。あ、いたいた、きのうのお兄さんが…。
 
  「こんにちは。私を覚えています?」
  「もちろん。今日もまた来てくれたから、貝殻のバッグ、特別なお値段で売りましょう。215ルピーでいかが」
  「125」
  「はっはっは。マダム、それは無理ですよ」
  「125よ。私はエアコンつきのマルケットで、それと同じものを見つけたの。125ルピーだったわ」
 本当は150ルピーだったし、品質はかなり落ちるものだったけど。
  「同じじゃないでしょう。マルケットなんかで売っているものとは、品質が違うはずだ」
  「ふふん。そういうと思っていたわ。どういう貝殻がいいのか説明してみてよ」
  「オーケル、マダム。まぁ座ってお茶でもどうぞ」
 
 インドでは買い物の交渉が長引きそうだと、お茶をごちそうしてくれる。といっても、インドミルクティー、「チャイ」は、50パイサか1ルピー(当時)くらいで、観光客の落とす金額に比べれば、たいしたことはない。でも、政府直営店のお兄さんは、ちょっと贅沢品のコールド・ドリンク(2.5〜3ルピー、当時)をごちそうしてくれたので、私も少し驚いた。
 貝殻の説明をたっぷり聞いた後も、私は125ルピーしか払わないと主張した。お兄さんはちょっとくたびれたみたい。
 
  「マダム、僕は日本人が好きだ。日本人はマイ・フレンドだ。アメリカンやフレンチとは違う」
  「あなたは日本人が好きでしょうよ。日本人は、みんな私みたいに英語がヘタだし、単純ですぐだまされて高い買い物をするもの。あなたは250で私にバッグを売ろうとした。私は同じものをマルケットで見た。それは125ルピーだった。私は悲しいし、頭にきている」
 自分でもよく言うなーと思ったけど、眉間にシワを寄せて、女優しちゃた。
 
  「オーケル、125でいいよ」
  「タンキュウ!」
 他の店員が(125?)とブツブツ言っていたけど、私はニコニコして持ち帰った。お兄さんは、あなたはユニークでスィートだってほめてくれたけど、他のものは何ひとつ買わなかった。でもお兄さんとは握手したいような気分だったよ。

[終]

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